その当時(1988年頃)、『カサ・デ・バンブー』一帯、ロス・モリーノス地区には電話がなかった。郵便すら配達がなく、局留めにしていた。スペイン全体の郵便システムのせいか、イビザの局、しかも余所者ばかりが利用する局留めのせいか、郵便物受取率は50%と言われていた。長距離電話、マドリッド、バルセローナに電話するにも、郵便局の一角に間借りしているように三つ並んだ電話ボックスの順番を待ち、その上に、短い通話でも恐ろしく高い通話料金を請求されるのだった。
イビサ、ロス・モリーノス、『カサ・デ・バンブー』、そして私の名前だけの宛先で、大きな絵葉書が届いたのは奇跡に近いことだった。おまけにその絵葉書は、ヴィッキーと同居していたコルネリアがタイから送ってきたものだったからだ。
お別れの挨拶もせずに、急にドイツに帰り、ごめんなさい。ヴィッキーとの共同生活に耐えられなくなり、急にイビサ脱出を決めてしまった。元々、旅行が好きなのでツアーコンダクターの仕事に就いた。ドイツからの“マジックバス”(主に若者向けの激安バスツアー)の添乗員として、タイに着いたところだ…云々とあった。
コルネリアと旅行好き、貧乏を厭わないスタイルという一点で意気投合し、話し込んだことがあったから、彼女も近況を私に報告したくなったのだろう。
手紙が『カサ・デ・バンブー』、タケシ宛で届いたのは奇跡ではなく、郵便局で働いているイビセンカ、イビセンコ・カップルがよく店に来ていて、懇意にしていたからだった。そのうち、日本語、何語か判別のできない手紙は、すべて私のところへくるようになってしまったのだが…。そんな郵便事情で、コルネリアとの文通(実に古臭い響きだ)は続いた。
絵葉書や少し長めの手紙がインド、南米、バリ島から届き、私のオフシーズンの旅行計画に火を付けた。どこかでコルネリアに偶然会うのではと、夢想するだけで楽しいことだった。もちろん、人生にそんな偶然などあり得ないのだが…。
手紙のやり取りの中で、ヴィッキーに触れたのは一通だけだった。ヴィッキーの虚言癖は天性のもので、すぐに元が割れてしまうことでも右から左へと、ただ話を面白くするためだけでウソをつく、それが自分を良く見せるためのこともあるが、逆に彼女自身を貶めることもあり、何を基準にウソやデタラメを語っているのか分からないほどだったと、コルネリアの手紙にあった。
自分の根を断ち切ってイビサのような避暑地に働きに来る人、とりわけイビサに住み、居座っている人たち、スペイン本土からの人たちや外国人らが、自分の過去を語る時、大いにホラを吹くことは気づいていた。ヴィッキーが“テアトロ・リセウ”(カタルーニア州立オペラ劇場)の主役だったタグイのウソは、まだ罪のないホラ話だったのだ。
また、コルネリアはヴィッキーが常に誰かと一緒にいなければ、そして、彼女の話を聞いてくれる人がいなければ落ち込んでしまうタイプだとも書いてきた。
私自身も気づいてはいたが、彼女が誕生パーティーに招待した人たちも、友達と呼べるほどの関係ではなく、何かのコネでマリファナを手に入れるのが巧みで、ヴィッキーにとっては格好のマリファナ供給者や、物質的にも肉体においても気前のよいヴィッキーを半ば食い物にしていた者たちだったと思う。

イビサはディスコで昔から名高く、空いた壁にはパーティー告知ポスター
イビサは蠱惑(こわく)的な島だ。燦燦と降り注ぐ太陽、ビーチパーティー、そして夕方ともなれば汗とサンオイルを洗い流し、イビサファッションに身を固め、ディスコに繰り出す、そこには新しい出会いが待っている…というわけだ。若い女性なら、無一文で島に来ても、金回りのよい男どもを捕まえるのは容易なことだ。期限付きスポンサーがすぐに見つかるのだ。見返りは彼女らの若さと肉体だ。
ドイツ、イギリス、北欧から3、4週間のバカンスを過ごしに島に来る人たちは、クレイジーな連日のパーティーのために1年の残りの11ヵ月働き通してきたことを、ヴィッキーのような女性らは忘れてしまうのだ。彼女らは避暑客の乱痴気パーティーに加わり、それを夏の間じゅう続くものだと思ってしまうのだ。
そこに、イビサという島が持つ危険性がある。イビサでの長い夏は一連のパーティーだと勘違いしてしまうのだ。若い時にイビサに身を置くということは、崖っぷちの天国にいるようなものなのだ。故郷の地では手に入らないドラッグ、そしてアルコール、モラルなんて言葉は薬にしたくもないセックス三昧が許されるのだ…。
私はヴィッキー、あるいはヴィッキーのようなパーティーガールを嫌ってはいたが、彼女を憎んではいなかったと思う。イビサに溺れ、破滅した小さな魂に哀れみの感情を抱きこそすれ、憎しみの情が沸かなかったことに自分でも驚いたくらいだ。
ただ、自分の人を見る目のなさ、甘さを深く自省した。
-…つづく
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2018-3-9