2018年05月07日

来原良蔵 1829-1862


 幕末には暗殺事件が多発します。功成りて維新を向かえた英傑でも暗殺を計画したり実行したりした人はいます。松陰さえもその一人です。
 また、潔く責任を取ってみずから死んでしまった人に惜しまれる人がいます。周布正之助もそうです。大河ドラマの「花燃ゆ」に来原良蔵が出ていたようですが、記憶にありません。

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 「花燃ゆ」で演じた俳優・松木実

彼は周布、松陰、桂と親交があり後の元勲伊藤を身分の低いときに目をつけて武士としての教養を厳しく育てます。松下村塾へ行くようにも勧めました。

 藩論が開国公武合体から破約攘夷へ急に転換するなかでその混乱の責任をとり自裁してしまいました。桂の妹と結婚していましたので、亡き後に息子たちは桂の養子となり、明治に活躍いたします。
 
 略歴
1829年 長州藩・大組の福原光茂の3男として生まれる。翌年に伯父の来原良左衛門盛郷の養子となる。
1841年 藩校・明倫館で修行。
1851年 江戸で朱子学者・安藤民斎に学ぶ。吉田松陰の脱藩に関わる。その脱藩では処分を受ける。
1852年 先鋒隊に入隊
1853年 ペリ−来航で江戸に行き、浦賀の形勢を視察、桂小五郎と親交を深め、松陰から密航の相談を受ける。。
1854年 木島又兵衛と「忠義会」を結成。相模国の沿岸警備にあたる。8月中島三郎に入門して合薬製造掛となり、銃器の扱いを修練。12月先鋒隊除隊。
1856年 萩に戻り、周布正之助・松島剛蔵らによるによる嚶鳴社復興に参加。10月に桂小五郎の妹ハルと結婚
1857年 再び相模国警備に向かい、後の伊藤博文を鍛える。松下村塾へ紹介した。
1858年 伊藤らと長崎海軍伝習所で学ぶ。
1859年 明倫館助教兼兵学科総督に就任、軍制改革を行う。
1861年 開国派の長井雅樂と対立も和解し、公武合体の周旋を担う。
1862年 2月 公武周旋のため肥後と薩摩へ出かける。
3月に藩論が攘夷に急展開して久坂玄瑞らと長井雅樂を除くため奔走。長井暗殺が失敗、藩論の混乱の責任を取るとして切腹を申し出る。 8月拒否され江戸に上る。横浜外国公使館襲撃を企て、計画が藩主・毛利定弘に自重を促される。 8月29日切腹してわびた。

2018-5-7

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posted by 速魚 at 06:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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