2026年02月10日

100万石の大名




 100万石を領した戦国大名と云えば、我が郷土の英雄信長、家康、秀吉である。また、信長の家臣であったゆえに同郷の前田利家、丹羽長重がいる。 丹羽については意外と知られていない。光成謀反の時に大阪に居ながら兵が逃げてしまい、秀吉の天下取りを許してしまった。 今回二本松城を訪れることがあり、興味を持ち100万石大名について調べてみた。 

 

100mangoku 10.jpg
  100万石大名たち



 下記に取り上げた大名で、最終的に100万石の領土を守ったのは徳川家と前田家のみで、織田、島津、毛利、伊達、丹羽家は幕末まで続いたものの、島津家以外はその領土の半分以上は減封されてしまいました。



 織田信雄

 織田信長の次男。伊勢北畠家の養嗣子となって北畠氏と称する。尾張・伊賀(三郡)・南伊勢の約100万石を知行した。小牧・長久手の戦いで家康と組む。しかし秀吉と単独講和する。戦後は美濃の一部・尾張一国・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・鈴鹿)の78万3千石に減じた。小田原の役後に突如秀吉は激怒して、いきなり信雄を追放に処して、下野国那須烏山に放つとした捨扶持が2万石であった。関ヶ原の役では親子で西軍に与した。

   前田利家、利長

 前田家は織田家の重臣・柴田勝家の与力として従った前田利家が功績を挙げて能登を領する大名となりました。豊臣政権では五大老の筆頭格として政権を支えています。100万石は利家の代で達成したわけではなく、二代目利長の時代に関が原で東軍に属して領土を増やし120万石を有する大名となりました。


 島津義久・義弘

 1586年〜87年の秀吉による九州平定直前に、 薩摩・大隅・日向・豊後・肥後・筑後の5カ国、165万石を有する大名に成長します。九州最大勢力だった大友氏を破り九州統一を目指しましたが、秀吉の大兵力の前に屈することになりました。その後、薩摩・大隅・日向の領土を安堵させ77万石を有し、江戸時代には薩摩藩として幕末まで島津氏を存続させました。


 伊達政宗

 1589年に蘆名氏を滅ぼしたときには114万石の領土を拡大しました。しかし、豊臣政権下では色々とやらかして58万石まで減封されますが、関が原後には東軍に従い、62万石まで領土を回復させます。



 毛利元就・輝元

 安芸の国人から一代にして中国地方10カ国150万石の大大名に成長しました。1571年に74歳でこの世を去ると、毛利輝元と吉川 元春・小早川隆景と共に100万石以上の勢力を守っていました。しかし、関が原で輝元が事実上の西軍・総大将となったことで、 戦後処理では周防・長門37万石までに減封された。

 上杉謙信・景勝

  出羽・越後・越中・能登・加賀・上野の167万石の領土を有していました。しかし、後継者を定めないまま49歳の時に死去する  と、上杉景勝と上杉影虎との後継者争いが勃発し景勝が勝利しました。 そのため家中が混乱に陥り、織田家の柴田勝家に付け入  る隙を見せる結果となり、一時は越後陥落の危機まで追い込まれました。

  豊臣政権では五大老として会津120万石を有しました。しかし、関が原では反家康の立場を早くから明確にしていたので、合戦  後は米沢30万石まで減封。


 丹羽長秀・長重

 織田家の家臣として1573年に織田家初の城持ち大名となります。本能寺の変後は、秀吉の家臣として賤ヶ岳の戦いの功績が認めら れ、越前50万石・加賀の一部73万石が与えられて123万石の大名となりました。

 1585年に51歳でこの世を去ると嫡男の長重が後を継ぎますが、軍律違反があったとして、秀吉によって大半の領土を召し上げられ たのち、関が原では西軍に付いたため、改易されてしまいました。

 しかし、1603年に常陸国に1万石を与えられて常陸古渡藩をつくり大名として復活を遂げました。何回かの転封を経験し1643年に は二本松藩10万石を与えられ幕末まで続いています。 


 豊臣秀長

 秀吉の弟。大河ドラマに採り上げられているので、いずれ知られるでしょうが彼は大和・紀伊・和泉の3か国に河内国の一部を加え、約110余万石を領する大名となる。嫡男と養子にも恵まれずに断絶した。


 豊臣秀頼

  家康は五大老筆頭の立場を利用し、関ケ原戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。


 豊臣秀次

 豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。秀吉の鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が旧徳川領5か国への移封を拒否して改易されたので、信雄領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名とされた。文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。


 大友宗麟

  最大時には九州6か国を支配しました。 残るは島津氏が領した南九州の日向・薩摩・大隅だけになり、その制覇まで目論んだ大友義鎮(宗麟/おおともよししげ)は、一方でキリシタン大名であり、大村氏・有馬氏とともにヨーロッパに天正少年使節団を派遣した人物としても知られる。


 三好長慶

  畿内・阿波国の戦国大名。永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた



      2026-2-10





posted by 速魚 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191620874
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック