松山堀江海の駅から次の荒天を避けるため予定外の中島へ行きました。ちょうど柑橘類の受粉の時期であったのか、島中にミカンのような匂いが漂って化粧水に浸っているような気分であった。
城廻の気分が沸き起こり、レンタサイクルにて島の城跡を見てきました。そこは忽那水軍に関するお城であったようです。

中島・忽那島 周辺の城
黒岩城
さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。

黒岩城

案合板

中島・大浦港を望む
本山城
中島・小浜の大串海岸に面した標高106mの本山山頂に築かれた城跡です。
文治3年(1187年)、忽那兼平が水軍活動の根拠地として、初めて築いた城である。 東は睦月島に相対し松山の北条を見通す、西は長師、神ノ浦を眼下にし、怒和島、津和地島や広島湾を見通す、南は興居島、伊予灘、九州航路を見通す位置であった。
豊臣秀吉の四国攻略で、天正13年(1585年)、小早川軍が来襲し、落城した。


案内板
麓の公園和気まで行ったが登り口も分からず、整備もされていないようなので諦めて引き返した。

忽那水軍 マップ
忽那氏五代の兼平は3代将軍の源実朝によって、地頭職に補任されて鎌倉幕府政所の水軍となる。文辞3・1187年幕府の命で忽那島・中島に二城・本山城・泰ノ山城を築いた。
泰ノ山城
文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。 南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。
今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。
熊磯城
岬の鼻にある小島に熊磯城はあった。 干潮の時は繋がって渡れるようであるが、当時もこの小さな面積では小さな砦、否、見張り所のようなものであったろう。

九多児城・クダコ
クダコ水道は上関ー弓削島へのヨットで航行する時によく利用する航路です。潮流もあり速度が2ノットくらいしかでないときもあり。クダコ島にあるこの城は難攻の城であったでしょう。 カタカナ名ばかり知っていたので九多児という漢字だとは気が付きませんでした。 ここを訪ねるのもなかなか難しいと思います。

案内板

赤矢印 九多児城
2024-7-14
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