
赤字は忽那一族の松山の領地

忽那島・中島 周辺図
ここで「忽那水軍史」を採り上げた。 再び中島を訪れて塩入荒野の開発地である中島の小浜地区を歩く。
現在の海岸線は戦後にでも新しく埋め立てたものであろう。 忽那氏は南北朝時代が最盛期で鎌倉、大宰府、鹿児島まで攻め入ったという。 海賊の利益は船荷の四割にも及ぶと云うから、へたに土地を耕しているよりもコスパの良い海賊業といえよう。 耕そうにも島ではそれに適した土地が無いのも事実であろう。 従い中世から稼いだお金で塩入荒野を干拓してきた一族である。
下調べも不十分な素人の歴史好きヨットマンがそれを探ろうと中島小浜地区をうろついてみた。 黒岩城の近くに忽那家の表札のお屋敷があったので有力な親族ではなかろうか。

忽那家、 裏手に黒岩城
下図で現在ある公園寄りの海岸通りより僧都碑を経て山際の輿理家神社へ歩いていくと、確かになだらかな登りの道になる。 下図の忽那八幡宮−黒岩城ー與理家神社の山際ライン近くまで昔は海水が押し寄せていたであろう。水軍城では城下海岸に舟を留置していた。
旧海岸線の埋め立てに使用した石垣と思われる場所を見つけた。 これに沿った細道が想定旧海岸線であろう。 松山市の排水ポンプ施設もあった。 忽那氏が干拓した小浜地域はこのラインより陸側になると個人的に想定した次第である。

中島 小浜地区

僧都碑・そうずひ
享保10年(1725年)の建立と伝えられる。 福岡県筑紫郡の山寺の僧・眞證は、京都東本願寺の学僧となり、苦節20年、大僧都の位を受けたが、故郷へ錦を飾る帰途、斎灘で時化に遭い、大僧都の証(七条と緋法衣)を失った。小浜村の小者がこれを拾得し、いくら懇願しても返還せず、眞證は享保6年(1721年)旧7月16日池尻の西端稲ケ崎で投身自殺をした。
以来、小浜村の小者には不幸が続き、拾得物を焼却したところ煙が僧都の形になって天に昇った。小者の家は断絶し、小浜村に火災が続くので、村人は享保10年(1725年)、村の中央へ碑を建て、毎年、法要と霊を弔うための仮装踊りを始めた。以後、村の火災が止み、平穏な里となったという。

與理家神社 よりいえ
素盞鳴命(すさのをのみこと)を祭神とする。

松山市小浜排水ポンプ施設、 帰ってから位置特定出来ず

旧海岸線の干拓堤石垣と思われる所 左側が海岸線となる
2024-12-27
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