2024年09月12日

松江豊寿  坂東俘虜収容所


 



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1872-1956
  



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  第1次大戦でドイツの俘虜は4715名であった。そのうちの1000名余を徳島鳴門市にあった坂東俘虜収容所に収容した。その2年10か月を会津出の松江豊寿大佐が所長を務めた。


 映画バルトの楽園を見ましたが、ご覧になった方も多いでしょう。 ベートベンの第9が日本のここで初演されました。 第2次大戦で各国の俘虜の悪しき待遇が一般化していますので、信じられないような人道的な待遇がこの収容所で行われました。

 このような俘虜を文明国の人間として、日本人と同じく、国のために戦った人であるとして待遇したのは坂東が著しいものでした。 最大の収容者がいたのは久留米で、所長の真崎甚三郎中佐(のちに皇道派陸軍大将)は些細なことで、俘虜を殴りつけた。 所長の方針で違いがありました。 

 戦前の軍隊の中でも、このノブレス・オブリージュでとりあげる旧軍の軍人たちは個人の責任と判断により、後世での大きな評価を受ける行動をしました。 軍隊ゆえに窮屈で絶対だと思いがちですが、軍隊ゆえに上官の命令は貫徹される側面があります。

 自衛隊のいじめが問題になりますが、それを問題にするのなら指揮官の責任をウヤムヤニしたのでは現代の世でも解決できません。直接の当事者の下士官を罰しても一時の解決にしかならないでしょう。


  1872 明治5  斗南(会津)藩士の嫡男として誕生
  1877 明治10 父・松江久平警部補心得にて西南戦争抜刀隊に入隊
  1889 明治22 陸軍幼年学校入学 16歳
  1892 明治25 陸軍士官学校入学
  1895 明治28 日清戦争で山東省に上陸
  1902 明治35 歩兵大尉
  1904 明治37 日露戦争で仁川作戦 兵站副官、韓国駐箚軍副官
  1907 明治40 歩兵少佐
  1914 大正3  第1次大戦、歩兵中佐 徳島俘虜収容所所長
  1917 大正6 坂東俘虜収容所長、歩兵大佐
  1919 大正8 ドイツ敗戦
  1920 大正9 収容終了
  1922 大正11 陸軍少将、予備役、若松市長
  1925 大正14 若松市長辞任


   2023年と2024年に坂東捕虜収容所を訪れることができました。 お遍路に訪れる西洋人は多い、一番の霊山寺近くにここがあるのですが、地元も政府も外国人に対してここの衆知が足りないようです、此処を訪れる人が少ない。 世界歴史に稀な誇れる場所であるのに残念です。



   アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子
   https://hayame.net/custom29.html#spb-bookmark-1172


     2015-12-1、 2024-9-11



posted by 速魚 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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