
1811-1894
松尾多勢子は坂本龍馬と手紙のやりとりがあったという、女性尊王攘夷志士です。 52歳で夫の許可を得て上京したというので、だいぶ「遅咲きのうばさくら」かなという感じです。
島崎藤村の「夜明け前」を若い頃に読ましたが、何も小生覚えがなく、そこには彼女の関連が14回も出てくるといいます。 平田篤胤の門人の6割が伊那谷の地にいたというから、幕末には沸き立った地であったでしょう。
彼女は豪農武村家で生まれ、名主の松尾家に18歳で嫁いだ。夫が病弱であったので家の切り盛りをして6男4女を育てた。50を過ぎて平田派を学ぶ、和歌はそれまでに親しんできた。 上京した当時の52歳と云えば、今から見れば相当の高齢だと思われます。実際に隠居の身分だった。
京都では彼女は尊皇攘夷の志士と交わり、皇女和宮の婚姻を図った岩倉具視に接近して佐幕派ではないと断じて通報し、彼を天誅リストから外させた。 彼女は「信州から来た歌詠み婆さん」として怪しまれなかったので情報・連絡に関係した。 交流した運動家には久坂玄瑞、品川弥次郎らがいた。
彼女は足利氏木像梟首事件に関連して嫌疑を受けて長州藩邸に逃れる。帰郷して志士を援助、天誅組や水戸天狗党の伊那通過を支えた。鳥羽伏見の戦いが起こると57歳の身で長男を連れて岩倉邸に入る。岩倉家の「女参事」として仕えた。彼女は大政奉還まで志士と議論を重ねた。新政府の樹立を見届けた後に、1869年帰郷して家政を仕切り明治27年に没した。 一説には赤報隊の相楽総三がニセ官軍として処刑されたのにショックを受けて家に戻ったとも言われています。
特筆すべきは彼女には自分の活動を手柄にする気持ちがなかったということです。 多勢子は自分の信念にもとずき、自ら進むべき道を切り開いていった女性です。 幕末には野村望東尼など活躍した女性もいました。
2019-3-30
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