
功山寺
維新へのタ−ニングポイントは高杉晋作の功山寺挙兵だと思います。
長州藩の藩論は尊王攘夷で正義派が支配していた。下関で外国船に砲撃を加える。天皇の意に沿う攘夷の決行であった。外国船が反撃をしてきたが、これまでの武士では戦闘で役立たないと判明する。それにより、藩は今後の攻撃に備えるために、身分の垣根を越えて人材と兵員を募集せざる負えなくなる。奇兵隊や諸隊ができることになった。外国の脅威に直面したので、長州の庶民にまで郷土防衛意識が高まり、多くの献金や5000人にも及ぶ諸隊員が集まる。
京都では、長州の尊攘勢力が8.18の政変により駆逐され、その奪回に禁門の変が起こり敗れて、長州は朝敵になる。第1次長州征討の状況になってビビった藩主親子は、藩論を俗論派にゆだねることになった。
危険を察知した高杉晋作は九州へ逃れた。尾張の征討総督の徳川慶勝と参謀の西郷隆盛は長州と幕府との戦争を嫌い、穏便な配慮による開戦回避工作を進めた。
野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、正義派家老が切腹させられたことを知り俗論派打倒を決意して馬関に帰還する。高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人です。 諸隊の動きは、藩に解散を命ぜられていたので恭順の姿勢が多数であった。
晋作は初戦に勝利すると、商人や庄屋層の強い支持を受ける。消極的であった山県有朋の奇兵隊や他の諸隊も晋作側に参加する。最終的には俗論派藩兵を破り、山口に藩主を迎えて武備恭順の政策を藩に取らせることになる。
昭和14年(1939)に97歳で没した松下村塾出身の渡辺蒿蔵・天野清三郎は。「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、高杉にはどうもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多しと語り残している。
それでも禁門の変で人材を失い、俗論派を打ち破るには高杉の人物とその個性があってこそです。功山寺挙兵の時の絶望的な状況での高杉の決断がなければ、明治はもっと遅れて、奇兵隊的なものでは無くて薩摩的な侍文化を引きずったものになっていたでしょう。
晋作は250石の上級武士ゆえにその生い立ちを引きずるものがありました。功山寺挙兵の諸隊幹部への演説で「 元が土百姓である奇兵隊総督・赤禰武人に騙されていると言い、さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫んだ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。」下級武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。それで、わずかな80名余の賛同者と決起することになった。
商品経済の発展と伴に成長して村々を支配してきた庄屋・豪農クラスの今回の挙兵への大きな支持を得て、彼らの資金と人により高杉は俗論派に勝利することができた。封建的な俗論派の政策は庄屋らには耐えられないものであった。 高杉が負けたなら、自分たちで一揆をおこして戦う、という程の庄屋が幕末には出現していました。
勝利した後も高杉は生い立ちに捕らわれていて、諸隊を掌握できずに、活躍した諸隊を藩士で構成される干城隊が諸隊を指導・統制する体制にしたいと思っていた。 最後は諦めて統理の地位を辞し無役となり、伊藤と英国留学を考えるまでになる。 長州は身分ではなく能力主義を採用して、大村の指導の下で諸隊を中心に軍備を整え、第2次長州征討を勝利する。勝てなかった幕府はその後に討幕されて明治の代に進んでいく。
高杉の考えていた奇兵隊ではなく、それを支えた庶民的な奇兵隊が明治を切り開いていく。長州のその軍政が明治の徴兵制への道になる。西郷の強力な押しが無ければ徴兵制が成立しなかったかもしれないけれど、西郷も高杉もそれの意味するところは分かっていなかったのかもしれない。両人ともそれぞれの時点で、歴史の転換には彼らの力を必要とした。
西欧列強に対してサムライのままの体制では伍していくのは難しかったことでしょう。サムライが築いた維新ですが、それには武士の終焉を必要とした。
関連年表
文久3年・1863
5/10 長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
6/6 高杉は奇兵隊結成(藩命?)
8/16 藩の正規兵である撰鋒隊が長州藩諸隊の奇兵隊と衝突し撰鋒隊士
が斬殺された事件により晋作は奇兵隊総督を解任される。
8/18 8・18の政変
元治元年・1864
7/13 井上聞多と伊藤博文 英国から帰国
7/19 禁門の変
7/23 長州追討の勅命下る。
8/5 四国艦隊下関砲撃
8/14 井上は高杉に従い講和条約締結
9/25 井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
9/26 周布正之助が自殺
10/21 諸隊の解散を命令
10/23 高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
10/29 高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
11/10 高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
11/11 俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
11/15 諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
11/16 長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
11/17 功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
11/18 征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
11/20 九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。
11/25 高杉が筑前より馬関へ帰還。
12/8 赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
12/12 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
12/13 高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。
12/15 高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と
石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人

高杉晋作挙兵像(功山寺境内)
12/16 下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
12/19 渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、
松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。
(甲子殉難十一烈士)
12/26 長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
12/27 征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼
慶応元年・1865
1/2 伊崎会所襲撃
1/6 絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊
山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派
の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した
状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
1/9 井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
1/10 太田にて藩政府軍を撃退した。
1/11 太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを
喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
1/14 呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍
の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。
三條実美以下五卿が馬関より渡海した。
1/16 高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を
率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこ
れを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。
1/18 山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々
並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出
馬させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる
のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵
を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。
馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。 諸隊
には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の
人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧
や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で
ある諸隊が掌握するようになる。
1/30 奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開
始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。
2/5 藩政府は萩城内の戒厳を解いた。
2/9 藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討
を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図る
べきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。
2/14 奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷
へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進
軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 、諸隊は
萩城へ入城する。 高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。
逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉
えられた。
2/22 敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
2/28 敬親父子は山口に帰る
3/17 敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針
を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。
慶応2年・1866
1/21 薩長同盟
6/7 四境の役・大島口の戦い
2018-3-11
船中発策 高杉晋作まとめ
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