2018年04月13日

イビザ物語  15  佐野


 ギュンターとドイツ人たち その2

 私とギュンターをホモセクシャルの関係で捉えていた人がいることには気づいていた。私は2階で、彼が3階に住んでいたし、オフシーズンに入り、冬場に店を閉めてからのクリスマスや新年の休みに一緒に食事を摂ったし、彼もドイツ人のイビサ長老組のパーティーに私を誘ってくれたりした。

 そんな付き合いの中で、ホモセクシャルにも、ギンギラオカマ風の男たちと、肉体、セクシャルな視点はさておいて、もちろん性的要素は男女間同様にどこかにあるのだが、彼らが精神的な充足を求めていることに気が付いたのだ。

 ギュンターが私に心を開くというか、打ち解けたのは、『カサ・デ・バンブー』で彼が次の公演のため“令嬢ジュリー”を取り上げるべく、原作に手を入れていたのを目にし、私が、「今頃、ストリンドべりーなんかやって、観に来る人がいるの? あれはもう考古学博物館入りしたものだと思っていたよ…」とチャチャを入れてからだと思う。日本で戦前、ストリンドベリーがブームを呼んだのにアテラレタのだろう、ウチの親父の小さな蔵書の中にストリンドベリー全集があり、私は“令嬢ジュリー”と“青巻”ぐらいは暇に任せて読んでいたのだ。

 もう一つのきっかけは、ギュンターが留守だと思い、私がかなりの大音量でバッハの“マタイ受難曲”をかけていたら、ギュンターが静かにドアをノックし、うなずくように首を動かしながら、私の部屋に入ってきたのだ。そして、会話もせずに終曲まで一緒に聴いたことがある。それからギュンターは、ドイツから毎回彼が気に入っているクラッシック、主に声楽、宗教曲のカセットを持ってきたりするようになった。

 ギュンターが私に対してホモセクシャルな行為に及ぶそぶりをみせたことはなかった。もっとも、私にしたところで、50歳半ばを越えたギュンターが求めるアドニスには程遠い、雑な造りのバックパッカー崩れだったからかもしれない。 

 アパートがいくらコンクリートと石でできた頑丈な造りだったとはいえ、夏の間は海に面したテラスのフレンチドアや窓は開け放したままだったから、物音はよく聞こえた。会話の内容こそ判明できないにしろ、ギュンターがお友達とセクシャルな行為を営めば、下には即響き、聞こえる。コンクリートの建物は床を通しての衝撃音をよく伝導するのだ。

 十数年、ギュンターの真下に住んでいて、それらしき軋み、押し殺した嬌声が聞こえてきたのは二度だけだった。

 一度は、まだ少年の面影を残した痩せた青年をドイツから同行してきたことがあった。どこかひ弱で、常に誰かに庇護されなければ生きていけない空気が彼の周りに漂っていた。ギュンターはその青年を“甥”と紹介した。ギュンターに兄弟、姉妹はいないから、甥もいるはずがない。そんなことを私は深く詮索する習慣を持っていなかった。

 その若者の名前すら思い出せないのだが、彼は一人で『カサ・デ・バンブー』に足繁く来るようになり、数日も経った頃から、盛んにギュンターの愚痴を溢し始め、一緒にいるのは耐えられないとばかり、予定をかなり早めてドイツに帰ってしまった。 

 もう一度は、何かの修理を頼まれ、ギュンターのアパートに足を踏み入れたことがあった。幸か不幸か、私は手先が器用で何でも修理できると思われていたのだ。そこで、全身オイルを塗り、小麦色に満遍なくコンガリと陽に焼いた素っ裸の男が、大の字になってギュンターのベッドに仰向けに寝ていたのだ。

 ギュンターの方はデップリと太った腹にパレオ、更紗を巻いているだけだった。裸の彼をギュンターが私に紹介したが、くだんの裸の彼は面倒くさそうに、よく言えば鷹揚に、“オラ、ケタル(Hola que tal?;コンチワ)”と言い、体を起こそうともしなかった。


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城壁内のブティックやバー、夜になると様相が一転する


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夜のイビサ港近くのバー、客はほとんどテラス席か立ち飲みだ


 朝買出しに旧市街に降りたり、ごくたまに、店を閉めてから真夜中に、下町のテキヤ通りを散策する時にギュンターに出会うことがある。そんな時、ギュンターは大げさなくらい、まるで旧知の友に地の果てで出会ったような挨拶をするのだった。

日本から来た友達を連れ、ホモセクシュアル御用達のバーが集まる城壁の下を歩いた時、ギュンターがお気に入りのバー、“インコグニート”に陣取り、数人の美しいオトコたちを盛んに笑わせているのを目にしたことがある。幅の広い階段に張り出したテラスに、シャレタ籐椅子を置き、クールジャズを流し、ツタを這わせた中世の城壁に照明が当てられ、この一角は一種の小宇宙を造り出しているのだ。

 ギュンターはゆったりとした真っ白いインド風ともアラブ風ともつかないファッションで上下を固め、映画『エマニュエル夫人』のポスターにあったような大きな籐椅子に腰掛け、周囲を大いに盛り上げ、笑わせていた。私はそのすぐ脇、2メートルほどのところをゆっくりと歩いたのだから、私はギュンターが例の大げさな挨拶をするだろうと、身構えた。ところが、ギュンターはチラッと上目使いに私を見上げ、他の人には気づかれない程度に軽く頷いただけだった。私も喉から出掛かっていた“オラ、ギュンター! 人生、楽しんでるな〜”という言葉を危うく飲み込んだのだった。

 ギュンターには『カサ・デ・バンブー』で見せる顔の他に、夜のバー巡りで見せる顔があることを知ったのだ。ケルンの劇場で演出家として見せる顔、仕事の顔は最後まで知らずに終わったが、イビサでアマチュア演劇団を指導、監督した作品は観ることができた。

地元の演劇好きの小中学校の先生たちが中心になって、何がしかのサポートを市から受けて活動を続けていた劇団をどういういきさつからか、ギュンターが演出することになったのだ。もちろん、ギュンターにとってはボランティア活動みたいなものだったろう。それにしても、よく引き受けたものだと思う。

 このアマチュアの小劇団の面々も、『カサ・デ・バンブー』を通して顔見知りだったと記憶しているが、ギュンターが連れてきたのかもしれない。劇団にも名前があったのだが、どうにも思い出すことができない。このグループはイビセンコ(Ibicenco;イビサ語)で芝居をやろうというのが主旨のようで、どのように選んだものか、ギリシャ悲劇の“王女メディア”、それから数年経って、オスカー・ワイルドの“サロメ”をやった。
-…つづく

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   2018-4-13


posted by 速魚 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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