2018年03月13日

商社示談箇条書


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関連年表

1861・万延2 8/11  白石正一郎は薩摩藩の御用達になる 
1863・文久3 8/18   8.18の政変
1864・元治元年 7/19  禁門の変
        12/15  功山寺挙兵
1865・慶応元年 
1866・慶応2年 1/21  薩長同盟
        9/2   勝海舟と広沢真臣が幕長休戦協定を結ぶ
        11/某日   商社示談箇条書

 安政4年・1857 11/12に下関の白石正一郎宅に西郷隆盛が立ち寄り泊まっている。白石正一郎の日記を読むと薩摩との濃密な交流がうかがえる。馬関・下関は地理的に薩摩は参勤交代や上方との往来で利用しなければならない位置にあった。情報報告のための薩摩の藩船をここに係留しており、その扱いの駐在藩士・苫船新役が下関にはいた。
 天保末期には、商品経済の発達に伴い各藩は特産品の扱いを重視するようになり、いままで大阪に送られていた商品が、反権力の手中に握られ、需要先に直送されるために減少する。その商品の取引拠点として下関が注目されていた。村田清風の改革で越荷方を拡大強化した理由であった。それゆえに薩摩と長州の交易は盛んになりつつあった。

白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 8・18の政変で長州は朝廷から遠ざけられて薩摩を薩賊と呼ぶほどに薩長の関係は悪化するが、薩長同盟の締結に伴い、11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き広沢真臣と、商社示談箇条書を結びました。 馬関を中心にして日本中の産物を残らず買い付けて大阪に運ぶことにより大商売を行おうという趣旨です。日本の市場を握ろうというのである。薩長同盟の軍事同盟とすればこの箇条書きは経済の基礎固めであった。

商社示談箇条書
一、商社の盟約はお互いの藩名をあらわさないで商家の名号を唱えること。
 一、同社中の印鑑は互いに取替えておくこと。
 一、商社組合の上は、互いに出入帳をもって公明に計算をし、損益は折半とすること。
 一、荷物船三、四隻を備え、薩藩の名号にして薩藩の旗を立てること。
 一、馬関の通船は、品物によらず上下とも差止め、たとえ通行させなければならない船であっても、
    まだ改めがすまないからといって引止めておく。これはこの商社のもっとも緊要な眼目であること。
 一、馬関通船の場合は、二十五日前に商社に通信すること。

幕末長州藩関係年表
http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/bunka-s/ishin/nenpyo.html

   2018-3-13

  船中発策  幕末芸州藩 まとめ










posted by 速魚 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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