亘理城 近辺図
JR亘理駅より徒歩15分くらいで亘理・要害城へ行くことができる。2の丸跡にス−パ−がありここを目指して歩く。
伊達稙宗の十二男で亘理氏に養子に入った亘理元宗が築き、亘理氏の居城を小堤城(現在の大雄寺付近)から移した。その後に片倉景綱が城主となった。慶長7年(1602年)、片倉景綱は白石城に移り、伊達成実が城主となった。一国一城令の後、亘理城は亘理要害といわれるようになった。幕末まで亘理伊達氏が城主として続いた。戊辰戦争に敗れた仙台藩の降伏式はこの地で行われた。明治3年(1870年)、亘理伊達氏の北海道移住に伴い建物などは払い下げられた。
南からの伊達藩への侵攻は奥州街道からのを白石城にて防ぐことと、太平洋側の浜街道からのを亘理城で防ぐことであった。それゆえに大事な家臣をそこに配置した。
案内図
本丸の亘理神社にある本丸表示石柱
戊辰戦争で敗れた伊達藩はここで新政府と降伏式が行われた。
堀跡
お城らしいものが見られるのは本丸南のこのあたりのみである
大手先の石碑から見た切り通し。道路によって分断されていますが、左が本丸、右が二の丸(ス−パ−あり)
切り通しの右側、ス−パ−の看板あたりが本丸詰門跡
亘理城から南下して徒歩10分位で稱名寺と亘理城下地図碑を見てきました。
称名寺
源頼朝を支えた千葉常胤の子孫、武石宗胤(後に亘理氏と改称)が建立した
そこに隣接して亘理城下地図碑がある。
亘理城下地図碑
伊達成実 1568-1646
伊達成実
父は伊達実元、母は実元の異母兄・伊達晴宗の娘。政宗にとっては最も近い血族. 人取橋の戦い成実は政宗の命を救った「伊達家一の猛将」と称され、翌年には二本松城主となり38,000石へ加増された。 郡山合戦,摺上原の戦いにて活躍。 政宗が豊臣臣下になると、成実は二本松城主から角田城主に移封となった。 文禄の役(朝鮮出兵)にも参戦して活躍。 豊臣秀次が切腹させられる事件が起きた。この前後に成実は伊達家を出奔して突然高野山に向かった。 北の関ヶ原こと「慶長出羽合戦」が始まった。片倉小十郎らの働きかけで、成実は戻って来た。(1602年)成実は亘理城主となって政宗から5,095石を拝領して「伊達家の南の要」として重臣に復帰する。大阪の陣にも参戦。治水に尽力し、5,095石だった石高を23,000石にする。伊達政宗の9男を迎い入れて後継者とした。
小堤城
ここへは亘理城から徒歩15分ほどでいくことができる。 大雄寺の門前に標柱があり、墓地の周辺に土塁が残ります。亘理伊達家の霊廟がある。
小堤城は亘理氏の最初の居城です。千葉常胤の子孫である武石宗胤がこの地を支配すると、7代・武石広胤の代に亘理氏を名乗っています。亘理氏は戦国時代には伊達氏に重臣として仕え、元宗・重宗父子の代に亘理城を築いて居城を移すと、廃城となりました。
大雄寺 山門
土塁跡
亘理伊達家の霊廟
2025-12-21