2017年12月24日

御手洗(みたらい)


 ヨットにとっても天然の良港である御手洗にいきました。

mitarai 12.jpg
 

mitarai 05.JPG




mitarai 13.JPG
江戸時代の高灯篭

 帆船の時代に来島海峡や鼻栗瀬戸などの潮待、諸風を防ぐ地理的条件を備えたところから天然の良港として栄えた。
 地名の由来は神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗った伝説や菅原道真が太宰府に左遷されたときに手を洗ったという伝承から名がついたといわれています。
文政二年・一八一九年には中国第一の港と自負するほど発展した。

mitarai 01.JPG
菅公手洗いの井戸

 帆船から蒸気船の時代になり繁栄していた御手洗は衰えて江戸時代の街並みが残った。

mitarai 02.JPG
町並み保存地区

船乗りが集まれば芸州藩お墨付きの施設も繁栄する。4軒の茶屋があり、「おちょろ船」といって沖待ちしている船に出向いて営業することもあった。

mitarai 08.JPG
若胡子屋 広島藩から免許をもらったお茶屋 100人の遊女がいたという


mitarai 14.JPG


一夜の契りでも遊女にお歯黒をつけさせて女房気取りで結ぶのは男の甲斐性であった。これには莫大なお金がかかりました。
 ある日花魁がお歯黒をつけにくくて癇癪をおこして、そばにいた禿(カムロ)の口に投げつけて殺してしまいました。その亡霊が毎夜現をれて花魁を苦しめた。花魁は四国の遍路をしてつぐなったという。

mitarai 09.JPG
お歯黒事件の壁 お歯黒の手形がにじんでうかびあがるという

mitarai 11.JPG
船宿 大洲藩


mitarai 03.JPG
乙女座 これは昭和初期の劇場の復元

mmmitarai 06.JPG
満舟寺の石垣 戦国時代の石垣で海賊の施設跡ではないかと言われている
加藤清正の四国攻めの前線基地ともいわれる




mitarai 07.JPG
船宿 薩摩藩

 1863年に芸州藩は薩摩と密貿易をしていてその拠点港となる。幕末には七卿落ちで滞在した家が残っています。 吉田松陰が長崎にいくときに立ち寄り、薩長芸の討幕同盟がむすばれると大阪での討幕行動の密約といわれる「御手洗条約」がここで交わされる。 

mitarai 04.JPG
七卿落遺跡


mitarai 10.JPG
金子邸  ここで密約したという


   2017-12-24

  御手洗軍事同盟



posted by 速魚 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/181928218
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック