相馬と松川浦
常磐線で相馬駅に降りて徒歩15分程度で相馬中村城へ行くことができる。 仙台から原ノ町までのJRの運転間隔は時間に1本であるので注意を要する。 ちなみにヨットを係留している亘理から、この相馬で特急に乗り上野で乗り換えて自宅に帰った。仙台からの新幹線ではなく一度、常磐線の特急に乗ってみたかったからである。
平安時代初期に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。 南北朝時代の1337年には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。 中村氏に代わって1563年に相馬隆胤が入城した。 相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。 関ヶ原の戦いから11年後の1611年、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手(からめて)門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。
縄張り図
伊達氏を意識して北側の堀が強固になっている。本丸を囲んで2の丸と3の丸があり堀も含めて堅固な城構えである。想像以上に残っているので丹念に見ることができれば面白いと思われる。
相馬の馬追いのお祭りはテレビで見られるので承知である。 その場所は原町に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われるようで、この城内ではないようだ。
大手一ノ門
中ノ門
本丸へ行く赤橋
南二の丸
1833年からはじまった天保の大飢饉で、藩の存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けた。このとき、表高では6万石とされた相馬藩の収入は、わずか457石にすぎなかったと伝えられている。1845年、農政改革や質素・倹約、協働、互助、譲り合いなどを思想的な軸とする、二宮尊徳が唱えていた「二宮仕法」の本格的な導入を決定している。これにより、中村藩とその藩民の窮状は幕末に向けて急速に回復していき、「二宮仕法」は廃藩置県後の明治期までつづけられることになった。
東2の丸, 二宮尊徳像
本丸には相馬神社がある。
本丸
搦手門、 黒橋
北3の丸
中堀石組跡
2025-12-7