2020年04月07日

桶狭間の戦いの3人



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 『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)

 明智光秀がNHKの大河ドラマに取り上げられています。彼の前半生は不明のことが多いけれど、信長に仕えてからの出世は目を見張るばかりで、10年余で城持ち大名になった。

 桶狭間の戦いでは服部子平太が今川義元の一番槍で、仕留めたのが毛利新介である。
信長は武働きより情報や作戦に寄与した梁田政綱を勲一等として彼に沓掛を拝領させている。 その後に、この3人の活躍は不明で彼らは出世して織田家の有力家臣になっていない。

服部子平太は同姓であり出身地も同郷であることから、興味を持ち調べてみました。ちなみに小生には同姓の有名な忍者がいるけれど、そのどちらも縁もゆかりもありません。 この桶狭間の戦いでは尾張の海部郡に同姓の一族がいる。これが今川と通じていたようであり、この一族の中の一員で、小生は百姓の出自である可能性が高い。由緒ある家計とは縁もゆかりも無いようである。残念。

信長は家臣にはこの作戦の本心を漏らさずに、漏れを恐れたというべきか、少数の家臣を伴い出陣している。 今川が本隊と攻撃舞台に分かれたところに、その本隊・本陣へ攻撃を集中し義元を討ち取っている。 当時は今川70万石で織田は50万石である、織田は水運を押さえて商業的に多くの利益を得ていた。従い云われているほど織田の兵力が少なかったわけではなさそうです。 少数での奇襲と信長軍は云われているが、分断した今川軍の本隊との戦いでは正攻法でも望めたのではないかと思う。中島砦の軍議では簗田政綱は他の家臣とは違い作戦決行を強硬に主張し義元本陣の位置を通報したという。



服部一忠・子平太
 信長の馬廻として仕え、桶狭間の戦いで義元の一番槍。信長死後は秀吉の黄母衣衆になる。小田原の戦功で松坂城を得る。伊勢国一志郡3万5千石。羽柴秀次に付けられ、文禄の役に参戦。秀次連座で所領没収され切腹を命じられる。次男は紀州徳川家に仕える。


毛利良勝・新介
 信長の馬廻として使える。桶狭間の戦いで義元を討ち取る。信長上洛後は大河内城攻めに参加、近習として甲州攻めに随行、本能寺の変で嫡男信忠と伴に二条城で討ち死にした。

簗田政綱・広正
 生没不詳、久之坪城主(春日井郡)、適本陣の急襲と義元の首を挙げることを進言。桶狭間の専攻で3000貫の知行沓掛城を与えられる。その子広政は浅井攻めでは殿軍をつとめ、九州の名族である戸次の姓を賜わる。加賀の国の旗頭になり大聖寺城を与えられる。加賀の一向一揆討伐に失敗した。後に江戸幕府旗本1200石を領した。


   020-4-7




posted by 速魚 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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