2018年04月03日

青松葉事件



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石碑と説明版  名古屋城2の丸

 名古屋で育った小生であるが、青松葉事件については聞いたことは無かった。弾圧事件といえば佐幕派に対してのものはあまり耳にしないで、維新の志士たちへのものばかりが有名である。

 ここ尾張で慶応4年(1868年)1月20日−25日に起きた佐幕派弾圧事件を青松葉事件といいます。この年は鳥羽伏見の戦いで幕府が負けて、将軍慶喜が大阪から逃げて江戸に帰った後のことになります。 大政奉還後の政府の要職にあった藩主徳川慶勝は急遽帰国して佐幕派の家臣を粛清した。高禄の家老など14名が斬首にされた。


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14代尾張藩主 徳川慶勝 1824-83

 慶勝は第1次長州征討時の総督であり、その時には長州との戦を避けて穏便な和平で対処した。慶喜より不当だと非難を受けたほどの処置であった。彼がこの処置を含めて勤皇についたゆえに、江戸無血開城まで、官軍は東海道を戦わずにして行きつくことができた。尾張藩が各地に向けて出した書状が他藩の恭順の動向を決めたと云われている。もし尾張藩が親藩ゆえに幕府につき、名城名古屋城に数万の兵とともに籠城して官軍と戦えば、やすやすと維新が成り立ったと思われない。慶勝の陰の功績は大である、知らぜらる陰の維新プランナ−と言われる。兄弟である会津・桑名藩主は徹底抗戦であったのは皮肉である。

 渡辺・在綱・新左衛門(1820-68)は2500石の家老である、慶勝が帰国するとすぐに御前会議を開き、「朝命により死を賜るものなり」と告げられて斬首される。その妻「みつ」は、家禄・お屋敷召し上げを言い渡された。彼女は周章狼狽することなく、家財道具をひき渡しのために清掃させた。貴重品は一品も持ち出すだしてはならぬと言い渡し、飾り立て収納した。衣服をあらためて、女性には櫛だけは婦人のたしなみであると許した。引き渡しの際に倉庫には米俵が充満していたのでその潔白さに役人は驚きその状況を具申した。その妻女の処置に感服して、藩政府は新左衛門に限って、家財その他動産は一切賜ると許した。 
 武士には、いつこういうことが起きるかもしれないので、そのときこそ平素から覚悟しておくべきことである…佐幕派の武士の一族とは言え、立派な覚悟である。 この時期に、幕府旗本が戦争に行くのがイヤで、幼少のものに家督を譲って隠居したものが多いと聞けば、幕府は滅亡がまぬがれないものとして小生には思える。


    2018-4-3

  船中発策  筑前勤皇党






posted by 速魚 at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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