大友宗麟 1530-1587
最初に述べなければならない。表題のようにすすめようとして、調べてみたが田舎老人の思い付きに過ぎないと分かる。未だにアテネの民主制が世界に根ずかないように、ギリシャ文明・風土で起きたアテネ・スパルタの文化と大陸の端の孤島に起きた戦国時代の大名を並べようとは。わが身に過ぎたものであった。
スパルタで少年を親から離して兵営のようにする教育と薩摩の郷中教育とは違いがあるけれど、似てはいる、 アテネの交易を中心として栄えた文化はアジア全域に交易をしていた大友氏と重なるところがある。 スパルタとアテネは政体が違うが民会の決定が左右する基礎の上にできたものである。残念ながら小生仁は突き詰めることができなかった。
ギリシャ人の物語 塩野七生
https://ameblo.jp/yacht-hayame/entry-12818181357.html
さて、大友宗麟であるが、戦国時代のよくある跡目相続から出発する。 信長は弟と信玄は弟や親と争い家督を得た。 宗麟の最大の版図は北九州6か国になり、100万石の大大名となる。九州における最大版図を築き上げた。 さらに対立していた周防の国の大内氏に弟の大内善長を送り影響を強めた。 また、熱心なキリスト教信者であるキリシタン大名としても広く知られ、海外貿易を通じて西欧文化を積極的に導入し、領内の文化発展に大きく寄与した。1570年代までに東アジア諸国に加えてカンボジアやポルトガルの国王とまでも単独での外交関係を保持する。それゆえに三浦按針・ウイリアム・アダムスが豊後を目指したのがよくわかる。
1551年に豊後を訪れたフランシスコ・ザビエルと会見して以来、キリスト教に対して深い理解を示し、宣教師を保護して領内での布教を認めた。1578年には自らも洗礼を受け、ドン・フランシスコという洗礼名を名乗った。彼は領内に日本初の西洋式病院や育児院を設立したほか、南蛮貿易を奨励して医学、音楽、料理などの西洋文化を積極的に取り入れ、豊後を国際色豊かな土地へと変貌させた。大友宗麟は、天正遣欧少年使節の派遣にも関与し、欧州にその名が知られていた。
薩摩氏の台頭で勢力を減じて秀吉の協力を仰ぐ、豊後1か国になるが、この大友 義統(おおとも よしむね)は1592年の朝鮮出兵に際して、義統は消極的出兵をした大名の一人であった。秀吉は、そうした義統を改易した、
臼杵城・丹生島城 島津軍を追い返したフランキ砲
大友宗麟 戦国時代をグローバルに生き抜いたクールな武将 15分
https://www.youtube.com/watch?v=T7KYJot8VPU
2026-6-30
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