2019年12月13日

秀吉の備中高松城攻め布陣 


 秀吉の天下取りの始点となる、備中高松城水攻めの布陣図載せました。当時の秀吉は信長の方面軍を指揮する武将で下記のような顔ぶれです。石田三成の名は見えませんが秀吉の本陣に黒田菅兵衛と共にいたのでしょう。弟の秀長は大事な拠点にいることがわかる。

 花房助兵衛を小早川隆景が攻めて、水攻めの堤防を壊せば高松城を救えるように思われます。確か毛利軍4万に対して秀吉軍2万であって人数的には毛利のほうが多かったはずです。 この布陣は明治になって、陸軍大学の参謀実習において、関ケ原の布陣を独のメッケル教官が見て西軍勝利と云ったような同じ状況です。 実際に現地で目にすると山側に陣をひいた秀吉から高松城の距離は想像していたよりも近かった。手に取るように城内が見渡せたと思う。それに比べて毛利軍は一歩退いて布陣した感じである。

 この時の秀吉の戦略がすごくて、村上水軍を味方にして瀬戸内の要所を抑えて毛利の補給の邪魔をしていたといいます。毛利軍が攻勢に出る余裕が無かったと見るべきでしょう。 秀吉はこの戦いの趨勢は押さえたので、勝利の最後のツメを信長の出陣を要請して、自分が勝ちすぎないように配慮したと聞きます。 その時に本能寺で信長は討たれた。秀吉は「中国大返し」をして大阪に急遽戻り、態勢の整わない光秀を破り、天下取りの一歩となった。 


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 備中高松城の布陣図


 秀吉布陣武将とその後


加藤清正
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 1562-1611
 秀吉と遠縁で子飼いの武将。賤ヶ岳の7本槍の功で3000石、肥後半国195000石、
小牧長湫の戦いまでは150名程の動員兵力であったという。財務官僚の役割を期待されていた。朝鮮出兵からの武功がよく知られていて、武辺一本やりのイメ−ジが後世に伝わるが、それでは後世まで熊本の治世が評価され清正公と敬われることが理解できない。関ケ原では東軍に属したが、領地に留め置かれて九州での参戦になった。小西行長の領地を受け継ぎ52万石になる。3男の忠弘が継いだが改易となった。


津田与左衛門(信任) 生没不明
 秀吉に長浜城主時代から使える。家督を継ぎ35000石となる。洛外千人斬りの犯人として逮捕される。所領没収蟄居。家督は弟に13000石に減封。


宇喜多忠家
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 1533-1609
 宇喜多直家の異母弟、兄の直家を補佐して創業を助けた。時に総大将として参戦した。兄の死後は秀家の後見役として補佐。秀吉の直臣となる。家督を嫡男知家・坂崎直盛に譲る。
秀家とともに文禄の役で朝鮮に渡る。


羽柴秀勝 
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1569-1586
 信長の四男として生まれ、秀吉の養子となる。備中攻めで初陣、高松城の水攻め、山崎の戦いに参加。清須会議では三法師が推された。領地分けで丹波亀山城主となる。賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いに参加。丹波亀山で病死18歳。



仙石権兵衛(秀久)
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 1552-1614
 美濃に生まれ、斎藤竜興が敗れると信長に仕える。秀吉の寄騎になる。秀吉の最古参の家来。秀吉と共に戦い、山崎の戦い、賤ヶ岳戦い、四国攻めに加わる。淡路平定の功で5万石、四国攻めの功で讃岐1国を拝領。九州攻めでの敗北により改易。小田原攻めで復帰し57000石になる。秀吉の死後は家康に接近して、秀忠の信頼も得る。譜代並みの待遇を得る。



秀吉本陣・黒田官兵衛
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1849-1604
 姫路に誕生、小寺政職の近習、信長への臣従を進言。姫路城代になる。秀吉に姫路城を譲り参謀として働く。宇喜多直家を調略。荒木村重に捕らえられる。小寺氏が滅び、秀吉の与力となる。1万石を得る。小牧長久手の戦い後5万石、九州攻めの後12万石。長政に家督を譲る。小田原攻めでは北条氏を説得開城させる。朝鮮の役では秀吉から処罰うける。関ケ原では長政が東軍に属して活躍、、筑前52万石。如水はその間に九州の西軍を平定する。


堀尾茂助(吉春)
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 1543-1611
 尾張に生まれ、岩倉織田氏に使える。その滅亡により浪人。信長に仕え秀吉に付属された。武功を上げて三五〇〇石になる。水攻めでは清水の検死役をする。秀次付きの二万石の宿老となるが、おとがめはなかった。小田原攻めの後に浜松12万石になる。秀次事件には連座していない。関ケ原では東軍に属し出雲富田に24万国になる。子が無く3代で改易となる。

羽柴秀長
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 1540-1591
 秀吉の異父弟、秀吉の補佐や名代として活躍。播磨・但馬2国を拝領。藤堂高虎を家来とする。四国攻めの功で大和を加増され100万石になる。



花房助兵衛(職秀・もとひで)
1549-1617
 宇喜多氏に従う、信長・秀吉に従属、誰れ憚ることなく諫言するタイプで身を滅ぼしそうになる。関ケ原で家康について八二二〇石を得る。


山内一豊
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 1545-1605
 岩倉織田氏の重臣の3男として誕生。岩倉城落城で流浪。秀吉の直臣となる。姉川の戦いの功で400石、2000石を領し秀吉の中国攻めに加わる。1581年馬揃えの美談。四国平定後に秀次の宿老、長浜2万石領主、小田原攻め後に掛川5万1千石。家康の会津攻めの小山評定で豊臣恩顧の家臣衆を家康へまとめる。関ケ原後は土佐20万2600石を拝領。

2019-12-13

   城廻り
  http://hayame.net/custom27.html





posted by 速魚 at 02:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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