2013年12月07日

鈴木貫太郎



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 鈴木貫太郎

  寒くなりました。木枯らし小僧の寒太郎♪ と、つまらないシャレを飛ばすには、甚だ失礼な人物です。日本にとっては、敗戦のときに彼が首相の位置におってくれたからこそ戦争を終わらせることができました。沖縄の戦いは悲惨で激しいものでしたが、わずか数個師団の戦いでした。本土決戦にそなえて40個師団あまりを計画し、満足に銃器の配備のない師団もありましたが、満州から司馬遼太郎さんのいた戦車師団もいたことから、上陸戦を戦い降伏を認めない戦いで終わるまでには民間人も含めてさらに百万単位の死者がでたでしょう。彼はそれをさせずに終戦に持ち込みました。
 15年以上もボランテイアをして支援している政治家と盆暮れに飲む機会があります。その席で彼は鈴木貫太郎を尊敬する政治家によく挙げていました。小生は浅はかにも終戦時の首相レベルの知識でした。今回に工藤俊作のことを書くつもりで調べていますと、鈴木貫太郎なくして工藤俊作はいません。
 彼の海軍兵学校校長の時の教育方針(50と51期)
 鉄拳制裁の禁止、歴史及び哲学教育の強化、試験成績公表の禁止・出世競争意識の防止、自由時間を多く
 設定。工藤俊作も彼の艦内では制裁禁止を徹底していました。オラが艦長のためならと良い雰囲気でした。だから救助もできました。

    鈴木貫太郎略歴
 1868年 慶応3年 誕生
 1884年 明治17年  海軍兵学校
       日清戦争従軍
 1898年  海軍大学
        日露戦争 駆逐隊司令として3艦撃沈
 1914年 大正3年  海軍次官
 1918年 大正7年  海軍兵学校長
 1923年 大正12年  海軍大将
 1924年 大正13年  連合艦隊司令長官 
 1925年 大正14年  軍令部長
 1929年 昭和4年  侍従長 予備役
 1936年 昭和11年  2.26事件 致命傷を受けるが奇跡的に助かる
 1945年 昭和20年  内閣総理大臣  終戦処理
 1948年 昭和23年  死去

 1945年4月12日 ルーズベルト大統領死去に対して哀悼の談話発表(日本側発表は?)同じときにヒットラーが口汚くののしったことに比べて、トーマス・マンが感動して日本には死への敬意と品位があると声明をだした。
 彼の信条は軍人は政治にかかわるべきでないでした。強く請われて宮中に入ってしまったのでその後の海軍に影響を与えること少ないですが、兵学校の教育を海軍がもっとすすめていれば、違った歴史になったでしょうね。でも2.26と終戦の2度も暗殺の危機を逃れた彼の幸運な運命に日本は救われたといえます。
 12月7日 関宿にある鈴木貫太郎記念館に行ってきました。彼の居宅後にできた無料の記念館です、連れ合いを含めて4人の入館者でした。彼の性格を表しているのかもしれませんが、もっと世間が知って顕彰してもいいように思います。
 日本の海軍の良心が歴史に貢献してくれました。

                             2013-12-7

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posted by 速魚 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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