2019年07月19日

備中松山城


 天守の残る唯一の山城、日本の現存10天守の一つである備中松山城に行く。JR高梁駅にある観光案内所で情報を得て、乗り合いタクシ−の手配をしてもらいました。 麓からも行けるでしょうが、健脚に自信のある方のみです。 時期によりますが、ふいご峠(8合目)までのバスもあります。 そこでタクシ−を下りて天守に向かう。 登りは思ったよりキツク休み休みで時間がかかった。2時間ぐらいの見学時間だったが、登り降りの帰りの時間も含むことから思いを残す状況になった。待ち合わせ時間が迫り急ぎ降りることになる。 じっくり見たいのなら車が便利ですが、利用できる時期があるようなので下調べが必要です。

 雲海に浮かぶ城でも有名ですが、城を望む隣の山から見ることになり、時期と行程は観光案内所で尋ねてください。また、案内所のある駅と一体にになった図書館は、洒落た建物で同じ設計者なのか宮崎県延岡駅でも似たものがあった。

 この城は鎌倉時代からの歴史があり、北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。

 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存している。

 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。現在、御根小屋の跡地は岡山県立高梁高等学校となっている。

  この藩には山田方谷が有名です。彼の行った藩政改革は幕末までのモデルと言われている。司馬遼太郎「峠」の河井継之助は方谷から学ぶためにこの地を訪ね花屋に泊まった。 方谷は後に明治政府が行った殖産興業と軍制改革を先立って行う。 藩主は譜代の老中筆頭を勤めた板倉勝静であった。最後の将軍と共に大阪城より江戸へ船で逃げ帰ったほどである。 しかし、方谷は体面を保つ形で恭順をして、備中松山城を無血開城した。 また、函館にいた藩主を撤収させて謹慎させる。藩の存続を許された。



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 天主



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 本丸入り口



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 天守から見た本丸





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 重要文化財 2重櫓



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 復古図





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 新しい守将 本丸にいる 先の豪雨でここへ迷い込んだという



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 2の丸





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 野面積 城内で一番古い






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 御膳棚跡



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 4の平櫓跡





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 厩門跡





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 黒門跡



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 3の平櫓跡



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 足軽箱番所跡



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 重要文化財 3の平櫓土塀



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 NHK 真田丸で使用された風情



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 上太鼓丸





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 御根小屋復元図





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 御茶屋橋と高梁高校



   2019-7-19

  城廻りのペ−ジへ





posted by 速魚 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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