2013年10月17日

地中海孤島めぐり

  地中海孤島めぐり1 シリーズ11回

地中海のマジョルカ島に置いていた愛艇ヨットのPING906による、共同オーナーの佐野が書いた周航記です。あれから26−7年経ちます。ユーロにスペインが加入したので、大分と変わったと思いますが、日本人にとっては地中海の孤島は珍しいと思い、掲載いたしました。小生が本船勤務中でこのシリーズのクル−ズに乗っていないこともあります。

 OCS ニュースに掲載されていたものです。

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ヨットクルージング関係は専用サイトまで   http://gby.sblo.jp/              


地中海孤島めぐり             佐野

 シイウダテラの港祭りに出くわした。(下写真)漁船,通船等に地元のヨットクラブのヨットが加わり、汽笛、爆竹を鳴らし、狭い港内を回るだけのものだが、船をもやってから飲めや歌えのフィエスタが始る。


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  メノルカ島の旅

 今シーズンはなんとしても時間が足りなかった。二か月の予定だったのが、ヨットのは陸上げ、船底の塗変えだけでたっぷり二週間とられ、どうにか準備が整った時には余すところ一か月と幾日という状態だった。一体多くのヨット乗りたちは楽天家であり、夢想家である。ヨットという日常性、必要性ゼロの大人のおもちゃを買うために長年働き、いったん手に入れると、めっぽうかかる維持費を念出するために今まで以上に働かなければならす、従ってヨットに乗る時間はより少くなる。それでも来シーズンはどこそこへ行こう、未知の楽園へ行こうと夢見るり ヨットハーバーにこれ見よがしに並んでいる豪華ヨットの大半は年間二週間はどしか利用されていないと言ってよい。

 マジョルカ、メノルカを8の字に回る計画を立てたが、意外な「楽園」をメノルカに見出すことになった。昨年イタリアヘの行き帰りにマオンやメノルカ最東端の島・アイレ島の灯台にお世話になったが、上陸はしなかった。マンヨルカの東北・フレウ岬から直線で20マイルでメノルカの南西端・ダルトウチの灯台に着く、港から港へでも28マイルと、しごく容易なコースである。この、晴れた日なら対岸がくっきりと見てとれる距離の航海が、過去最悪のものとなったのだ。マジョルカを出た時点で気圧1015ミリバール、西の風が心地よく吹いていたのが、メノルカに近付くにつれて風が南西に変り、次第に腰のある烈風に増長し出した。メノルカの灯台と並ぶころには、立派なシケの様相を呈して来た。水路誌にも、シィウダデラの入口は見極めにくいと書かれているが、カギの字型に深くくびれたその奥に港の玄関口があり、折しも夕暮れ時で視界が悪いという条件が重なった。大きなうねりが断崖(だんがい)にぷち当り、白く泡立ち、風が波頭を吹きちぎり、湾の人口は柑梢 (るつぼ) と呼ぶにふさわしい状態だった。
 ヨットで本当に危険なのは、大洋の真中で会うシケではなく、陸近くの場合である。90パーセント以上の事故は海岸線で起きている。右岸にサン・ニコラスの塔が形をなして来たと見ると、その下に100人ほどが、我々の苦闘の様を観覧しているではないか。夕陽と荘大に砕ける披はドラマだが、そこへ風と波に翻弄(ほんろう) されている小舟がさらに興を添えたということだろうか。急な角度をもった波に船体が持ち上げられると舵(かじ)もプロペラも空中に出てしまい、操船が難しくなる。波の方は、紛れ込んで来たちっぼけな人造物の意向にはお構いなく、ポイッと所構わず放り出す。次の波が襲って来る以前に船を立て直そうとあがく。そんな光景を幾度となく繰り返す。80メートルしかない湾口にさしかかると、ギヤラリーもゾロゾロ対岸ぶちを付き従う。ヨットが岩にぷち当って沈むことを期待した面々は失望しただろうが、うねりの入って来ない湾中央の岸壁に肪(もや)いをとった時、ギヤラリーの何人かが手を惜してくれたことだ。

  こうしてシィウダダラにメノルカの第一歩を踏んた。シィウダデラは細島い湾の奥に位置する古い街だ。カルタゴの時代に造られたとする説が有力だが、シャンマとかイアンノマと呼ばれ、最西端の町を意味したという。港街といっても幅の狭い所で50メートル、広い所で100メートル、奥行きが1100メートルの、一部に護岸工事を施しただけのものだ。水深も4メートルと浅く、大型船の入港は出来ない。それだけに良く伸びた入江は美しい。南岸にヨットがぎっしり並び、すぐその場がレストラン、カフェレリアのテラスになっている。色鮮やかなパラソルや陽よけのテントがヨットと一体となり、いつか昔映画で見た南仏の光景を作り出している。城壁と旧市街がのしかかるように迫る。絵になる箱庭のような港だ。しかしシィウダデラは危ない港として知られている。突然水位が大幅に変化するのだ。潮汐(ちょうせき) 差のほとんどない地中海で急激に2メートルも海面が下り、そこに迫る船に大きなダメージを与える。予想が全く立たず、原因も、海中にある流れと地形的なものではないかと言われているがはっきりしない。

 シィウダデラの近郊には小さな入江が実に多い。サンタンデリア、ブランカ、デゴジャドール、ブラネス、ブルー、フォルカノトといずれも透明な海水をたたえ、俗化をのがれている湾がある。メノルカが、コスタブラバ、コスタデルソルや他のバレアレス諸島のように爆発的なまでのバカンスブームに見舞われなかったのは、メノルキー(メノルカ人) の性格と決断によるものと思われる。 チーズ、大理石、花崗岩(かこうがん)、レサークラフト等、観光に頼らなくとも糧があるからだとも言われが、イビサ、マンョルカのように食物の生量において絶対的な豊かさはない。メノルカは他の島々同様食の乏しい鳥だったようだ。フロリダへの植民が1767年にすでに始っている。その後南米、キューバだりではなく、アルジェリアやフランスへも移民団が送られる。とりわけアルゼンチンのコルドバへの移住が多い。こうした集団での移民は市民戦争後も続けられたが、少いとはいえ観光客が訪れるようになって初めて打ち切られた。
 島の人口の統計が明確になるのは1713年、第1次イギリス支配の時だが、それ以前、13世紀に、ラモン・モンタネールが島をアラビア人から奪い返した際には4万人のムーア人が住んでいたとある。この数字はあまりにも誇張されたものであろうり それから300年経た1573年でさえ752軒の家しかなく1588年でも1195家族が居住していたにすぎない。
多く見積っても一万人ほどだろうとと思われる。第一次イギリス統治の際、ヘンリー・ニイールなる政務官が詳細な人口調査を行うが、その後1950年までの200年間に倍に増えているだけである。そこに、島自休が食べさせていける口の数が決っていたと見るのが自然ではなかろうか。 長期にわたるイギリスとフランスの支配、それに続くマジョルカから送られて来る私腹を肥やすだけの為政者の群が、メノルカ人をすっかり排他的にしたとしても当然であろう。我々にとっては幸いなことに、メノルカは昔そのままの姿を見せ、遺跡を自然と時の流れの中に置くことになったのた。

       2013-10-17

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  カリブ海クルーズ
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  日本周航
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  輸入代行
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posted by 速魚 at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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