2018年04月30日

周布政之助・兼翼(かねすけ)



suhu 01.jpg
1823-1864

 略歴
 周布吉左衛門兼正(219石)の5男として生まれる。生後6か月で相続。藩校で学んだ。 若いころは来原良蔵や松島剛蔵らと結社を作り政治改革を論じる。1847年に椋梨藤太の添え役として抜擢される。そのことは、彼は天保の藩政財政改革を行った村田清風の影響を受けていたが、藩政の主導権争いで坪井九右衛門派の椋梨(後の俗論派)との連立政権を意味していたという。 1853年政務役筆頭となり、財政改革、殖産興業、軍制改革に尽力。桂小五郎、高杉晋作、松陰の門下生を中枢に登用した。
 1858年には、松陰が老中の間部詮勝を暗殺する許可を求めたため牢にいれる。1862年には藩論が長井雅楽の開国・公武合体策の航海遠略策になることを同意。彼は久坂玄瑞に説得されて、攘夷を唱えたが、下関戦争で穏便に講和したことから、俗論・正義派の両者から責められる。高杉晋作と共に暴発を抑えようとしたが失敗。禁門の変が起こる。1864年9月26日、第1次長州征伐が起ころうとしていたころ庄屋吉富簡一宅でひっそりと切腹した。責任を感じてと言われるが、俗論派から斬首されたかもしれない。
 周布正之助が切腹して12月16日・三か月後には高杉の功山寺挙兵が起きるので彼は本当に惜しまれる存在です。

 長州が明治の陸軍を主導して先の敗戦まで至る。彼は奇兵隊の創設に関わり、後まで大きく歴史に影響を与える。奇兵隊では読書が重視されて軍事訓練だけでなく、志の育成にも重きが置かれた。しかし明治以降の徴兵された兵士にはその伝統は受け継がれなかった。

 文久三年二月、麻田公輔(周布政之助)は、外圧の危機に対処するためには民衆の武装化がなによりも必要であることを、小銃局の設置に関連させてつぎのように述べていた。

 「小銃局が追々設立されるよし、大変喜んでおります。 器械が乏しくては、戦わない以前に外夷のあなどりを受けますので、丹誠を尽して器械の製造を一途にはかり、防長二州中にこと足りるようにしたいものです。……
 国中の要地要津に大小銃が充満すれば、一先ず外夷を圧倒する手立てとは相成るでしょう。
 人民は五、六ヵ月執業させれば一個の士とはなりますけれども、器械を与えなければ執業の目途も立ちません。
 ましてや竹槍をもたせ、死生の間に立たせて働かすようでは、上はお慈悲に欠けるというものです。
 何とぞ製造局において器械を十分準備し、国中の人民およそ七十万のうち三十五万は婦女、十七万五千は老幼の男子、残り十七万五千の壮年の男子へ引当てる大砲・小銃を整えておくことが、この上なく大切なことと存じます。
 外夷には竹槍ではなく、大砲や小銃などの器械で武装させよ」(田中彰著の幕末の長州より)

 敗戦前の本土決戦では小銃さえ満足に配布できずに、竹やりで外夷に立ち向かうことを平気で思っていた参謀本部がいたことは、幕末以来の周布の心を受け継いできていない長州陸軍閥の悪いところでしょう。
 桂小五郎や高杉晋作、伊藤俊輔などをかばいかくまって維新に貢献させた周布の業績は多大なものです。彼が生きていれば違った歴史に変わったでしょう。

   2018-4-30



posted by 速魚 at 04:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/183114452
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック