
1871-1938
増永五佐衛門はウイキにも載っていない人物です。明治の初めに福井県鯖江に生まれた。ここは雪深く冬の農閑期になると、農家は生活に困るような状態であった。増永が腐心したのは、農家の生活向上、貧困からの脱出である。そこで桐生から羽二重の技術者を招き桐生をしのぐほどの生産を遂げた。しかし明治33年に株式市場が暴落。各地で金融恐慌が発生した。せっかく成長産業になったのに急速に冷え込んだ。 20代であった増永は次の手を打つ。羽二重で失敗したので、持続できる産業を望んだのである。当時の眼鏡は庶民のものではなかった。 それには初期投資に莫大な資本を要しない利点があり、その将来性に掛けて眼鏡枠産業をやることになる。
なぜ鯖江が眼鏡生産の一大拠点になりえたのか? 増永は「帳場制」というものを組織した。自ら集めた1期生を熟練させ独立させた。その技術者や製造者をグル−プを作らせてそれぞれを競わせた。結果的に品質は向上した。彼がやっていたのは起業の支援である。
そうしなければ、今頃は眼鏡の増永産業(株)が地域に大企業として割拠していたであろう。
けれど、どこかの不況にぶち当たり消え去った、有名企業の一つになり、過去の有名企業になっていたであろう。彼のみの栄光を個人の能力で求めたのではありませんでした。
鯖江は今ではイタリア・中国と3代拠点の一つとして残っている。 真っ先に中国の影響を受け苦境に陥った地でもある。それも乗り切った。
増永の寒村から脱したいという思い、次に理念を共感する人々。そして、導入した技術を広めていく仕組み。切磋琢磨する地域の人間関係。これらが郷土主義のもとにセットになって、初めて産業としてスピ−デ−に発展していく。地域の課題は、直面している地域で解決していくしかない。国家の政策だけでは地方に行き届かない。
鯖江は素材革命という手法で乗り切ってきたが、そこには大企業が存在するわけではない。小学生のクラスで半数以上の生徒の親は社長であるという土地で成り立ってきた。
そんな発展も最初の増永のリ−ダ−シップと理念が無ければ存在しなかった。こういう人をノブレスオブリ−ジュの人に挙げるべきである。
年表
明治4・1871 豪農増永家に誕生
明治20・1887 桐生の羽二重の技術を導入
明治33・1900 生糸の投機で恐慌が起こる。羽二重は失敗する
明治38・1905 大阪より眼鏡枠職人を招く
明治41・1908 眼鏡枠製造体制が軌道にのる
明治44・1911 内国共産品博覧会で「赤胴金つぎ眼鏡」が受賞する
昭和7・1932 日本産業協会から産業功労者として表彰された
昭和13・1938 死亡
2019-3-26
ノブレスオブリ−ジュ