
ラドガ−ス大学
長州や薩摩の幕末留学生は最初は英国をめざしました。薩摩の第2次留学は米国になりました。最初の留学生でも費用に困り米国に行くことになる者もでます。 新島襄や漂流民も米国で手厚い教育を受けることがあった。当時の東海岸の米国人は古き良き時代の気質を持っていて、東洋人でも気に入られれば生活や学資のめんどうをみてくれた。人種差別の国の印象が強いが敬虔なキリスト教徒の良き伝統に満ちた人々がいたと言えよう。
ラドガ−ス大学・Rutgers Universityは州立大学で東部の名門校である。海外留学生の学費は年に300万円程で給付特待学生にでもならない限り庶民には進学できるものではない。
明治の初期に海外へ留学した人は300−500人とも記録されているという。ラドガ−ス大学には多くの人員がそこで学んだ。 1867年、福井藩で最初の海外留学生、日下部太郎は時の越前福井藩主松平春嶽の命を受けて渡米し、ラトガース大学に入学した。日下部は学業では、素晴らしい成果を修めたものの肺結核に倒れ1870年26歳で没した。日下部の墓は今もラトガーズ大学のあるNew Brunswickにある。これが縁となり日下部の出身地である福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市関係にある。その後も幕末からの10年間で少なくとも300人以上の日本人がラトガーズ大学に留学したという。その中には松方コレクションで有名な松方幸次郎、海援隊隊士として活動した菅野覚兵衛や白峰駿馬、さらに勝海舟の嫡男・勝小鹿や岩倉具視の息子(岩倉具定・具経兄弟)、最初に渡米した横井佐平太・横井太平兄弟がいた。
以下、詳しく留学生を見て見よう。
最初の留学生である横井左平太・大平兄弟:横井小南の甥、1864 年坂本竜馬の手引きで勝海舟の神戸海軍 伝習所に入るが、翌年閉鎖された後、1865 年長崎済美館に移りフルベッキから英語 を学んだ。1866 年フルベッキの斡旋でラトガースのグラマースクールに留学するが、 幕府の渡航・留学解禁前だったため変名での密航留学だった。留学資金は横井小楠 の弟子徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)が実家から調達提供した。初めての日本人留学 生の受入実現についてはオランダ改革派外国伝道局総主事フェリスが不足資金の募 金も含めて懇切に面倒を見た。これを皮切りに、以後続々とラトガースに留学生が 送り込まれ、その総数は幕末・明治初期の海外留学生の半数に上った。左平太は 1869 年に薩摩藩英国留学生だった松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校 に転校する。日本人の入学が禁じられていた米国の兵学校に入学できたのは、フェ リスが動いて米国上下両院の個別決議を取得出来たからだった。 大平は結核のため 1869 年帰国、熊本洋学校の設立に尽力し、フルベッキに外人教 師斡旋を依頼する。しかし、キャプテン・ジェーン着任した 1871 年に大平は病没し た。なお、小楠はフルベッキを長崎の自宅に訪ね西洋事情等を聞いていた。横井兄 弟を嚆矢に、ラトガースに留学するものが相次いだ。
日下部太郎:福井藩士、横井兄弟同様済美館でフルベッキから英語を学んでいたが、 1866 年海外渡航が解禁されたのを受けて、藩主松平春嶽の命で 1862 年ラトガースに 留学する。グラマー・スクールで当時学生だったグリフィスから英語・ラテン語 を学んだ後、大学 2 年に編入されるが、成績極めて優秀で首席を通した。1780 年卒 業目前で病死したが、大学は卒業と認め、名誉あるファイ・ベータ・カッパ会員に も推挙された。グリフィスがその後福井藩の洋学校教師として来日するきっかけは、 この日下部との出会いだった。
岩倉具定・具経兄弟:岩倉具視の次・三男、長崎致遠館を経てラトガースに留学。
服部十三:岩倉兄弟に随行、ラトガース大学を卒業。帰国後岩手、広島、長崎、兵庫 県知事。
折田彦一:岩倉兄弟に随行、プリンストン大学卒業。帰国後三校校長。
山本重輔:岩倉兄弟に随行、ラトガースを経て、ニューヨークのレンセラー工業学校 卒業。帰国後工部省高山寮、日本鉄道会社技師長。
勝小鹿:勝海舟長男。ラトガースから松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校に転校
高木三郎:勝小鹿に随行、ラトガース留学、米公使館書記官、養蚕業振興。
富田鉄之助:勝小鹿に随行、後日本銀行総裁、東京府知事。
高橋是清:勝小鹿に同行、米国到着早々奴隷扱いされて翌年帰国、フルベッキが大学 南校時代に森有礼に託され高橋是清を自宅に預かる。後大蔵大臣、総理大臣)、
鈴木知雄:勝小鹿に同行、高橋是清と共に奴隷扱いされて翌年帰国、後日本銀行出納 局長
畠山義成:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプ40を経て、ラトガー ス大学に入学、その後岩倉使節団に現地参加。帰国後東京開成学校(現東京大 学)初代校長。
松村淳蔵:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプを経て、ラトガース 大学に入学。その後勝小鹿と共にアナポリス海軍兵学校に転校。帰国後海軍兵 学校長、海軍中将。
吉田清成:薩摩藩英国留学生、アメリカのハリスのキャンプを経て、ラトガース大学 に入学。アナポリス海軍兵学校を目指すが断念。帰国後大蔵小輔、米国公使、 農商務大輔など。米国公使の時、寺島外務卿の下で条約改正交渉に従事。
菅野覚兵衛:土佐勤皇党、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国して海軍省、郡山で原野開拓。
白峰駿馬:長岡にうまれる、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国、
明治11 白峰造船所を経営。
ラトガース留学生が並外れて多いのは、フルベッキ以外にもオランダ改革派・ラトガース大学人脈が多数来日していたこと(初に来日した三人に続いて、バラ、スタウト、クラーク等の宣教師、福井藩校教授に招聘され、後大学南校に転じたグリフィス、文部省顧問として招聘されたモルレー、2代目米国特命全権公使のブルイン等)と、受入側のオランダ改革派外国伝道本部総主事フェリス父子の積極協力に負う所が大きい。
安政 5 年(1858 年)に日米修好通商条約調印されると、米国プロテスタント教会三派が一斉に日本に宣教師を派遣した。 安政 6 年(1859 年)に米国の聖公会がリギンスと C.W.ウィリアムズを長崎に、長老教会がヘボンを横浜に、オランダ改革派がブラウンとシモンズを横浜に、フルベッキを長崎に派遣した。 蘭学から英学 への転換が急務だった幕府や諸藩は、競って宣教師を英語教師に雇った。このような 情勢下長崎に着任した米オランダ改革派の宣教師フルベッキは、幕府洋学校の英語教 師に、そして佐賀藩洋学校には校長として雇われた。
フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck,1830-1898):1859.11 長崎に着任。オランダ生まれで、 22 歳の時アメリカに移住しエンジニアとして就労。26 歳で長老派のオーバン神学校に入学。在学 中にブラウンの教会でドイツ人向け説教を手伝っていた。この年 29 歳で卒業と同時に、「3 人目 はアメリカナイズされたオランダ人」の選考基準に叶いオランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれた。オランダ系フルベッキのフルベッキは人材のあつまった長崎に派遣されたことにより、大隈重信など有用な人材を育成し、初期の明治政府の顧問として大きな活躍をした。 以上 岩崎洋三さんによる
2019-3-10
明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信 大幡さんによる
http://oflag.sblo.jp/article/182250790.html?1552181229
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