2018年05月09日

林復斎


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 1801-1859

  学校で習った歴史は老人になるまで余ほどのことが無い限りそのままのであることが多い。 ペリ−来航についても、学校で記憶した「上喜撰(蒸気船)たった4杯で夜も眠れず」という狂歌があり、幕府は云われているように周章狼狽して、米国の砲艦外交に負け、不平等条約を結ばされたという印象です。

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  老中や薩摩には、1年ほど前に、ペリ−来航の目的や軍艦名とその装備などをオランダから通報があり、具体的に幕府はそれを知ることになりました。それで幕府は驚くこと無く冷静に対応できた。ペリ−との交渉では林復斎が当たり彼はすでに諸外国の事情や交渉史を知っており、10年前に定めた(1842年・天保13年)薪水給与令の内容にとどめ、通商要求には拒絶した。

1854年3/31・嘉英7年3/3 日米和親条約が締結された。

 ペリ−側の資料と新政府側の見解に左右された歴史ゆえに、余り幕府側の資料は重視されてこなかった。 林復斎は論理的に交渉して弁論でペリ−の言うままにはさせなかったようです。彼の残した『墨夷応接録』の現代語訳は無い。それが読めればもっと詳しく分かると思います。彼はもっと評価されて良い人である。

 1858年7/29・安政5年6/19に日米修好通商条約の締結により通商を行うようになった。ハリスとの交渉により不平等条約が結ばれた。彼の甥・岩瀬忠震と井上清直がこの交渉に当たった。

  略歴
1801年林述斎の6男として誕生
1807年 第2林家・林琴山の養子
1824年 紅葉山文庫の書物奉行
1834年 2の丸留守居、西丸留守居など歴任、
1853年 本家大学頭家を継ぐ、54歳で林家11代当主。
1854年 ペリ−との交渉に当たる。
 3月31日 日米和親条約締結
1859年 60歳死去

     2018-5-9

  船中発策 幕末開国 まとめ




  

  
posted by 速魚 at 01:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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