2026年03月05日

安房小湊、 歴史とヨット泊地



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  安房小湊   青丸はヨット停泊候補地


 ヨットで徳島を訪ね、房総の安房が阿波から来ていることを知った。卑弥呼の時代に忌部氏がここの地へ来て開発したと云う。河村瑞賢の東回り航路の江戸へ向かう風待ちの湊であったことと、4月には仙台からの岡山の母港への帰りに立ち寄りの港として調べてみました。 以下は浅岡 力さんによるところです。

 「房総開拓の神話」は、天あめの 富とみの 命みこと が阿波(現徳島県)の斎部いんべの人々を率いて房総の地に来て、麻あさを栽培して成功した。そこで斎部の人々が居住したところを安房あわと名づけたと伝えている。また、天皇の食膳に奉仕した膳かしわで 氏の祖とされる六むつ鴈かりの命が、伝説上の大王おおぎみ景行天皇の房総行幸の際、淡水門あわのみなとで獲れた魚を献上したと伝えている。

 小湊という地名が史料に現れるのは、鎌倉時代以降のことである。それも日蓮とのかかわりのなかに見いだされる。小湊の日蓮宗誕生寺は、日蓮聖人誕生の地を記念して、弟子の寂日坊日家にけが、兄の興津領主佐久間重忠の援助によって建治2年(1276)に開いた寺である。、日蓮誕生の地と伝えられる片海という地名は、江戸時代の初めまでは史料で確認できるが、元禄以降は見られなくなり現在に伝えられていない。小湊浦の大弁天島・小弁天島の辺りが片海の地であろうとされている。

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 近世に入り誕生寺の門前町小湊は、東廻り航路の避難港として登場するのである。ここに番所を設け、浦役人を配置して廻船の援助と監視にあたらせた。元禄の大地震・津波による被害後は、上総の興津(現勝浦市)に移されている。

 小湊には東北諸藩の廻船役所港(番所)が置かれ船宿が設けられた。

 「南東に開けた湾(内浦湾)を利用した入江に設けられている。湊口の幅は70間けん(約126m)、深さ4尋ひろ(約7m)、海岸から湊の入口まで180間(約325m)余り、大船の停泊に適している。また、南西風で入港し北風で出港するのがよく、東北風で入港するのは危険である。もっとも風向きにかかわらず、係留には適している。」 小湊浦は、東廻り航路で最も危険とされた野島崎沖という水域に臨む良港として、難風を避けて多くの廻船が入港し、再び良い天候になるまで停泊した。

  廻船に関する規則を載せている。即ち

@城米(非常用として備蓄される米殻)を積んだ廻船が停泊しても一粒の米も買い求めてはならない。用木の廻船の場合も同様である。
A公儀廻船は申すに及ばず諸国の廻船についても、難風に遭い荷打にうち(安全を保つため積荷を海に捨てること)して入津したときは、条目に従い相改めて浦証文(海難の証明書)を渡すこと。
B破船の節は、浮沈の荷物・船具などを早速に取り揚げ、浦役人に届け出ること。
C破船のとき、荷打した米殻・荷物・船具などを盗み取った者は追放、内容によっては公儀の沙汰に及ぶこともある。
D流れてきた船材や用木があるときは、早々に注進すること。
E当村は往還の村ではないが、海道浦手の早荷や廻文は昼夜にかかわらず届けること。
F夜陰に荷物を持ち来り、船を借りたいと申す者がいても、貸し出してはならない。若し隠れて貸し出した者は処罰する。 G難風の節、湊に係留の船には、綱などを貸し出し加勢の人足を出して、油断なく助
けること。また、入津に危ない船や海辺に漂う船があれば、直ちに救助船を出すこと。

  などである。しかし、小湊は東廻り航路の避難港として位置づけられていたが、海運に関する史料はあまり残されていない。



       2026-3-5


posted by 速魚 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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