風船爆弾で象徴される陸軍登戸研究所は、現在その中枢部が明治大学生田キャンパス(川崎市)となっており、その一角に当時を偲ぶ記念館がある。
たまたま、熱海で碁の催しがありその帰途を利用して尋ねてみた。小田原で小田急に乗り換え生田駅で下車、線路沿いに徒歩15分程で、キャンパスの裏口に瀟洒な建物があったが、左手奥の守衛所で案内を乞い言はれるままに、標高差20mほどの急坂を登り台地の上に立つ、久しぶりのことでしっかり汗をかいた。案内板があり記念館は構内の最も奥まったところにあり、徒歩7〜8分、秘密戦にふさわしい暗灰色のコンクリート一階建て、周りの校舎に比べ小さな倉庫と言った佇ずまいである 当時、研究所の殆どの建物が木造の中、少ないコンクリート造ずくりであり、構内の片隅であったことが幸いしてか、当時の姿をとどめる唯一の存在である。

写真 (B)
この研究所は、銃弾の飛び交う前線に対し、後方の物資の調達・通信・治安の維持、更には敵方の後方撹乱など余り注目されることは無いが、必要不可欠で複雑多岐にわたる業務があり、秘密戦とも呼ばれる。これらに憲兵や特務機関員、陸軍中野学校で養成された工作員等が当たり、この業務に必要な資財機材の研究開発と、供給を目的として開設された。
昭和12年日支事変が始まると、戸山ケ原(新宿区)で研究していた通信の実験場として、生田台地(川崎市)に開設され、戦線の拡大長期化につれ、業務も増大組織も拡大していった。また謀略・破壊工作等の性格上意図的に秘匿され、一般に知られることが全く無かった。


地図 2点
登戸研究所時代の建物配置図
現在の配置図
その機構は4科16班、関係者も数十人から1000人余に膨張した。昭和19年の組織図を見ると
第1科4班 風船爆弾、ラジオゾンデ・通信、怪力電波、人工雷
第2科7班 防諜機材、毒物兵器、諜者用カメラ、対植物謀略兵器
第3科4班 紙幣・証明書等の偽造・分析・鑑識
第4科1班 上記研究品の製造
この内容から、昭和12〜16年日支事変期と16〜20年の太平洋戦期に大別され、研究の内容・軽重に大きな変遷があったと思はれる。前期に戦争は支那大陸に限定され,研究の主力防諜関連は世界に広がっていたが、16年対戦勃発とともに、世界との交流は完全に閉ざされ全く違った世界となった筈である。
防諜・諜報・諜略については、対支・対ソ・対欧米とその性格が分かれ、交通・通信の途絶等複雑であり省略する。
又、怪力電波・人工雷については、昭和初期殺人光線として空想科学小説にしばしば登場したが、当時のマグネトロン(周波数変換)のレベルでは到底実現不能の夢物語であり、現在の知識から見れば笑止千万とも言えるが、当時はかなり本気だったのかな。
スパイ関連の小型カメラ・耐水マッチ・証明書の偽造等少々「007」的で、上海等の魔窟辺りの心象風景で、実際にどれおどの活動場面があったのかと思う。
薬物・毒物の研究、伝単の印刷 中国戦線の後方撹乱のため、家畜類の毒殺・食用植物の枯死、敵方の要人の毒殺等を目的として、諸種の薬物が開発されたが、その実効面については余り語られていない。更に毒物関係も731部隊との関連も有ってか、具体的記述に乏しく語るものが無い。
余談だが、青酸ニトーリル系の遅効性毒物の人体研究が、昭和16年頃南京病院で行はれたが、戦後昭和23年帝国銀行椎名町支店で、厚生省技官を装った犯人が行員12名を毒殺、小切手等を奪った帝銀事件の捜査段階で、その毒物が登戸研のものではないかとの疑念が起こり、多くの人が捜査対象になった、とんだ副作用である。このおり研究内容が深く証言され、後に記念館設立のキッカケともなった。
日本軍は兵器以外の物資ついて現地調達の方針をとってきた、初めは軍票・日銀券・アヘン専売により取得した中国法幣を当ててきたが、戦線の拡大とともに軍票等は信用されず、法幣の偽造で対処してきたが、昭和16年英領香港を占領、中国国民政府造幣所の印刷用原版と大量の原紙手に入れ、登戸研に送り本物そのものの偽札を、無制限に印刷することになった。

写真 (G)
これまでに蒋介石重慶政権側の経済を混乱させようと、対立する汪兆銘の南京政府に中央儲備銀行を設立、儲備券を発行全土に普及させようとしたが、軍事支配地域に限られ期待したほどの効果は得られなかった。
この制約を乗り越えようと現地のアウトサイダ−(闇勢力)との連携がとられ、さまざまな裏話があって然るべきだが、小生のレベルでは発掘のてだてもない。
しかし、重慶政権も巨大な軍備を調達するため、奉幣の印刷を増大させ、1937年(昭和12年)の発行額14億元が44年には1894億元になり、日本が発行した偽札は1%の45億元に過ぎず、殆ど何の影響も与えなかったが、37年の各種の物価指数100に対し、44年には5700と凄まじいインフレを招き、中国民衆を大いに苦しめた。
日本軍の食料などの現地調達が時に暴力を伴い、物議をかもしているがこれも一時・少量はまかなえても、師団規模となれば貨幣による商業的な調達以外に無い、そのための偽札である。44年4月の大陸打通作戦時には兵士に給料として支給され、それなりに通用したと思はれる。但し、発券の裏打ちは敗戦後、蒋介石の無賠償決議によりウヤムヤとなったが、日中国交回復時に、どのような裏取り引きがあったかまでは、この項の主題を外れるのでここまでにする。
余談だが、現地調達は日本だけではない、映画「戦火の馬」に第1次大戦時ドイツ軍の所業に、かなりのスペースがさかれている。現池住民を組織的に徴用して、大規模な農園を展開していた、そしてアメリカは完全自給の体制をとる唯一の国であるが、唯一つ自給できないものがあり、それは戦地での性処理である。ベトナム戦を題材にしたいくつかの映画に出てきた、余りに多いので具体例を示せない。そして日本の敗戦後の風景、ドウス昌代著「貧者の贈り物」に詳述されている。
そして風船爆弾、「東両国ー3」に一部を取り上げ、殆ど対費用効果ゼロと切り捨てたが、一応の成果が有ったとも言える記述があったので紹介する。

(図) アメリカ軍に確認された風船爆弾
最初の風船爆弾は、昭和19年11月3日明治節を期して、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来から一斉に放たれた。それぞれに15キロの爆弾と、数個の焼夷弾を搭載し、翌年の4月までに9300個が放球された。アメリカ本土到着が確認されたのは361個だが、おそらく1000個程度が到達したと推定される。その被害はアメリカ本土は勿論アラスカ・カナダさらにメキシコに及び、至る所で原因不明の火災が起こり、20年3月ワシントン州ハンフォード工場につながる送電線に風船爆弾が接触して断線事故となり、マンハッタン計画の研究用原子炉を一時停止させた、アメリカ当局はパニックをおそれてこの情報を公開しなかった。
この放球作戦が11月〜3月に限定されて行はれたのは、偏西風という気象条件によるものであろう。

(図) 太平洋上の冬の偏西風予想図(風船爆弾の飛行経路)
放たれたばかりの風船爆弾の姿はしなびた茄子と言うところだが、まず気球内に水素ガスを60%程度に満たして基地から放ち、上昇するにつれ外気の気圧が低下してガスが膨張し、高度4500m程度で100%まで満たされ、立派な球形になり上昇を続け、予定高度に達するとバルブからガスを放出して、偏西風に乗って太平洋上を東へ移動し夜を迎える。気温が下がるとガスが収縮して気球がしぼみ高度が下がる、すると高度維持装置によりあらかじめ搭載された砂袋を投下し始め、高度が回復すると投下は止まる。偏西風は時速200キロほど、およそ2昼夜半かけてアメリカ本土にたどりついて、爆弾や焼夷弾を投下することになっている。

(図) 風船爆弾の全体図
戦後明らかになったが、アメリカはこの風船に細菌兵器が搭載されるのを恐れ、厳戒態性を取っていた。一方わが国でも細菌兵器として牛ウイルスなどを用意して「最終兵器」と呼んでいたが、最後の段階で爆弾に切り替えた。若し実施した場合「わが国の稲の収穫期に焼却される恐れがある」とする東条英機首兼相陸軍大臣の判断で、中止されたとする説があるが、その任期と照合して真偽の程不明である。
一方この時期には、天皇も参謀本部も敗戦を予期しており、その報復を恐れていたと言う、とすると、19年秋にはその意識が最高指導部にあったとされる。もっと早く少なくともドイツ降服時か、沖縄陥落時停戦できなかったものかと悔やまれる。
余談だが、戦後ワシントンのスミソニアン航空博物館でV2号ロケットとともに風船爆弾が「最終兵器」として展示された。又海軍でも潜水艦でアメリカ本土に近づき、洋上から放球することを研究していたが、潜水艦不足から計画が中止された。
さて、この作戦昭和19年9月30日大本営で実施が決定され、11月3日に放球開始されたがその素早さは驚異的である。先ず、市中から和紙とこんにゃくが姿を消し、日本各地の造兵廠、民間の工場・学校の体育館で、気球の外皮よなる原紙作り(こんにゃく貼り)が始まり、広い空間のあるデパートや劇場さらに国技館等で、ガすを入れる満球テストが行はれたと言う。姉「和子」が国技館に動員され、この作業に当たったと聞いたが、まん丸にふくらんだ10mの巨大な風船を目にしたとまでは聞いていない。わずか1ヶ月でとはかなり無理である、相当前からの準備が必要であるがその点定かでない。

写真 (C)
一方、中国経由で昭和20年2月の新聞に、風船爆弾の戦果を伝える記事が出た、世界との交流は電波傍受しかないと思はれていたが、以外なところに小さな窓がいていたとは驚きである。
さて、敗戦からこの記念館設立(2010)まで、半世紀を越える年月に色々な事があった。
敗戦と同時に、謀略・毒薬等の研究趣旨から、証拠隠滅が厳しく行はれたので、その存在すら世間には全く知られなかった。
1948年(昭和23年)の帝銀事件で毒薬関連の調査が進み、設立の遠因となったがしばらくは何の進展もなっかた。
1951年敷地の大部分を明治大学がキャンパス用として購入、木造の建物は空襲も受けず、大径間のトラス構造で教室に最適である。
植物用の毒薬を研究いた所に最初に出来たのが、何の因果か農学部である。
学部の増設に従い中・高層のコンクリート造りとなっていき、最後の木造建築が消滅したのは1991年頃である。

写真 (D)
一方世情では、1970年代後半から、ようやく戦中史の掘り起こしと地元史研究の気運が広がり、その教材として登戸研究所が取り上げられた。
このうねりが大学を動かして、奥まったところのコンクリート造りの一棟が、記念館に転用されることになった。
記念館を辞するにあたり、研究所の現存施設を尋ねたところ、当館の他にもう一箇所「弥心(やごころ)神社」の2つとのこと、神社は往路坂を登りきったところと確認、古びた小さな祠(ほこら)、昭和18年戸山が愿の「八意思兼神」(やごころおもいのかみ)をこの地に祀り、現在「生田神社」と呼ばれている、手を合わせて帰途についた。


写真 (E・F)
(Fの碑・昭和63年元所員有志により建てられ、裏面に
「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と戦後数十年
万感の思いが込められている。
蛇足ながら入り口の立派な建物、台地に上がるためのエスカレータだけ、しかも登り専用である。往路汗まみれの苦労は何だったのかと悔やまれた。

2017-11-21
大幡ブログ
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