2017年11月20日

辻将曹・維岳



芸州藩の大政奉還建白書提出、植田乙次郎

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1823-94

 ヨットを広島に置くようになってから1年余になります。その間にカ−プが2度も優勝する。そのおかげで、なじみのスパが感謝セ−ルをして、露天風呂が無料になり、ささやかな恩恵を被っています。広島は小生の数ある第2の故郷の一つとなりつつあります。
 龍馬暗殺に関する雑誌の記事に、大政奉還後に会津・桑名藩が元に戻すべき行動を起こしたと有ります。両藩が作った暗殺者リストの中に龍馬があり、それは残念・不幸にも実行された。薩摩の西郷、大久保、小松はそのことを知り急遽帰国して難をまぬがれた。また、芸州藩のリストに辻将曹と植田乙次郎があげられている。両者とも知らない人物だったので興味を持ちました。芸州藩の大政奉還建議があったのも驚きです。

 辻将曹は明治2年に永世禄400石を賜った。新政府の参与となったが明治3年に政府の職を辞任した後は政府の中枢にすえられることはなかった。そのせいか、彼は世に余り知られていない。
 辻将曹の祖先は、田中吉政に仕えた辻重勝が関ケ原戦いで東軍に属し、石田三成配下の杉江勘兵衛を討ち取っている。田中家が断絶のあとに浅野家に仕えた。 辻将曹は一二〇〇石の家督を継承する。上級武士である。彼は藩内の改革派であったが失敗続きであった。藩主が浅野長訓になった時に、家老・執政として抜擢され藩政改革を行う。

 芸州は関ケ原の後に福島正則が入封する。ほどなく転封されて浅野氏が入った。豊臣政権で五奉行の要職を務めた浅野長政の続きで、外様であるが将軍家とは婚儀を結んでいる。徳川家から信頼されて要所をまかされた芸州藩であるが、長州攻めの先鋒を拒否して、幕府側につくことはなかった。 藩の参政をしていた辻将曹は幕府から目を付けられ謹慎を命じられている。ほどなく許されて彼は第二次長州戦争の和平交渉を勝海舟と行う。後に、辻将曹は勝に周旋の才をほめられている。辻将曹は和議後に起きた討幕の気運に同調して薩長芸の討幕3藩同盟に参加した。

 土佐藩が大政奉還の建白書を提出した翌日には、芸州藩も続いて提出する。土佐藩は幕府を支えるのが目的であるが、芸州のは拒否されれば討幕すればよいとのものだった。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩の独断専行・突出として芸州藩は兵を出さなかった。結果的には日和見行動と見なされて、後に参加した土佐や佐賀の後塵をあびることになる。薩長芸の藩閥政治が維新後に起きてもおかしくないほどの芸州藩の位置であった。

 明治23年にもなると明治は落ち着いて見直す気分になったのでしょう。辻将曹は元老院議員に任じられ男爵に叙され華族となる。 彼は薩摩と土佐の意見が対立したときに、土佐の後藤象二郎らをなだめて討幕の方向にまとめた功績があったが、彼は維新後にはきらびやかな役職につくこともなく、困窮する士族の授産事業をすすめた。

   植田乙次郎  1825-1893

 幕末の安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により文久3(1863)年武具奉行,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,元治1(1864)年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。慶応2(1866)年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。翌3年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,山陽道の旧幕領の接収に当たった。

2017-11-19





  4境の役 芸州口の合戦 和木を訪ねて
  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-316

  4境の役 大島口の戦いと久賀(くか)
  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-46









posted by 速魚 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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