2024年07月18日

お遍路17  43番明石寺、42番佛木寺、41番龍光寺

 

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 御遍路17 地図



   43番 明石寺  

 伊予長浜よりJR特急で卯之町に着き、そこから歩いて43番明石を訪ねた。街はずれからお遍路道を行くことになった、石畳の登り山道で木立の日差しが少ない道を歩いた。途中で歩き遍路の方とすれ違う。 ほとんど歩きの人は少ないので見かけずらい。 ひょっとして逆打ちだと会えると云われる弘法大使様ではなかったとさえ後から考えると思われた。 その後もヨットで廻っているせいか、最後までその気配を感じることはなかったので。 本当は遍路まがいのことをしている小生にはその機会が無いということであろう。

 6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建し、天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として、その後、荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。


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  お遍路道 


 
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 仁王門



 

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  本堂

 ここでタクシーを呼び、42番 佛木寺と41番龍光寺を訪ねた。






  42番 佛木寺 ・ ぶつもくじ


 大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。

  

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 本堂と大師堂


 


   41番 龍光寺


 空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられてる。


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 稲荷神社

 この赤い鳥居は稲荷神社のもので、そこから40段ほど上がった先に、稲荷神社の社殿があります。 社殿が龍光寺の本堂でしたが、神仏分離令により、旧本堂を稲荷神社とし、新たに龍光寺は本堂を建築することになった




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  本堂



2024-7-18

posted by 速魚 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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