2018年04月15日

林勇蔵 と 吉富簡一


 長州藩は、ペリ−来航以来、外圧に対処するため、その危機をアピールし、それを受けとめた村落支配者=豪農商層が、みずからの危機意識のもとで、その郷土防衛のために農兵隊を積極的に組織し、武装化した。一般農民もまたそれに応じて献金をし、農兵として参加する。

 わずか80人余で挙兵した高杉晋作が巧山寺挙兵に成功したのは長州の庄屋たちの支援があったからです。初めは、奇兵隊すら勝利の見込み無しと日和見をきめていました。
 高杉の“正義”派が、この諸隊や農兵隊を基盤にして、一般農民層の支持をえながら“俗論”派戦に対して勝利を勝ち取ることができた。 挙兵に先立って、吉敷郡矢原村の山口宰判大庄屋吉富藤兵衛のもとにひそかに使を派した高杉は、挙兵を打明け、その軍資金の提供を吉富簡一に求めた。
 林勇蔵や吉富が資金や兵を提供してくれたことにより、初期の困難を克服してク−デタ−を晋作は成功させる。

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林勇蔵 1813-1899

 豪農吉富家に生まれて、庄屋林文左衛門の養子となる。天保12年(1841)上中郷庄屋、安政2年(1855)小郡宰判大庄屋となる。巧山寺挙兵のとき金銭的に支援して勤王大庄屋とよばれた。明治になり地元の治水工事や地租改正に活躍した。


 宰判とは長州藩で郡にあたるような広域の村々を代官が治める行政区域である。

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  小郡宰判図



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吉富簡一 1838-1914

 周防郡の庄屋に生まれ井上門多とは幼なじみである。林勇蔵とは親戚。奇兵隊に資金提供するほかに、諸隊・鴻城軍を組織し井上を総裁にすえる。維新後は山口県政の大立者として、農民運動や自由民権運動には抑えるような行動をとる。

 吉富は興味を惹かれる人物である。苦境の高杉晋作を助けて、弾圧で押しつぶされそうになっていた正義派を勝利に結びつけ藩論を変えさせた。これから薩長の討幕運動が始まり明治となる。 明治2−3年に諸隊の脱退騒動が起きる。長州藩は結果的には諸隊を用無しとして解散させる。切り捨てられた処遇に不満な兵士は反乱を起こす。吉富はその意をくむことなく木戸と鎮圧をする。明治6年の地租改定で現金で納税する制度に変更になった。この際に、吉富は米を相場より安く農民より買受けて、大阪に高く売り差額を手に入れ巨額の利益を得た。 前原一誠はこのような農民や兵士の状況を放置する新政府に対して乱を起こすことになった。

 小生は、庄屋と言えば、村の貧しい成績の良い青年を学資を出して学ばせ、まだ村の篤志家の良いイメ−ジを持つが、地主というと小作から巻き上げる悪い印象しか持たない。 その二つを持つのが吉富ではないかと思う。 幕末から敗戦まで続く歴史を象徴する人物のようで興味深い。吉富は幕末では幕藩体制の矛盾を背負わされた庄屋で、それゆえに支援し変革をさせ、明治となり、地主層と農民層の対立では彼が地主側に立ち、庄屋・地主の置かれた歴史的な位置に順応し生きた人物である。彼の心中には矛盾はないのでしょう。地主・庄屋の歴史的・経済的な位置が維新を起こし明治の治世をささえた。その使命を成り立たせた地主の状況が時代を経て変化したことにより、結果として先の敗戦に至り、農地改革で使命を終えたというべきか。


   2018-4-13


posted by 速魚 at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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