2018年02月28日

薩摩藩第一次英国留学生


 島津成彬の構想のひとつに留学生派遣計画があった。彼の死亡により実現されず。薩英戦争が起こり五代友厚と寺島宗則は英国の捕虜となる。彼らは捕虜になったことから攘夷派から長崎で身を隠していた。そこで英国商人グラバ−と知り合いになる。薩英戦争敗北により西洋の技術をより学ぶ必要を感じ、五代友厚の上申書を契機として、薩摩藩は英国への留学生派遣の密航を企てる。グラバ−商会の船・オースタライエン号で上海を経由して英国に若者を送った。引率係と未成年の長沢を除き14名がUCLの聴講生となる。そこですでに到着していた長州ファイブと出会う。

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UCL ユニバ−シテイオブカレッジ・ロンドン大学

 約半数が経済的理由で1年後に帰国した。残留した一部はフランスへ留学、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い米国の宗教家トマス・レイク・ハリスのもとへ移る。学資がなくなった留学生には好都合であった。第二回米国留学生も加わり、いわゆる新興宗教の集団生活に加わるようなものであったので森、鮫島、長沢以外の者はほどなくハリスの元を去った。長沢は日本には帰らず、教団ブドウ園を成功させカリフォルニア葡萄王と言われている。

 留学生の中には、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている。偽善の国ともいわれるキリスト教西欧諸国の一端でも感じたのかもしれません。
 
 土佐藩士で土佐勤皇党の一員であった高見弥市は藩政吉田東洋の暗殺に関与して、脱藩して薩摩に逃亡して薩摩藩士として仕えていた。薩摩での人望・能力があったのでしょう、留学生の一員に選ばれているのは異色である。


関連年表
1858 島津成彬急死
1862 9月  生麦事件
1863 5月  長州ファイブを英国へ派遣
   8月  薩英戦争
1864 6月  五代友厚による上申書
   7月  長州井上と伊藤が帰国、禁門の変
1865 4月  羽島出港  ホンコン着
1866 1月  薩長同盟
   2月  五代友厚帰国、
   11月 広沢真臣、五代友厚、坂本龍馬「商社示談箇条書き」を結ぶ
1867     パリ万博

引率係

五代友厚・水泉蔵・ 関研蔵   1836-1885
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長崎で航海術を学ぶ、上海渡航、薩英戦争で捕虜、案内役として参加。1866年春に帰国。帰国後、外務卿、文部卿、参議。大阪で実業家

新納久脩(中三)・にいろひさのぶ 1832-1889  32歳  
一所持、伊佐郡大口領主、家老。引率者。家禄850石、英国から帰国後に家老、パリ万博参加を協議、11歳の息子をフランス留学させる。奄美大島の救世の恩人、

寺島宗則・松木弘安 1832-1893 32歳 
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 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、英語も独学で習得、幕府の文久遣欧使節団の一員、その帰国後に薩英戦争で捕虜、初代在英国公使、参議兼外務卿、




 第1次英国留学生


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【後列】1・朝倉盛明、2・町田申四郎、3・鮫島尚信、4・寺島宗則、5・吉田清成
【前列】6・町田清蔵、7・町田久成、8・長沢鼎

1・田中静洲 朝倉盛明・省吾  -1925  
英国からフランスへ転学。のちに日本初の政府直轄鉱山生野銀山の鉱山長を務める。

2・町田申四郎・実積、小松清緝 
町田久成弟、帰国後に小松帯刀の養子となる。明治5年長男清直に家督を譲る

3・鮫島尚信・清蔵、誠蔵  1845-1880
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蘭医研究生として長崎に学ぶ、1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学出後、ハリスの助言により森有礼と共に1868年8月帰国、英仏代理公使。外務次官、駐仏公使として客死、



4・寺島宗則  32歳 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、幕府の遣欧使節団の一員、
       薩英戦争で捕虜

5・吉田清成  1845-1891
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1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学後、そこを離れて大学で銀行保険を学ぶ、上野景範に随いて英国へ転出、明治3年帰国後大蔵省少輔として岩倉使節に後発合流、米国大使。米国匿名全権公使として条約改正に専念。


6・町田清蔵
町田久成弟、「財部実行回顧談」著者

7・町田民部・町田久成 1838-1897
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大目付、禁門の変に六郷隊隊長、パリ万博参加、帝国博物館初代館長、
明治22年に官を辞し住職になる。

8・磯永彦助 長沢鼎(ながさわかなえ)  1852-1934
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最年少13歳であったので、アバデイ−ンの中学に通う。資金に窮し、1867年夏に英国からアメリカ転学、後にカリフォルニアのワイン作りに貢献。生涯ハリスの後継者のひとりとしてアメリカで暮らす



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【後列】9・高見弥一、10・村橋久成、11・東郷愛之進、12・名越時成
【前列】13・畠山義成、14・森有礼、15・松村淳蔵、16・中村博愛


9・高見弥一・高見弥市・大石団蔵・松元誠一   1831-1896   
土佐勤皇党、土佐藩吉田東洋暗殺関与、薩摩に仕え高見弥一を名乗る。帰国後明治政府に出仕し明治5年に鹿児島に戻る。

10・村橋直衛 村橋久成  1842-1892
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精神的に早く帰国、函館戦争の和平に活躍、サッポロビ−ルの前見に貢献、突然開拓使を辞し雲水の旅に出て行き倒れ死亡


11・東郷愛之進・岩屋虎之助 
帰国後、戊辰戦争で戦死

12・名越平馬・ 時成(なごやときなり)  
戊申戦争経歴不明、奄美の記録残す、
名越左源太の息子。

13・畠山義成・ 杉浦弘蔵   1842-1876
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岩倉使節団と帰国、東京開成学校長、一所持格、当番頭。英国に2年間滞在したのち1867年夏にアメリカに転学、岩倉使節団に参加。アメリカに計6年滞在したのち帰国し、開成学校校長、東京書籍館長、博物館長。


14・森金之丞 森有礼 1847-1889
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1866年6-8月ロシア視察(『航魯紀行』)。1867年夏に英国からアメリカ転出し1年滞在後、ハリスの助言により鮫島尚信と共に1868年8月帰国、米国代理公使、明六会社長、中国大使、商法講習所を開設、初代文部大臣、明治22年暗殺される。

15・松村淳蔵・和彦  1842-1919 
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1866年6-8月ロシア視察。1867年夏に英国からアメリカ転学後、米国海軍士官学校日本人留学生第一号。海軍兵学校長

16・中村宗見・中村博愛  1844-1902
英国で化学を学び、英国からフランスへ転学。明治元年帰国、外務省勤務のちにマルセイユ領事、デンマーク公使、元老院議官、勅選貴族院議員となる。

堀宗次郎・堀孝之・高木征二
長崎のオランダ通詞に生まれる。通訳として参加、五代の事業を助ける。

町田猛彦・山本幾馬  21歳
町田久成の弟。羽島滞在中に自殺したといわれている。


  2018-2-28

posted by 速魚 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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