2017年11月18日
ラパロ条約と密約 大幡
話しは1920年代の後半、ナチスが政権をとる数年前のことである。ドイツのバルト海に面する港に、厳重に封印されたコンテナーが届いた。中身は試験飛行に失敗したパイロットのなきがらであり、ラパロ秘密協定により、ソ連領内で行はれた、飛行機・戦車等武器の開発・試作試験の一端による。
当時敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約により、再軍備には厳しい制約があり、この密約が無ければドイツ軍の再建はかなり遅れたであろう。この知見戦争中「海と空」によるものであり、この認識半世紀以上眠ったままであった。
この歴史は1922年、バルト海を遠く離れた地中海ゼェノヴァ湾に面した、イタリアのジェノアに始まる。第一次大戦敗戦によるヴェルサイユ条約の、苛烈な賠償総額1320億マルクの重圧が、敗戦後三年復興期のドイツ経済にのしかり、その不履行を理由にルール一帯が連合軍に占領されたり、上シレジアの一部がポーランドに割譲される様であった。
高まるドイツ側の不満と、革命後の混乱が続くソ連問題を議題として、ジェノアの地で国際会議が開かれることになったが、当時の国際情勢を整理してみると。
・ ソ連は帝政時代の外国公債と戦時の援助物資の変換等併せて約140億ルーブル(1970年当時の200億ドル)の負債を抱えていた。
・ ソ連はヴェルサイユ条約に招かれず、対独賠償権が保留されていた。
・ ソ連以外の連合側では、革命政権はいずれ崩壊し穏健な政府が出現すると、希望的見通しが支配していた。
・ ロシアの対外債権の大部分をフランスが占めていて、ソ連の対独賠償権を戦後返済能力の無い対ソ連経済援助の担保とみなし、これにより独・ソの接近を妨げようと目論んでいた。
・ ドイツは西側との連携の大勢と、ソ連と連合の少数との二派に分かれていた。
このような情勢の中で、1922年バルト海を遠く離れたイタリアのジェノア(モナコに近い)で国際会議が始まった。主な議題は(A)ドイツ賠償問題(B)ソ連の経済問題であったが、ポアンカレー(仏)とロイド・ジョージ(英)は議題(A)を除外することに同意していた。当時の国際世論では野蛮な好戦国ドイツ、流血で手の汚れたボルシェヴィキ、この見苦しい二つの大国がジェノアで仲間入りを許されるか、どんな態度をとるか固唾を呑んで見守っていた。
一方ドイツでは少数派ながら、ソ連と対等の経済協力を図る交渉が、ベルリンでひそかに進展していた。会議が始まると即ソ連問題に入り、関係ないとして独代表団は議場から締め出され、ソ連もこれに同意した。独側は孤立感と更なる賠償におびえていた。
会議が進行して、ソ連はいかなる国とも対等な立場で、経済協力をやる用意があると明白にし、更に全世界の軍備縮小を提案、世界が同意するなら赤軍の全面解体する用意があると、大見得を切り、国際世論を味方につけた。
ソ連代表団はジェノア東方30キロの漁港、ラパロに停泊しているイタリアの駆逐艦に本部を当てていた。ドイツ側からの接触は不可能である、会議が数日進行する中、ソ連側からドイツ側に、ベルリンでの試案を進めようとの話が来た、今にも死刑宣告に近い窮地に立たされるドイツ側、ためらう余地は全く無い、すぐさまラパロの漁村で仕上げの会議が始まり、紆余曲折はあったがその日のうちに、ソ・独国交回復条約が調印され、ソ連の計らいでささやかな祝宴が催された。
この発表にロイド・ジョージらは激怒したが、後の祭り、ロシア・ドイツの厄介者を封じ込めようとのカラクリの裏を見事にかいてしまった。英仏側の怒りはすさまじく、平素冷静な「タイムス」誌でさえ「英仏を愚弄するものであり、断固たる措置をとるべきである」と悔しがった。
一方ワイマール共和国では成立とともに独・ソ協力の機運が高まり、ゼークトを頭とする軍部の対ソ接近はすばやく、ヴェルサイユ条約が禁じた武器の製造・実験をコッソリ始めていた。しかもその資金について、当時のヴィルト首相、政府としては表面的にははねつけていたが、裏資金の通を付けだんまりを続けたという、なかなかの人物であった。
そして、ソ連には「両国が交友関係にあるときだけ、両国はもちろんヨーロッパは平和を享受することが出来る」また「ドイツ経済にとって広大な市場となるのだ」と、西側の結束にすこしでも楔を打ち込めればとの思いと。ドイツにとってロシアぐるみの包囲網を崩せればとの利害一致が、ラパロ条約成立の最大要因であるが、ソ連当局の巧みな外交力なくしては実現しなかったであろう。
第一次大戦ドイツは寸土も侵入を許さず、戦場では負けていないととの意識が強く、過酷な賠償がドイツ民族の強大な反発力を生ぜしめ、ヒットラーの台頭する前から、産軍一致の再軍備江の強い動きがあった。そして、ラパロ条約の密約が大いに効果を上げたのは、その後のヨーロッパ状勢のっ示すとおりである。
少し話をさかのぼるが、冒頭の密約の存在と棺のこと「海と空」で、第二次大戦中に承知していた「ラッパロ条約」としてだが、半世紀以上たって密約の正体どれ程のものかと、興味がわいて調べ始めたが関連資料が全く見つからない、20年ほど前、港区の図書館で広辞苑並みの分厚い「ドイツ関連辞典」にも見当たらない。ない筈である「ラッパロ」ではなく「ラパロ」と「ッ」の一字が邪魔をしていたのだ、どんなキッカケかはすっかり忘れてしまったが、平成15年県立熊谷図書館の書士が、かなりの時間をかけて「世界」の昭和37年6月号「独ソ関係の一こま・ラパロ条約40年」の記事を見つけ出してくれた。本稿の大分はこれによる。
密約に戻る、とにかくドイツ軍部の兵器開発の全貌がソ連に筒抜けである、ここにはドイツ人のロシア人に何が出来るものかとの、油断があったのであろう。そして、グスタフ・マンネルハイムの指揮と、スキーを駆使したフィンランド兵士はソ連軍を翻弄した。この様を見たドイツ軍の将領達はソ連軍を極度に軽視し、そのうえナポレオンの故事を無視して、冬服を用意することなくモスクワに突進し、やがて冬将軍のとりこになり、次ぎ次と現はれるT−35戦車ヤクー17地上攻撃機に押し捲られ、東部戦線崩壊の有様は大方の人が承知の通りで、第二次大戦ドイツの敗北はソ連軍なくしてはありえないことである。針小棒大だがドイツの敗因色々あるが、ラパロの密約無くしては有り得ない、そして、ドイツのこの失態なかりせば日本の惨敗も遥か先のことになったかもしれない。しかしわが国にとって良いかどうかは分からない。
2017-11-18
ラパロ条約と独ソ不可侵条約
http://www.hayame2.sakura.ne.jp/new1003.html#ラパロ条約
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/181604358
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/181604358
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック