
木村強 1889-1978
昭和の時代はラワンの原木を輸入していた時代がある。 30代の小生はボルネオ島よりそれを積んで運んでくる商船の乗組員であった。 台湾・香港・シンガポ−ルへ雑貨を積んでいき、帰り荷として木材を積載していた。 ブルネイは石油の産地であったので近くへは行ったが入港したことは無い。

ブルネイ王国とその周辺
下記のブルネイの歴史を見ると英国植民地になったのは明治の20年頃で、インドネシアが500年にのぼるオランダ植民地の歴史と比べればブルネイは近代になってから短い期間である。 日本が両国を占領した期間は第2次大戦中の短い期間である。 インドネシアに対しては未だに給食費の援助など延々と続いている。
「 ブルネイの歴史」 正式名はブルネイ・ダルサラ−ム
1888年:イギリスの植民地となる
1941年:太平洋戦争の勃発に伴う日本軍の侵攻により
1945年まで日本の統治下となる 1945年:日本敗戦:再びイギリスの統治下に置かれる
1962年:ブルネイ動乱
1984年:イギリスより独立する
ブルネイであるが、その短い日本の占領期間に統治をを敷いたのであるが、ブルネイ知事として赴任した木村強は1年の期間であったが、その後のブルネイの発展に大きく貢献したという。
木村の中にも石油の確保という、日本政府の狙いを遂行する意識はありました。 しかしそれ以外にも、天然ゴムが豊かであることに注目した木村は、軍の資金でゴムを製造する工場を設立し、ゴム工場で得た収益を日本軍の利益とせず、水道、通信などのインフラ整備を次々に進めていきました。 軍の為ではなく、現地住民の生活を向上させるために、多くのブルネイ人を正当な賃金で雇用しました。工場設立の費用などは軍の資金。 石油以外に資金を使うことは日本政府の意向に反するとして、投獄の可能性もあります。 それでも木村は信念を曲げませんでした。
さらに…木村は大きな畑を作ることを指導しました。 自給自足の生活に慣れ、『自分と家族が食べていければ、それでいい』と考えていた人々に… お互いに協力し、大規模な農場で大量生産を行うことで、みんなで豊かになろう、そう呼びかけました。
また、木村は、驚くべき行動に出ました。 木村は通訳秘書オマル・現国王にイバン族の居住区に連れて行ってくれるように頼みました。 ブルネイは、王家を含むマレー系の他に、様々な部族が暮らす多民族国家なのですが… 中でも、マレー人たちに最も敬遠されている部族がありました。 それがイバン族。イバン族には、昔から“首狩り”の風習があり、マレー人と殺し合いをしてきた歴史のある野蛮な部族として知られていました。 それでも、木村はブルネイをさらに発展させるには、国内で争っていてはいけないと考えイバン族の協力も仰ぎたいと考えていたのです。イバン族とブルネイ王家が歩み寄ったため、マレー人と他の部族との関係も改善。 小さな国土で多民族がいがみあっていたブルネイは、一つにまとまっていきました。
木村強 ブルネイの奇跡
https://www.youtube.com/shorts/pZYMzMcKzW4
2025-4-25
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