福岡に月形洗蔵と加藤司書ゆかりの地を訪ねた。
月形洗蔵
月形半平太の舞台でのセリフ「春雨じゃ 濡れていこう」の句は良く知られている。月形半平太は月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたと云われる。 土佐の武市は有名ですが、それに比べて福岡の月形は知られていない。
月形洗蔵は藩需・朱子学者深蔵(100石)の長男として生まれる。長じて馬廻役になるが辞職して尊王攘夷運動に奔走す。藩への建白書や批判で幽閉される。文久元年・1863に執政加藤図書の進言により帰宅するも蟄居を命ぜられる。元治元年・1864に罪を許された。
第1次長州征討において、五卿を擁して戦おうとする長州を説得して藩外に出す難しい議論を成功させ、月形は征討中止に貢献した。五卿を長州功山寺へ迎えに行き太宰府まで案内をする。第二次長州征討では藩論が一転佐幕派になり、乙丑の獄で斬首された。
司馬遼太郎が描いた龍馬以来、薩長同盟は龍馬の功績として流布している。明治のころには、その功は月形が知られていたという。 幕末の筑前福岡藩の藩主は薩摩島津から婿養子に入った黒田斉溥(ながひろ)である。2歳年上の島津斉彬とは兄弟みたいであったという。彼は斉彬の薩摩藩主相続の仲介の労をとった。長州征討中止の運動をしていた福岡藩としては薩長の同盟画策は自然な動きであった。 薩長和解の話は筑前が元である。 坂本龍馬は月形の唱える同盟に賛同した。
西郷隆盛に「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言われたのだが。

少林寺

月形洗蔵の墓 少林寺門を入りすぐ左

加藤司書 1830-65
加藤司書は、先祖が黒田官兵衛の荒木村重に幽閉されている時の有岡城牢番で、救出の世話をした功で代々中老の職に就く。2800石の上級藩士。 彼は選ばれて長崎でのプチャ−チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。その功で家老になり月形洗蔵と共に筑前勤皇党の首領格。 西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。 穏便に攘夷を進めようとする加藤派と過激な行動をとる月形派に分かれて内紛を起こす。 乙丑の獄で切腹する。
何を読んだか勘違いして司書のお墓を聖福寺にあると思い出かけた。規模のでかい由緒ある寺なのかお墓の有る庫裏へは拝観謝絶で向かうことができなかった。実際は隣の節信院にある。

聖福寺 総門 名島城移築

仏殿

庫裏

方丈 名護屋城から移築といわれている

節信院

加藤司書墓
2018-8-3
船中発策 筑前勤皇党
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