マイケルは、セルジオの伴走を終えた後、アゾレス諸島を経由して、自分のヨットでイビサに戻る予定だったから、病身?で気力が失せたセルジオの回復を待ち、ヨットのセールをたたみ、定点で大西洋を漂っているわけにはいかなかった。4月の観光シーズン開幕までに、なんとしてもイビサに帰らなければならなかった。
オランダ人の彼女によれば、セルジオがボードに乗ったのは初めと終わり、途中で天気の良い時だけよ…ということになるのだ。お人好しのマイケルはセルジオの口車にマンマと乗せられたことのようだ。
日曜版新聞“サンデー・タイムズ”が主催した第1回目の単独ノンストップ世界一周ヨットレース(The Sunday Times Golden Globe Race;1968-1969)、当時としては斬新なトリマラン(船体の両側にフロートを付けたヨット)で出場したドナルド・クローハースト(Donald Crowhurst)が、アルゼンチンの湾に船をつけ、いかにも世界一周しているかのようにハム無線で交信し、他のヨットがケープホーンを回り大西洋を北上しイギリスに向かい始めた頃を見計らって、ドナルドがセーリングを開始した事件があった。
誰も観ている人がいない冒険、競技は、冒険を行なう者の厳しい自己規制が求められる。アラン・ボンバール(Alain Bombard)がゴムボートで、全く外からの助けなしに大西洋を横断したように、すべて独自で、外界から切り離して行うのでなければこのような冒険の意味はない。

カリブ海の英連邦王国の島、Saint Lucia(セントルシア)

オランダ王国の構成国、Aruba(アルバ)
マイケルはカリブの島、セントルシアでセルジオを降ろし、すぐにアンティグアに向かい、そこのマリーナにヨットを預け、飛行機でイギリス経由、イビサに戻って来たのだった。
その後、セルジオがどこで何をしているのかは知らない。キュラソー、アルバ(旧オランダ領のカリブの島)で、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った男を売りにして、観光客相手のウィンドサーフィン・インストラクターをやっているとも耳にした。
後年、私が服部と中古のヨットを買い大西洋を横断した時、マイケルは親身になって、どこでどのような食料を仕入れるべきか、大西洋の向こう側では、どこの島の港が入りやすく、手続きも簡単であるか、などなど事細かく教えてくれた。
《著者注:その後、ウィンドサーフィンで大西洋を渡った人が続出した。1993年にはTrans-Atlantic Windsurfing Race (TAWR).が発足し、伴走の船で寝、食べ、休息することが認められるようになった。どうにも、私のセルジオに対する評価は厳し過ぎたきらいがある。だが、常にサポートのヘリコプターが頭上を舞い、救援物資の投下を受けながらの極点旅行のような冒険に意味がないように思えるのと同じように、いつも伴走の船で寝て、食べて大洋を渡ることを、ウィンドサーフィンで大西洋を渡ったと呼べるのかどうか、私は認めたくない。》
十数年後、プエルトリコのマリーナでヨット暮らしをしていた時、大きなピンポンボールに奇妙なセールを揚げた浮遊物が私のヨットに横付けしてきた。

大西洋単独横断最小ヨット“BEATLES”とトム
半球型のドームを開けて、ガリガリに痩せた男が這い出てきて、大西洋を90何日かけて渡ってきたと言うのだ。私たちの重く、遅いクルーザーで23日かかった距離をだ。彼はビートルズと同じリバプールの出身で、ヨットとも呼べない浮遊物も名付けて『ビートルズ』、これぞ本物の海のカブトムシようだった。
その当時、ギネスブックものの“大西洋を渡った一番小さな船”だったが、出迎えの人影すらなかった。数日後、プエルトリコの英字新聞に小さな記事が載っただけだった。
彼、トム・マックニールは、背筋を伸ばして寝ることもできない長さの船でタダひたすら漂うように大西洋を渡ってきたのだ。水は当時出始めていた手動ポンプ式のリバースオスモシス(Reverse Osmosis;RO)浄水器で海水を純水にし、食料はフリーズドドライ、後は釣った魚……。一体、人間はどこまで狭い空間と厳しい条件に耐えられるかの人体実験に挑戦しているようなものだ。
私たちは彼をヨットに呼び、たしか簡単なスパゲッティーをご馳走し、サンミゲール(ビール)とワインで到着を祝った。その間、トムは何かに憑りつかれたように喋りまくり、何を飲み、何を食べているのかさえ分からない様子だった。
それにしても、これほど聞き取りにくい英語、これが一体英語なのかと思うほど、彼が息せき切って話すことが分からないのには閉口した。そして、それが10時間以上続いたのだった。やっと彼はイギリスの家族に無事到着の旨を電話することを思い出してくれたのだった。
電話を借りるためマリーナオフィスに同行したが、当然オフィスは閉まっており、マリーナから歩いて15分ほどの距離にあるリゾート地区、イスラ・ヴェルデの大きなホテルに連れて行き、そこからやっと電話したのだった。
トム・マックニールの船は、もしアレを船と呼ぶなら、何度もの試行錯誤の上、自分でデザインし、自分で作ったとても頑丈な浮遊体だった。キールもそれなりに重く深く、転覆、一回転しても起き上がるようにできていた。実際、トムは何度も回転したそうで、まるで洗濯機のドラムの中にいるみたいだったと言っていた。
セルジオの派手な売名行為、スタンドプレイとトムの冒険は比較するのもバカらしい程の差がある。私は偶然から“ウィンドサーフィンで大西洋を渡った初めて?の男”セルジオの出発と“最小?のヨットで大西洋を渡ってきた”トムの到着に居合わせただけだ。
トムの冒険は、船を作ることに始まり、艤装(装備などの取付)、何から何まで彼自身が作り上げたものだ。こんな小さなヨットとも呼べないモノで大西洋を渡ることにどんな意味があるのだ、何のために…何の価値があるのだ、と問うのはチャレンジ精神や冒険心を持たない者の言うことだ。
トムの航跡はすべて彼独自のものだ。トムが漂った大西洋の1マイル、1マイルは彼の足跡そのものだ。私はそこに貴重なモノを見るのだ。人間は(と大きく出ましたよ)、自然と、そして周囲の他の人間と係わり合いながら自己を築き、歩んでいくものだ。その時に独自性、最低限の自足が基本になるのではなかと思う。独立していない人間には、本当の意味での自由がない理屈だ。さらに、チト理屈っぽくなってしまうのだが、“自由とは自分自身であろうとする意思だ”と思うのだ。
イビサ物語から離れたエッセーになってしまったが、こんなこともイビサに棲んで多くの人を見て、知り合って学んだことだ…と今にして思う。
2019-11-20
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