2018年02月16日

イビザ物語 7回    佐野

 ヴィッキ− その6 コルネリア


 誕生パーティーの大騒ぎの時、ヴィッキーが21歳になったことを知った。彼女の世慣れた言動、それにはち切れんばかりに熟れ切った身体から、なんとはなしに、私よりはるかに歳を食った、20代の後半か30に手がかかっていると思っていたのだ。
ラテン系の人は早く成長し、早く老ける…のを幾人となく目の当たりにしてはいたのだが、見事に想定年齢を狂わせられたのだ。ヴィッキーには恥じらい、可憐さのカケラもなく、その対極の堂々とした開けぴろげな押しがあった。

 彼らがパーティーから去った後は、まるで豚小屋のようだった、などといえば豚に失礼になるような惨状だった。テーブルクロスはこぼしたワイン、リキュール、ジンギスカンのタレでテーブルにへばりつくようにグッショリと濡れ、タバコ、マリファナのコゲ跡だらけだった。汚れた皿やグラス、ナイフ、スプーン、フォークは洗い場に収まらず、カウンターに積み重ねたままにして店を閉めたのだった。
翌朝、この惨状を見たカルメンおばさんは、心底から深い溜息を付き、「オ〜、マンマ・ミア!」と言ったものだ。
 ヴィッキーの誕生パーティーの総額がいくらだったのか、正確には覚えていないが、『カサ・デ・バンブー』のような小さなカフェテリアにとっては、大金だったことは確かだ。明細を書いた請求書を用意し、ヴィッキーを待っていたが、彼女はその日、店に来なかった。私は、彼女が二日酔いでぶっ倒れているだろうから、そのうち酒気が抜けたら、支払いにやってくるだろうと悠長に構えていた。
 その週末に、ヴィッキーが働いている靴屋のオーナーに銀行で偶然に会い、簡単に交わす挨拶のついでにヴィッキーのことを訊ねたところ、とても良い売り子だったけど、あまりにラリッて店に来ることが多いので辞めてもらったというのだ。その時初めて、これはもしかするとパーティーの代金を踏み倒されるかもしれないと、遅ればせながら心配し始めたのだった。
 世慣れたショーバイ人なら、パーティーを受けた時に、そのために店を一日閉めるのだから、保証金として事前にデポジットを取るだろうし、パーティー後に清算するなら、小切手にパーティーの次の日の日付けを書き入れ、預かっておくだろう。だが、すべては後知恵だ。臨時に来てもらったイビセンカの二人には、その晩の内に日当を支払っていたし、その損失はあまりに大きすぎた。
 洗い場のカルメンおばさんは年の頃30〜40代の太ったジプシーで、不平も言わず、いつも陽気に働いてくれていた。カルメンおばさんは、私がまだパーティーの費用を払ってもらっていないことをなんとなく気づいており、「タケシ、あのドロガディート(麻薬中毒)たちは、きちんと支払ったのかい?」と尋ねてきた。私の顔色が否定的なことを見て取り、「あんたに言っただろう、あの連中は悪い人間だ、ワタシャ、嫌いだと…言わなかったかい?」、付け加えて、「そりゃ、この店はあんたのモンだから、好きなようにやるがいいし、何も 私が口出しするスジのもんではないけど、客を選ばないとダメだよ」と、親身になって忠告してくれるのだった。
 カルメンおばさんは、最初からヴィッキーたちを苦い目で見ていた。素っ裸か腰に申し訳程度に薄い布(パレオ)をまとっただけで、店に出入りする女性は、全員娼婦だと信じ込んでいるのだ。そして、私がヤニ下がった表情で…と見ていたのだろう、応対するのを、危なっかしいと思っていたことは確かだ。

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透明度の高いことで知られるカラ・コンタの海岸(1988年撮影)

 週明けの朝、私はナケナシの蛮勇を奮って、請求書を片手にヴィッキーのアパートを訪ねた。ヴィッキーは『カサ・デ・バンブー』から坂道を150メートルばかり上った階段状のアパートを借りていた。そこは西陽を取り込むように建てられた避暑、観光客のためのアパートで、そこに例の三美神と住んでいることは知っていた。
 このようなアパートは、脇に玄関があるのだが、皆が西に開いたテラスの大きなフレンチドアから出入りしていた。私もテラスから、開いたままになっていたフレンチドアをノックしながら、部屋に向かって「ヴィッキー!」と呼んだところ、サロンの奥にしつらえてあるカウンターで仕切られただけのキッチンから三美神の一人、ノッポというより、ともかくすべて造りがデカイ身体の持ち主のドイツ娘、コルネリアが出てきた。しかも、素っ裸…だった。
 屋外、海岸での裸は慢性になっていて、何を見ても驚かない、裸に対して多少太い神経を持つようになってはいたが、家の中では話は別だ。おまけに私は彼女に大いに関心があり、後もう一歩で惚れ込むところだったから、突然素っ裸のコルネリアを前にしてドギマギしてしまったのだ。それまでは、彼女と一対一で話したことがなかった。突然、回りに第三者が誰もない、二人だけの時間、会話を持ったのだ。
コルネリアは赤毛に近い麻色髪の持ち主で、顔だけでなく、全身が大小のソバカスに覆われていたというより、地肌が見えないくらいありとあらゆる茶色のバリエーションのシミがビッシリ皮膚を覆っているのだ。その上、密度の濃いベージュの体毛が足以外の全身に生え、(足だけはキレイに剃るか抜くのが常識のようだ)、太振りの剣と盾でも持たせれば、そのままアマゾンの戦士ができ上がりそうだった。

 丸い青灰色の目をいつもビックリしたように大きく見開いて、話し相手の目を覗き込んでくる。コルネリアから受ける第一印象は、体格の良さ、ムチョ・クエルポ(大きなグラマー)だろう。頑丈な骨格にメロンほどもある丸く張り切ったオッパイ、そしてデーンと横、後ろに張り出した腰と尻、すべてが大雑把な造りなのだ。

 ただ、声だけは体にそぐわず、柔らかいアルトだった。話し方も静かで、当初、それは彼女のスペイン語がまだ会話を楽しむまでになっていなかったせいだと思っていたが、ドイツ人の友達と『カサ・デ・バンブー』に何回か来た時も、やはり静かなゆっくりとした話し方だった。性格がおっとりとしているのか、少し間が抜けているのか、その中間なのか判断できなかった。
 明るく直情的、情熱的といえばセニョリータたちを褒めたことになろうが、騒々しく、大げさに騒ぐセニョリータの中で、いつも静かで控えめなコルネリアが新鮮に見えただけなのかもしれない。
コルネリアの方はドギマギしている私を気遣いバスローブを羽織りながら、いとも自然に、ドイツ訛りのスペイン語で、「ブエノス・ディアス、ヴィッキーに何か用があるの? ヴィッキーは町へ降りて行っていないけど、いま丁度カフェ・アレマン(ドイツから持ってきたコーヒー)を淹れたところだから飲んでいかない」と、会話の後半は英語で誘ってきたのだ。
 私もイビサに住み始め当初、英語の方がはるかに楽だったから…と言ってもレベルの低い日常会話程度のものだったが、店に来るイギリス人は当然だが、ドイツ人、スカンジナビア人とは英語で話していた。
彼女の淹れたドイツコーヒーをご馳走になりながら、コルネリアがドイツ、ババリアの田舎町の産であること、バルセロナの語学学校で短期のスペイン語講座を受けたこと、旅行好きで、ヨーロッパはもとより中南米、北アフリカ、中近東まで足を伸ばしていたこと、それ以前に両親と何度かヴァカンスを過ごしたことのあるイビサに立ち寄り、ヴィッキーと知り合いになってこのアパートをシェアするこになった、などなどを知った。 
 私は白い封筒に入れたパーティーの請求書をヴィッキーに渡すよう頼み、店があるからと早々に引き上げたのだ。コルネリアは封筒の中身が何であるか見当をつけていたと思う。かなりはっきりと分かる同情的な目で私をチラッと見て、「確かにヴィッキーに渡すよ…」と言って封筒を受け取ったのだ。
-…つづく

 
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   2018-2-16


posted by 速魚 at 02:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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