2014年05月25日

石光真清 3 望郷の歌 


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日露戦争  第2軍  1904年3月より1906年1月

 編成

 奥保鞏大将司令官   落合豊三郎少将参謀長
 第1師団から第5師団に変更
 第3師団
 第4師団
 第6師団 遼陽会戦より
 第8師団
 騎兵第1旅団・秋山好古
 野戦砲兵第1旅団
 軍医監・森鴎外

 戦歴

 塩大澳・上陸
 南山の戦い
 大連無血占領 
 得利寺の戦い 旅順救援の4万と戦闘して撃退
 遼陽会戦  橘周太戦死、崩壊の危機、
 沙河会戦 夜襲につぐ夜襲 補給に事欠く
 黒溝台会戦 秋山好古の奮闘
 奉天会戦  中央左翼に布陣


 帰国と伴に第2軍副官として招集。旅順口閉塞作戦を見て、上陸。攻撃に次ぐ攻撃で肉弾戦を戦う、ロシア軍との戦力差をこれでしか戦えなかったゆえに。反撃されれば壊滅の危機であったが、ロシアの撤退で救われる。砲弾も欠乏して補給を待ちながらの戦いであった。戦場で負傷したものは捨て置き、突撃を繰り返す白兵戦の戦いは日本軍の伝統となった。欧米の軍事知識と異なった奇策であったが、常識とは異なった戦いゆえに、まだ予備が有るのだろうと誤認させ、ロシアは撤退した。この勝利体験が軍部に軍備をそろえることなく、白兵戦で解決しようとした。後の太平洋戦争ではマンネリ化して作戦を読まれて玉砕していく結果になった。

 日露戦争が終わり招集解除・復員になる。民間人になったのだが、武士の商法で事業にはことごとく失敗する。自分の失敗は正直に表現できないものですが、細かく述べられています。石光真清は最後は海賊稼業を再建しようと画策することになります。
 当時の馬賊・海賊はカリブの海賊のごとく勇敢に戦って金銭・宝物を奪うことではありませんでした。現代では貨物保険会社のごとく、積荷の安全を保障して保険料を稼ぐのが稼業の中心です。日本の瀬戸内海の海賊もそうであったように。社会の中に組み込まれたものでしたが。
 最後に世田谷の郵便局を経営していくことになるのだが、これは国が先の情報活動の貢献を認めて与えてくれたものではありません。縁者の協力によりなったものです。作者の人生で家族と過ごす一番幸せな時期であった。

    2014-5-25


   石光真清の年譜
    http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#石光の年賦
    石光真清1 城下の人 
    http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#城下の人
    石光真清2 曠野の花
    http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#曠野の花 
    石光真清4 誰のために
    http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#誰のために

    杉原千畝
    http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#杉原千畝
  



posted by 速魚 at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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