2024年12月19日

興居島・ごごしま 、  ヨット泊地


 
 興居島・ごごしま

  

gogo 10.jpg
 高浜より泊と由良に1時間おきにフェリ−がでているので安く/250円便利である





 興居島へは高浜よりフェリーが1時間おきに由良と泊の2ヶ所に寄港している。 料金も250円なので近くて安く便利である。船内でレンタサイクルの申し込みもできる。

 かっては高速船が就航していたようでフェリーに変更になったので、そのためのポンツーンがある。由良のものは他船が利用しているようであるが、泊のポンツーンは空いているように見えた。 まずは、泊のそこを目指して利用できないのであれば、船越の緊急用ポンツーンが良いと思われる。大きなものでジャマにはならないであろう。もしダメなら横に予備のポンツーンがあるので心配ないでしょう。 高浜から電車で松山市駅にいくことができ市電で道後温泉に行くことが出来る。







   興居島のヨット泊地


 興居島へは高浜よりフェリーが1時間おきに由良と泊の2ヶ所に寄港している。 料金も250円なので近くて安く便利である。船内でレンタサイクルの申し込みもできる。

 かっては高速船が就航していたようでフェリーに変更になったので、そのためのポンツーンがある。由良のものは他船が利用しているようであるが、泊のポンツーンは空いているように見えた。 まずは、泊のそこを目指して利用できないのであれば、船越の緊急用ポンツーンが良いと思われる。大きなものでジャマにはならないであろう。もしダメなら横に予備のポンツーンがあるので心配ないでしょう。 高浜から電車で松山市駅にいくことができ市電で道後温泉に行くことが出来る。



 


gogo 20.jpg
  由良のポンツーン、 空はないようだ



 


gogo 30.jpg
 泊のポンツーン




gogo 40.jpg
 緊急バース、 右には予備バース、ここならいつでも良いか?





    2024-12-19



posted by 速魚 at 05:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月17日

八幡塚古墳、 二子山古墳、   群馬高崎

 


hatiman 10.jpg
 高崎 周辺図

 高崎駅で下車、コミュニテイバスの時間が2時間待ちであったのでタクシーを使う。[かみつけの里博物館]を降りると、すぐ八幡塚古墳と二小山古墳である。帰りは15分歩いて井出西バス亭より乗車して高崎駅まで行った。 なお、このバス停より東へ5分歩くと新幹線高架下に「三ツ寺1」遺跡がある。 他に前橋からここへのバス便もある。

 

hatiman 20.jpg
  付近 案内図



 上毛野(かみつけの)博物館の付近に「二子山古墳」と「八幡塚古墳」がある。 



hatiman  28.jpg
 中島、 二子山古墳から

 どちらの古墳にも堀の中に4か所の円形の場所・中島がある、古墳被葬者に対しての葬送儀礼がここで行われたと云われている。



hatiman 25.jpg
  八幡塚古墳



 ここは築造当時の埴輪を周囲が取り囲む姿に復元されている。 雑木林がうっそうと繁ったイメージの今見る古墳とは違う。



hatiman 30.jpg
  玄室、  石棺は円墳部から階段で下へ降りると展示されている

 



hatiman 40.jpg
  八幡塚古墳にある埴輪、 ユダヤ人埴輪

 三角帽子のミズラをつけた武人埴輪が見受けられ、博物館の説明は朝鮮渡来人の影響が述べられているが、この埴輪からはユダヤ人がここに影響したとしか思えない。


     <三ツ寺遺跡1

 

hatiman 70.jpg
  三ツ寺遺跡1の模型、  桝形虎口を思わされる三重の堅固な門

 5世紀末から6世紀にかけてこの地の王族の館。 新幹線工事により発見発掘された。 現在は何もなく下の看板のみで偲ぶことはできない。

 

hatiman 75.jpg
 新幹線高架下にある案内板


    2024-12-17



posted by 速魚 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月16日

睦月島 と 梅の子城、砦 、  ヨット泊地



 五時台の早朝のフェリーにて中島より瀬木戸海峡を抜け、 まだ、夜の空けない睦月島へ行く。 日の出を見ながら睦月島の東半分を歩いて梅の子本城と砦へ向かった。 帰りは高速船で芋子瀬戸を通り野忽那島経由で中島へ戻る。



mutuki 10.jpg
  睦月島 周辺図


  湊から海岸沿いを東へ歩く。 玄関が木の門のような特有の造りの街並みが続く。


mutuki 20.jpg
  武家屋敷のような玄関戸、 他の忽那の島々では気に留めることはなかった


 

mutuki 45.jpg
  睦月島の日の出




     梅の子本城 と 砦


 徒歩で東海岸沿いを進んだが、梅の木本城の登り口の案内が見つからずに行けなかった。マップでその下から中島を望んだ。

遺構の残存状態は非常によく、瀬戸内海地方の中世山城の構造を窺い知ることができる遺跡である。松山市のHPにそのように書いてあるけれど、それならチャントそこへ行ける案内を掲示してほしいものです。

 梅の木砦も道路から下へ降りて行っていない。


mutuki 55.jpg
  梅の子本城下より忽那島・中島の大浦、黒岩城、泰ノ山城を望む



mutuki 50.jpg
  梅の子砦



      睦月島  ヨット泊地


 睦月島のヨット停泊地は連絡船ポンツ−ンしか見当たらない。 高速船は海側を利用するようで、反対側の陸側なら候補地になるだろう。 時刻表を調べて着岸時刻を知っておく必要あり。



mutuki 60.jpg
  青丸が候補地

 北東風が強風の時は注意が必要である。

 

mutuki 65.jpg
  手前側の連絡船ポンツーンが停泊候補地



         2024-12-16


posted by 速魚 at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月14日

吉備津神社 と 王墓山古墳


 


kibitu 10.jpg
  吉備津神社 周辺図





  岡山よりJR吉備線にて吉備津駅下車、徒歩10分で吉備津神社へ行くことが出来る。 そこからタクシ-にて盾築遺跡と王墓山古墳に立ち寄れる。  半知識のせいか近くに吉備津彦神社があるのを知らずに行くことができなかった。 従いJR備前一宮で下車してここを加えて訪問するのが王道であろう。





        吉備津神社



 


kibitu 20.jpg
  境内図

 足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。






kibitu 30.jpg
 本殿   比翼入母屋造







 

     王墓山古墳



  この古墳は、明治末年に破壊されて、その形が著しく変形されており、その大きさや形については明らかではありません、方墳か円墳であったという。出土遺物には,四仏四獣鏡をはじめ金銅装馬具や鉄製武具,装身具類や須恵器など,大王墓にふさわしい多種多量の副葬品が知られており,これらは現在東京国立博物館に収蔵されている。




oubosan 20.jpg
  石室は横穴式か?





        2024-12-14


posted by 速魚 at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月13日

はにわ展

   

haniwa 10.jpg
 国宝 埴輪 挂甲の武人 

 12月8日 上野にある国立博物館で催された「はにわ展」へ行って来た。 最終日の日曜のせいか一時間待ちの大盛況。展示物を人の頭越しに望んできた次第です。 まあ、規模も事前に想像していた2−3倍のものとは違い、全国の「はにわ」が勢ぞろいする壮大なものと勝手な思い込みがはずれたということでした。  最近に柴山はにわ博物館に行って来たとはずいぶん違ったものになりました。

 「動物はにわ」の展示の前では「かわいい」という声が多く聞かれました。いつも耳にする表現ですが「はにわ」に向けられるとは意外でした。 個人的には彩色復元「はにわ」や「舟形はにわ」が気に入りました。 満員盛況で満足に見られなかったのは残念です。


  https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

 

haniwa 50.jpg
  舟形はにわ



haniwa 60.jpg
  彩色はにわ



 一階には常設展コ−ナーがあり。そこは混雑していなくて、ゆっくりと見られる。 縄文時代の遮光土偶の本物を初めて見ることができた。すばらしい。


haniwa 80.jpg
  遮光土偶



         2024-12-13


posted by 速魚 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月12日

津和知島,  ヨット泊地


 
    津和知島

    

 

 二神島より高速船に乗り津和知島へ来る。帰りはフェリ−にて元怒和へ渡る。




tuwati 10.jpg
  津和知島  周辺図



 津和知島は遣隋唐使の時代から風待ちの湊である。 現地に行ってみると北東風の強風にはここは少し弱い印象を受けた。その時には対岸の元怒和へ逃げれば良いようにも思われる。 

   


tuwati 20.jpeg
  中世・近世の航路図



 松山藩が寛永13年(1636年)、直営の公儀接待所として設けた「お茶屋」跡が診療所の裏にある。そこは津和地湾のほぼ中央に位置し、面積は1423.17平方メートルある。広さ89畳半の「お茶屋」、41畳の御長屋などの宿泊・接待施設をもち、津和地瀬戸を上下向していた長崎奉行以下幕府公儀役人の接待や西国大名の便宜を図っていたとある。

 


tuwwati 30.jpg
 お茶屋跡



  海岸沿いに徒歩にて南下15分ほどで津和知八幡神社に着いた。 なんと八幡神社の多いことよ。海上安全と豊漁を願うので他の島にもあるのは当然か。

 


tuwati 40.jpg
 津和知八幡神社





    津和知島  ヨット泊地


 高速船ポンツ−ンが利用できる。 時刻表で入港時期を調べておくと良い。 停泊時間は短くて着いて5分もすれば次に向かいますが。

 徒歩10分位の新港がある。ポンツーンと岸壁が候補地になるが、風向きによりウネリが入るようである。お店は見当たらないので買い物は不便でしょう。

 


tuwati 50.jpg
 青丸は候補地、   お茶屋跡




tuwati 30.jpg
 高速船ポンツ−ン

 


tuwati 45.jpg
 新港の階段のある岸壁、 うねりに注意


  
    2024-12-12



posted by 速魚 at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月11日

二神島、  ヨット泊地


   二神島  

 

hutagami 15.jpg
  


jutuna fery 15.jpeg
  二神島へは時間によりフェリ−と高速船の便がある


 三津浜よりフェリーに乗り二神島へ行く、帰りは高速船で津和知島へ向かった。

  二神水軍のゆかりを訪ねるべくこの島に向かった。 かつて、瀬戸内海の一方の旗頭であった忽那水軍の勢力も忽那義範以後は一族を率いる強力な後継者に恵まれず、辛うじて河野氏の家臣に連なり衰退の一途をたどった。 戦国時代には海賊の主流は村上氏や二神島の二神氏に移っていった。

 二神氏は長門の国・豊田から来たと云うが元々二神家はここにあったという。河野氏に属したようだが、その滅亡とともに庄屋として存続した。 現地には何も案内が無い。 城の山イブキ自生地があり、いかにも海賊砦の立地のようなであり、また、城山の地名があるので、そこは砦跡なのかもしれない。

 

hutagami 37.jpg
 城の山 イブキ自生地



hutagam 40.jpg
 安養寺、 電気柵に囲まれていた。  二神家の墓地があるというが見つけられなかった




   二神島 ヨット泊地

    

hutagami 20.jpg
  青丸は候補地、 新旧高速船の二つのポンツーン


  高速船の旧ポンツ−ンがあるので、そこは良い停泊候補地になる。



 

hutagami 30.jpg
  左がフェリー岸壁、 右は赤色の新高速船ポンツーン




 

hutagami 35.jpg
 旧高速船ポンツーン



     2024-12-11


posted by 速魚 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月10日

映画 グラデイエーターU 英雄を呼ぶ声

 



 gradieita 10.jpg




 これぞハリウッド映画と云えるもの。 いかにも充分なお金を注いで、CGでは無くて本物のセットで作ったと思わせる壮大な場面がふんだんに見られた。 


gradieita 210.jpg
   ローマ属州ヌミデイア



 最初のローマ軍団・船がヌミビアを攻城するシ−ンはすごいです。この戦いから主人公ルシアスが登場。映画のあらすじはネタバレになるので他に譲る。

 映画の時代背景となっているカラカラ帝・ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(188-217)その弟ゲタ(189-212)の時代であるが、史実ではカラカラがゲタを暗殺している。映画とは逆である。 塩野七生「ロ−マ人の物語文庫31-138ペ−ジ」をお読みください。 10年ほど前にブログを始める前に塩野さんのこの本を読んでしまっていたので、もう、面倒で読み返してブログに揚げることはない。 残念だがこの年では時間が無い。 若い方はその本をお読みになることを強くお勧めいたします。

 ロ−マ史だけつぶさに学べば他の歴史はどうでもよく、若い方には人生に役立つことでしょう。 こちらは半煮えで学んだとは言えない老人ですけれども。 イタリアのロ−マに行けてないのでカラカラ浴場を見ていない。


gradio 30.jpg
 左上がカラカラ、その下の顔が消されているのがゲタ



      2024-12-10






posted by 速魚 at 03:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月09日

釣島、  ヨット泊地

     

 
turusima 10.jpg
  瀬戸内海西部 釣島


 釣島は船乗りをしていた若い頃に、釣島水道を航行するには潮汐表を調べていたので、おなじみであったが、実際にヨットで今回初めて立ち寄りそこを目の当たりにした。 ここは関門や来島のような強流ではないので、今は老いてヨットに乗っているけれど気にしていなかった。

 今秋の忽那海賊を訪ねるクル−ズでは、泊地の下調べにてフェリ−に乗っていた。港内の写真を撮るべくサイドに移ろうとしていた時にフェリ−の行き足が強かったせいでガツンと岸壁に衝突した。 老生は港内の写真を撮るべく、自分の席を離れてサイド甲板へ移動中であったので頭と肩を柱にぶつけた。 幸いにも翌日になってもヒドイことは無く単なる打ち身で終わった。

 

turusima 15.jpg
 釣島

 忽那諸島のひとつである。 人口80人ほど、分校の小学校があり、中学は無い。 タコ漁とかんきつ栽培を生業としていっる。釣島灯台が松山市の有形文化財になる。


    釣島  ヨット泊地

 港内をヨットでぐるっと廻っただけで、もやいを取ったわけではない。 狭いので空いていても漁船が帰って来る確率は高い。 高速船の時間を調べて利用しない時間帯をよく確認すること。 地元の人に良く聞いてジャマにならなければ宿泊が可能でしょう。そうでなければ、 一時利用になるのでしょう。

 

turusima 50.jpg
 青丸は候補地、 高速船ポンツ−ン



 フェリー岸壁には、行った時には病院への運搬船が係留していた。



turusima 20.jpg
 青い立柱の高速船ポンツーンがある、奥の岸壁には階段が数か所あるが、地元の漁船が利用している 



      2024-12-9


posted by 速魚 at 03:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月07日

蘭島閣美術館  下蒲刈・呉




rantou 10.jpg
  蘭島閣美術館 周辺図




rantou 20.jpg



  下蒲刈へは何度も寄っています. ここは石畳で観光整備されている三之瀬にある木造の美術館. 見ていないが別館もある。



rantou 30.jpeg
 蘭島閣美術館  火曜休日、500円


 好みはそれぞれ色々である。個人的には感銘を受ける作品が少なかった。



       2024-12-7


下蒲刈 ヨット泊地 再考察
https://hayame.coolblog.jp/custom32.html#spb-bookmark-333






posted by 速魚 at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月06日

元怒和 と 上怒和  怒和島、  それぞれのヨット泊地


  元怒和 と 上怒和  怒和島


 忽那諸島へは中島汽船が運行しており、いずれの島へも高速船とフェリ−が就航しており時刻により選択できる。 松山の三津浜・大可賀に係留していたので、怒和島へ行くには、下図のごとくフェリ−に乗り三津浜から二神島へ、そこから高速船で津和知島を経て怒和島に着いた。帰りはフェリ−で神浦により釣島を経て三津浜へ戻った。

 怒和島にある。元怒和と上怒和を訪ねた。元怒和より上怒和へはフェリーで行く、バス便は無いけれど徒歩で1時間もあればそこに着くとのことである。 まあ、通常は2時間ほど次の便を待つことになるので、それもアリでしょう。

 

jutuna fery 15.jpeg
  忽那諸島の中島汽船路線図



 

nuwazima 20.jpg
  元怒和と上怒和、 


 

nuwasima 10.jpg
 怒和島 周辺図



    元怒和

 忽那諸島は冬の北西風を避けるべき位置に集落が歴史的に発展してきた。 元怒和も上怒和もそのような位置にある。 元怒和は今秋に悩まされてきた北東風を防ぐ位置にある。

 季節の変わり目に吹く強風は今年は11月8日まで続いた。 家に帰ったその日以降、天気は安定してきて今日12月6日まで晴天である。 これから寒くいなる12月中旬までが、本当との秋のクル−ズ日和になるのでしょう。 9月下旬に母港の岡山に出かけた、夏を思わせる暑い日が続いた。 10月中旬に巡航を出発したが、風待ちの日が2/3を占めることになった。 

 

nuwasima 20.jpg
 元怒和の歴史的建物


 漁港近くには歴史を感じる建物が在る。 厳島神社と延福寺を訪ねた。 


 

nuwasima 22.jpg
 延福寺


 

nuwasima 24.jpg
 元怒和厳島神社



   元怒和 ヨット泊地


  高速艇の時刻表を見て利用が無い時間を探す。 防波堤側なら空いていそうであるが、スペースが狭く水深には注意が必要と思われる。徒歩10分ほど北に新しい漁港があるが、水深と風によるウネリの侵入には注意が必要である。


 

nuwasima 30.jpg
  連絡船ポンツーン、  写真の奥側の防波堤側が候補地


 
nuwasima 35.jpg
  青丸は候補地、  北東の強風の時は上怒和より元怒和のほうが停泊にふさわしいと思われる





    上怒和

 元怒和から高速船で上怒和まで行く。 ここから中島の西中と神浦へ行く便がある。 高速船で神浦へ航き、連絡バスで中島・大浦へ帰った。

 港入り口付近の鼻から海岸沿いを15分ほど歩いた。 建物は古いものは無くて昭和になり建て替えされたようで、レトロとも言えないので感慨は無い。



 下記写真の鼻の小山はいかにも海賊砦の立地であるが、説明が見当たらなかった。



nuwasima 50.jpg
 入り口の鼻、 いかにも海賊砦みたい




     上怒和 ヨット泊地


 漁港は予想外に小さめで入り口にフェリー岸壁と高速船ポンツーンがある。 漁船用ポンツーンもあるが地元の人が使用しているようだ。 高速船が使用しないポンツーンの陸側がねらい目だと思われる。

 買い物と給油は不便。

 

nuwasima 70.jpg
  上怒和港   青丸は停泊候補地


 

nuwasima 60.jpg
  上怒和 高速船ポンツーン   陸側が空いている模様



     2024-12-6


     
posted by 速魚 at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月05日

宮の口の街並み,室尾の街並み  倉橋島、鹿島、  室尾のヨット泊地

 

 倉橋島海の駅の近くの桂浜温泉館よりコミュニテイバスに乗り宮の口の街並みと室尾の街並みを見てきました。レンタサイクルでも平坦地が多いので良いと思われる。 始発の温泉館では温泉に浸り、ここから呉行の路線バスがある。



kasima 10.jpg
 

 

    宮の口の街並み

 鹿島大橋にて倉橋島と鹿島が結ばれている。 その鹿島に宮の口の街並みがある。 歴史的保存の街並みを期待していたが、古い家並みではなくて、今では珍しくなった段々畑が残る街並みのようである。

 

kasima 30.jpg
 石積みの段々畑


     

     室尾の街並み

 宮の口で次のバスまで2時間余り待ち、鹿島大橋を通り倉橋島の室尾にて下車した。この町の方がやや規模の大きな集落のようである。 ここの街並みでの見どころは醸造酒酒屋の建物である。 宮の口と同じように保存地区の指定がないので、風情の街並みとはいかない。


muroo 10.jpg
  室尾の集落、林酒造と赤丸はヨット係留ポンツ−ン、

 


muroo 20.jpg
  室尾の街並み



 

muroo 25.jpg
  林酒造、  着物の展示をしている



 

muroo 30.jpg
  林酒造




        室尾・倉橋島のヨット泊地


  倉橋海の駅は温泉に入れることから人気でヨットの係留は3隻ほどになる。横抱きしてくれないときには、近くの室尾の旧連絡船ポンツ−ンがあるので、ここはどうでしょうか。 上図の赤丸の位置。

  

muroo 50.jpg
  旧連絡船ポンツ−ン



     2024-12-5



posted by 速魚 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年12月03日

ふたば海難慰霊碑  情島


 

hutaba 00.jpg
 ふたば、  日本カーフェリー所属

  

 今回の忽那諸島クルーズにおいて、情島にあるフェリー「ふたば」の海難慰霊碑へ気持ちを捧げて参りました。 29歳の頃にそのフェリー会社の船員をしていた。その「ふたば」に配属され、休暇下船の時にその海難衝突事故が起きた。上司とお客様がお亡くなりになりました。 その後30歳の時に会社を退職する。 69歳になってヨットを購入し、広島から松山に行く機会があったので怒和島水道を通る時に献酒をして弔う。 当時の報道では、怒和島漁民が救助をしてくれてその水道において事故が起こったと小生は今まで誤解していた。

 今度、津和知島を高速船で訪れる機会があり、そこを散策していて、その西岸がえらく気になったがそこへ向かうこと無く帰る。帰りは津和知島から松山へフェリーに乗り釣島へ入港することになった。 ヨットで釣島へ行くつもりであったから、下調べの港内写真を撮るために座席を離れて船のサイドへ移動している時に、突然大きな音と衝撃がして柱に1m飛ばされて頭と肩をぶつけた。フェリ-の行き足が強くて岸壁に船首をブツけた事故であった。打ち身だけで終わったけれど、小生以外には誰もケガをした乗客はいない。 不思議な縁を感じた。

 中島に係留していたヨットへ帰り、パソコンで「ふたばの事故」を検索してみた。 すると、情島に「ふたば」海難慰霊碑があることが判明した。事故現場は下図のように怒和島水道ではなくて津和知島の隣の情島であった。本当は情島の漁民が救助に力を尽くしてくれたことを知った。



hutaba 05.jpg
 「フェリ-ふたば」海難現場、 宮崎日向から広島への標準・第1と第2航路



  中島からの母港倉敷への帰途に、情島の水道(諸島水道・ミルガ瀬戸)を通峡して献花、情島に係留して慰霊碑に献酒する。何かに導かれて本当の処へ行ったことになる。 釣島でのフェリ−船内にて頭を打ち不思議な縁を感じることが無ければ、再び間違った怒和島水道をヨットで通行して献花・酒したことになったでしょう。

  

      事故の概要

 昭和51年・1976年 7/2 情島と諸島(もろしま)の間の水道・ミルガ瀬戸においてフェリー「ふたば」と貨物船「グレート・ビクトリー」が衝突。「ふたば」の船客4名と乗組員1名が死亡・行方不明になった海難事故が起きた。



  お亡くなりになった方

 福元洋子さん 22歳

 柚木章さん  56歳

 田中茂雄さん 52歳

 長谷川悠さん  29歳

 川岡保則  甲板長  43歳

   ご冥福をお祈りいたします

 

hutaba 10.jpeg
  島の名前などを実際に改めました





hutaba 20.jpg
  ふたば海難慰霊碑。  後は津和知島



hutaba 30.jpg
  水道に献花、島には満足な生花店が無いので野の花を摘んだ







  以下はこのブログでかって述べた見解  船員の常務 その3(2014年9月)です。 改めて現場を通航したので、勝手な再考・見解を述べます。

     かっての個人的な見解

 「海難審判の採決のとおりに両船が水道の中央付近で行き会わないような措置をとることはもちろんのことです。神鼻沖の水深の浅いところをA号(グレート・ビクトリー)が嫌って右舷対右舷の航過を想定して航行していたのは、法令の規定による「狭い水道を行きあう規定」では妥当な判断であったとはいえません。A号のみの航行なら問題ないでしょう。B丸(ふたば)も狭水道の法規どうりの航法を想定して航行しましたが、その想定がはずれて事故になりました。

 老生は欧州のコンテナ船で船舶の輻輳する海域のドーバー海峡や北海を航海して学んだことですが、VHFの16チャンネルは必ずどの船舶も点けっぱなしで聴取しています。それを利用して相手船の進路の意向や自船の進路の希望などをやりとり確認して衝突防止に役立てています。 当時の日本ではその利用は稀なものであった。 そんなに難しい英語ではありません。少し聞いて慣れれば日本人でも使えます。 今回の場合もB丸からA号に呼びかけて意思を伝えれば防げたのではないかと思います。

 A号が常識ばなれの行動をとるのならA号が呼びかけるべきかもしれません。今回は大型船どうしの問題ですが、ここで述べた本船とヨット・漁船のケースも有効です。 最近の学生は英語力が向上しているので、学校で簡単なテキストで習得できます、その使用を促す教育をすべきでしょう。外航日本人船員が絶滅した今では日本沿海で航行している大型船は外国人による運航となっています。水先人の能力も落ちている気配も感じますが、水先法を改正して狭水道を通航するケースでは水先人を義務つけるのも良いかと思います。今回は衝突予防法にはない港則法や海上交通安全法の適用される海域ではありません。かって中国船の大型船が鳴門海峡を通航しようとして事故ったケースもありますので日本の本船乗りの常識をこえる船長さんが運航しています。改正が必要です。」





     再考 2024年11月



 ふたば  要目、  総トン数 1,845トン、 全長82.9m、 幅15.5m、 満載喫水 4m

 グレート・ビクトリー  要目、 総トン数 7,519トン、全長150m、幅 不明、 喫水 不明

情島と諸島の間のミルガ瀬戸(諸島水道)は300mほどの狭水道である。 実際にここをヨットにて通航して見ると、上記の要目の船が瀬戸最狭部で行き会うのは無理なように思える。 500トン程度の瀬戸内でよく見かけるガット船どうしなら可能かもしれない。 実際に本船の通航は怒和島水道では見かけたが本・諸島水道では漁船しか走っていなかった。

 両船とも行き先の関係(A号:徳山とB丸:広島)で、この水道を通るのが最短になるので、船長としては通りたいところでしょう。ふたば慰霊碑のある鼻・荒神鼻はヨットから見ても白波と岩が見える浅瀬である。 ここを避けたいので通常では航路は諸島寄りになる傾向がでる。 実際グレート・ビクトリーはそのような判断で航行した。「ふたば」は最狭部で行き会いが予想されるのなら、それを避けるべく減速するか、もう一つの水道のイガイ瀬戸か怒和島水道を通る選択をするべきであったと思われる。 ミルガ瀬戸の航路は第2航路の社内規定であったようだが、やはり会社はここをはずして怒和島水道を常用航路と規定すべきであったろう。

 狭い水道では右側端に寄り左舷対左舷で行き違い航行するように法令がある。グレート・ビクトリーは浅いところを避けるために左端によって右舷対右舷で航行しようともくろんでいた。船乗りの常識とは違う行動であったので事故につながったと云えよう。事故が起こった後には何とでもいえそうだ。  .... かっての身内のことを勝手に述べさせてもらった..... 



 半世紀余り前のことをどうのこうのと言っている。 船の名前も亡くなられた上司の名前も調べるまで忘れていた始末。亡くなられたお客様も4名もおられた。このことは頭から抜け落ちていた。 間違った場所を通航して献酒するつもりでいましたが、遅ればせながら本当の場所へ導かれて、皆様にお祈り申し上げた。 慰霊を終えて岸壁まで戻ると、老夫婦が漁を終えて作業をされていた。「ふたば」のことをお話しすると「私が一番乗りで救助をしたんだよ」小生は船名を忘却していたが、地元の人々には半世紀余り前のことでも強く記憶されておられるのです。 お話しているうちに、急に込み上げてくるものがありました。

 昔からミステリ−好きであったけれど、今回のことは呼ばれたものだと思う次第です。



  参考法規   海上衝突予防法 

 第9条 安全であり、かつ、実行に適する限り、狭い水道の右側端によって航行する。

 第34条 短音・光 1回  本船は右に針路を転じている。

 第14条 2隻の動力船が真向いまたはほとんど真向いに行きあう場合において衝突する 恐れがある場合は、互いに左舷側を通  過することができるようにそれぞれに針路を右に転 じなければならない。今回は狭水道ですのでこの規定は適用されません。

 第38条 切迫した危険のある特殊な状況ではこの法律の規定によらないことができる。



 

hutaba 40.jpg
 赤・ふたば第2航路、青・ふたば第1航路、オレンジ・イガイ瀬戸航路



 

    情島 ヨット泊地



 港の入口は大変分かりにくい、防波堤と海岸が続いて見えてしまう。 接近しないと分からないであろう。 連絡船が日に4便あるようで、今回に着岸したポンツーン側かどうか不明である。 対岸の防波堤には階段が3か所くらいあるので、初めにそこへ着けて地元の人に空いているポンツーンを訪ねるのが正解であろう。

 意外と秋の強い北東風をここで凌げるのではないかと思われた。西風系が吹いてもよさそうである。 買い物や給油は不便であろう。



hutaba 60.jpg
  赤丸は実際に係留した場所、 青丸は候補地

 慰霊碑のある鼻の先は浅いので注意がひつよう。



hutaba 65.jpg
  情島  連絡船ポンツーン



    2024-12-3


posted by 速魚 at 04:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月30日

もしや 戦争が!  緊急衆知

 




war 2024.jpg
  スウェーデンが国民に配布したパンフレット「危機や戦争が来たら」



スウェーデンが戦争に備えるためのパンフレットを配布したニュースを読んだ後に、青山さんのYoutubeを見る。 個人的にはヒョットしてあるかもと危機感を持った次第です。 田舎の老人が述べても役に立たないのは現実ですが、テレビなどの大型オ−ルドメデイアは取り上げないのはいつものことです。

 日本はシェルタ−など一切の用意もなされていないので、庶民が準備をしても藻屑となる公算は多いと思われる。大地震に備える震災防備品くらいは必要かもしれません。 心の準備でも。

 青山さんが述べるように、 トランプ登場で英仏がウクライナに派兵して、戦争がが拡大してミニ大戦が起きる可能性はありでしょう。

 露中の爆撃機編隊が対馬と韓国の間を飛行して、韓国の防空識別圏に無断での侵入したニュ−スも今朝報道された。 プーテインにとっては習近平が失脚する前の、また、(これは小さいが)政権基盤が小さい日本の首相がいるこの時期が最大のチャンスなのかもしれません。



  青山繫晴 【ぼくらの国会・第850回】「駆け込み戦争?露北VSウ英仏 ミニ世界大戦」  21分

  https://www.youtube.com/watch?v=PnIMrF_Enzk&t=826s



  ウクライナへの派兵議論か 英仏、米の支援停止を警戒

  https://news.yahoo.co.jp/articles/385ab7720aa6c52338f0e26479957fd82d766527


   プーチン氏「政府中枢」への攻撃示唆

  https://news.yahoo.co.jp/pickup/6521104


  スウェーデン政府が国民に「戦争への備えを呼びかけるパンフレット」500万冊を配布

  https://earthreview.net/in-case-of-crisis-or-war-sweden/

  https://news.yahoo.co.jp/articles/aa054f68508b947012727bf162e07c90469dd52e



   青山繫晴 「習近平主席 失脚の予言が現実に」

  https://www.youtube.com/watch?v=67ufr_lAenk&t=761s


       2024-11-30

posted by 速魚 at 06:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月28日

野忽那島



 

jutuna fery 15.jpeg
  忽那諸島の連絡航路図



nokutuna 10.jpg
  野忽那島



 睦月島より高速船に乗り野忽那島へ行く。 忽那海賊の縁の地を探しながら、何も見つからず、皿山展望台ヘ登る。 恐らく砦跡か見張り台があったと想像されるが説明案内が無い。 そこから眺めると南東には村上海賊の鹿島、西の興居島北の倉橋島、仲間の>睦月島と中島が見られる絶好の見張り位置である。



nonakutu 60.jpg
  野忽那島からの展望




nokutuna 40.jpg
 皿山展望台にあった灯台か砲台と思われる跡


 島にはお店がないので連絡船待合所で昼食を食べた。 なおフェリ−には時間帯によると思うが売店でお弁当を売っていた。

 なぜかしらお風呂屋の廃業跡がグ−グルマップにも載っていて見てきた。こんな孤島に風呂屋があったのが稀有なことなのであろうか。



nokutuna 50.jpg
 風呂屋跡




    野忽那島  ヨット泊地



nokutuna 60.jpg
  青丸は候補地


 泊地候補は高速船のポンツ−ンの上図左側、フェリ−岸壁に並ぶ階段のあるところ、長い防波堤、湾奥にあるポンツーンが考えられる。北東風の強風になやまされたが、緊急の非難であれば、ここでもしのげそうな気がした。


nonakutu 65.jpg
  高速船用ポンツーン



   2024-11-28


posted by 速魚 at 03:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月26日

松山 ヨット泊地 考察

    


 道後温泉に行くために松山堀江海の駅はヨット停泊地に選ばれがちである。他の候補も知られていない。しかし、そこは北東風が強風の時は港の構造に問題があり直接に風波が押し寄せる。 ヨットが動揺して大きなフェンダーでも持たないと難儀することになる。 台風でポンツーンが壊れたこともあるといいます。堀江はガソリンスタンドが閉店して給油は不便になった。

 今春に小生が立ち寄った際にはさんざん揺らされたので、今秋の寄港の際には、時化が予想された時には懲りてここから中島へ避難した。 しかし、北東風の強風でここでも悩まされる。 松山周辺のヨット泊地を探訪してみた。


matuyama 10.jpg
 松山のヨット泊地 周辺図



matuyama 05.jpg
 松山市内の泊地・三津浜には停泊余地が見当たらない




   松山商業港 大可賀 ヨット泊地

 ここに2泊したが大きな港ゆえにウネリが入り込み軽快ではなかった。 ナギの時には利用できるであろう。 バスにて松山市駅に行くことができる。 下図の青丸候補地はハシゴのある場所が2ヶ所あるけれども、タグや作業船のジャマになるかもしれない。

 

matuyama 40.jpg
  松山商業港 大可賀  赤丸は停泊地、 青丸は候補地



matuyama 20.jpg
 大可賀の岸壁 上図の赤丸の泊地、 約3mの潮差があるけれど階段はある。 ウネリに悩まされた。



 

matuyama 30.jpg
  青丸 候補地




    興居(ごご)島のヨット泊地

 興居島へは高浜よりフェリーが1時間おきに由良と泊の2ヶ所に寄港している。 料金も250円なので近くて安く便利である。船内でレンタサイクルの申し込みもできる。

 かっては高速船が就航していたようでフェリーに変更になったので、そのためのポンツーンがある。由良のものは他船が利用しているようであるが、泊のポンツーンは空いているように見えた。 まずは、泊のそこを目指して利用できないのであれば、船越の緊急用ポンツーンが良いと思われる。大きなものでジャマにはならないであろう。もしダメなら横に予備のポンツーンがあるので心配ないでしょう。 高浜から電車で松山市駅にいくことができ市電で道後温泉に行くことが出来る。


 

matuyama 53.jpg
  由良のポンツーン、 空はないようだ


 

matuyama 52.jpg
 泊のポンツーン



matuyama 51.jpg
 緊急バース、 右には予備バース、ここならいつでも良いか?





     伊予のヨット泊地

 この港は諸風を防ぐので東西の強風でも都合が良い。 欠点は潮差により岸壁が高くなるので低潮時に入港すると。もやいを取るときにも岸壁に上がれないので、通りかかった釣り人に頼むしかなくなる。

 伊予の駅から伊予電鉄にて松山へ行くことができる。買い物もコインランドリーも便利である。

 

matuyama 60.jpg
 伊予港

 

      2024-11-26




posted by 速魚 at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月24日

黒岩城 再訪

 

    黒岩城


kuroiwa 10.jpg


 さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。 



kuroiwa 12.jpg
  黒岩城



kuroiwa 14.jpg
  案合板



kuroiwa 16.jpg
 中島・大浦港を望む





   黒岩城 再訪




 前回は断念したのを今回は登ってきました。 登り路はロ−プやチェ−ンで整備されていますが、倒木があったりでそろそろ再整備が必要だと思われた。本郭の山頂へは15分ほどで行ける。

 忽那水軍のっ歴史に詳しい忽那裕三さんによると、「忽那島本島を攻略するに、各攻撃軍とも本拠地の大浦湾を、直接攻めることはしなかった。大浦湾は奥行き1000メートル以上、間口700メートルの入り江で、湾内に軍船をもって侵入すれば、左右の両側面より攻撃をうけ、そのうえ後方の牟須岐島・睦月島の梅ノ子城(うめのこじょう)や粟井浦より退路をふさがれる。上陸をしたとしても、北の泰山城(たいのやまじょう)、南の本山城(もとやまじょう)より挟み撃ちにあってしまう」と解説。

 また、「忽那島に3年間滞在したとされる懐良親王がどこに居住されたかについては諸説ある。私説ではあるが、ご逗留願うには、安全面を確保しやすい黒岩城しかありえないと思われる。一行12人が生活する利便を考えたとき標高59メートルの小山というより岡である」との見解を示された。

 


kuroiwa 50.jpg
  縄張り図






kuroiwa 15.jpg
  登り口。 神社の手洗い場の近く



kuroiwa 30.jpg
 太い倒木がジャマしている



kuroiwa 40.jpg
  石垣跡か?


 

     2024-11-24


posted by 速魚 at 04:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月22日

中島・忽那島 バス一周


 中島・忽那島に停泊中に、北東風の強風に見舞われた。台風以外にフェリーが欠航することが少ないと云う日になった。 レンタサイクルで出かける日でもない。 そこで、島を一周している路線バスにて見て回ることにした。

 大浦港と西中港は島を横断することになるトンネルで結ばれている。 前回訪問した時にはそこを抜け、自転車を借りてトンネル以南を走破した。今回は、トンネル以北の北半分を廻るバス路線があるので乗車した。 その後神浦(かんのうら)にある忽那公碑を見に南回りの路線に乗った。

  中島には大浦港、神浦港、西中港へ連絡船が入出港する時刻ごとに合わせて連絡バスが運行している。東西航路のどちらかが天気の関係で運休しても、バス利用して中島の島民は松山へは行けるようだ。今日は東航路は運休で、西航路は走っていた。

 

jutuna fery 15.jpeg
忽那諸島 中島汽船航路図、 赤線は東航路、青線は西航路、 フェリーと高速船が就航



  北回りコ−スでは途中でバスが停止して運転手さんが降りて倒木を取り除く珍しい場面に出くわした。 周辺の民家も少なく住民重視の福祉路線のようだ。 私一人が乗客である。



kutuna bus 20.jpg
  運転手が降りたシ−ン、  



  南回りコースは神浦(かんのうら)で下車して忽那公碑を見る。 南北朝時代に活躍し忽那水軍の黄金期を支えた忽那義範が、南朝方の懐良(かねなが)親王を北朝の足利方からお守りしたことを称えている。忽那諸島を今回に巡ったけれど忽那水軍・海賊を記念したものはこれひとつだったような気がする。懐良親王がどこに住んだのかも分からなかった。

  忽那義範は鎌倉時代後期から南北朝の時代の忽那諸島を本拠とした水軍の武将。南北期は宮方に属した。南朝の懐良親王をこの島に1339年から3年間保護した。軍功により柱島や備後の灰田郷の地頭職、周防国長野郷地頭職を安堵される。晩年は、足利尊氏との対立により宮方に転じた足利直冬と連携し活躍した



kutuna bus 30.jpg
 忽那義範公表忠碑、  瀧神社内


      2024-11-22


posted by 速魚 at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

中島・忽那島 バス一周

   

 中島・忽那島に停泊中に、北東風の強風に見舞われた。台風以外にフェリーが欠航することが少ないと云う日になった。 レンタサイクルで出かける日でもない。 そこで、島を一周している路線バスにて見て回ることにした。

 大浦港と西中港は島を横断することになるトンネルで結ばれている。 前回訪問した時にはそこを抜け、自転車を借りてトンネル以南を走破した。今回は、トンネル以北の北半分を廻るバス路線があるので乗車した。 その後神浦(かんのうら)にある忽那公碑を見に南回りの路線に乗った。

  中島には大浦港、神浦港、西中港へ連絡船が入出港する時刻ごとに合わせて連絡バスが運行している。東西航路のどちらかが天気の関係で運休しても、バス利用して中島の島民は松山へは行けるようだ。今日は東航路は運休で、西航路は走っていた。

 

jutuna fery 15.jpeg
忽那諸島 中島汽船航路図、 赤線は東航路、青線は西航路、 フェリーと高速船が就航



  北回りコ−スでは途中でバスが停止して運転手さんが降りて倒木を取り除く珍しい場面に出くわした。 周辺の民家も少なく住民重視の福祉路線のようだ。 私一人が乗客である。



kutuna bus 20.jpg
  運転手が降りたシ−ン、  



  南回りコースは神浦(かんのうら)で下車して忽那公碑を見る。 南北朝時代に活躍し忽那水軍の黄金期を支えた忽那義範が、南朝方の懐良(かねなが)親王を北朝の足利方からお守りしたことを称えている。忽那諸島を今回に巡ったけれど忽那水軍・海賊を記念したものはこれひとつだったような気がする。懐良親王がどこに住んだのかも分からなかった。

  忽那義範は鎌倉時代後期から南北朝の時代の忽那諸島を本拠とした水軍の武将。南北期は宮方に属した。南朝の懐良親王をこの島に1339年から3年間保護した。軍功により柱島や備後の灰田郷の地頭職、周防国長野郷地頭職を安堵される。晩年は、足利尊氏との対立により宮方に転じた足利直冬と連携し活躍した



kutuna bus 30.jpg
 忽那義範公表忠碑、  瀧神社内


      2024-11-22


posted by 速魚 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月20日

下蒲刈 ヨット泊地 再考察





 ヨットマンの聖地と云われていた弓削海の駅は最近は上関にその地位を譲りつつある。 その中間に下蒲刈がある。40マイル近くのの距離でどちらへもちょうどよい泊地となる。

 瀬戸内の風は強い時には季節により東西の風が続いて吹く。 11月前後には北東の風が主風となるようだ。 その状況によりA,B,Cの3つの泊地が考えられる。



simokamagari 10.jpg
  A,B,Cの下蒲刈泊地



A, 丸谷  クルーズ船用ポンツーン

 西風強い時には適。 金土日月の午前中には写真左側に「島たびクルーズ船」が寄港する。 午後に着き朝早く出るのならどこに着けても問題ないようだ。 買い物と給油には不便である。

simokamagari 20.jpg
 丸谷ポンツーン

  ここのポンツーンが利用できない時にはすぐ近くの大型作業船が着けている漁船用ポンツーンの下図青丸の一部に空があるようだ。



simokamagari 25.jpg
 赤丸は停泊地、青丸は候補地、Xは不適泊地



B,  見戸代 旧連絡船ポンツーン

simokamagari 30.jpg
 赤丸 停泊地

 西風が強い時には適。 すぐバス亭があるので呉に行くのには便利。



C,  向・ 上蒲刈島


simokamagari 40.jpg
  赤丸は停泊地、 ポンツーンの両サイドは作業船がそれぞれ利用している

 東、北東風の強い時には適。 小さな食料品店がある。弁当くらいは買える。



    2024-11-20



posted by 速魚 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月18日

泰ノ山城  再訪

 
  泰ノ山城 

 文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。  南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。

 今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。



    泰ノ山城、 再訪



tainoyama 10.jpg
  泰ノ山城 周辺図


 前回からの書き足しで、文治5年(1189年)に忽那氏5代の兼平が築城し、天正13年(1585年)、小早川軍の攻略までの約400年間、忽那水軍の拠城であった。

 1日200円のレンタサイクルで途中の長善寺で自転車を置き、そこから徒歩30分の登り路を行く。泰ノ山山頂から南西に下ったところが城跡のようだ。 ミカン畑といっても傾斜地でこのあたり全ては栽培地になっていた。


 

tainoyama 15.jpg
 案内板


 腰曲輪と井戸と城壁の石垣があるというけれど、見つけることができなかった。南北に望めば倉橋島や大浦湾が見通すことが出来て船の通航監視にはふさわしい場所である。



tainoyama 40.jpg
  長善寺




tainoyama 30.jpg
  大浦を望む

 

tainoyama 32.jpg
 倉橋島方面を望む



        2024-11-18


 
posted by 速魚 at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月16日

音戸の早瀬瀬戸 と 女猫の瀬戸

  音戸の早瀬 と 女猫の瀬戸



onndohayase 10.jpg
  倉橋島海の駅から下蒲刈へ



  倉橋島海の駅より次の寄港地下蒲刈へ行くには2つの航路が考えられた。

1. 鹿島大橋を抜けて蒲刈大橋を通航していく航路

  距離は最短である。 北東の風の時には風力強く、上りになり厳しい

2. 音戸の早瀬を抜け音戸の瀬戸を通峡して安芸灘大橋(女猫の瀬戸)を航行する航路

  距離長く、狭水道航法になる

 秋のこの時期は季節の変わり目で北東風が継続して強い時期である。そのため倉橋島では3泊して天候の回復を待った。慎重を規して早瀬の航路を選択した。


   早瀬の瀬戸

hayase 10.jpg
 早瀬大橋  橋高36m

 江田島と倉橋島に架かる早瀬大橋は呉からの軍艦の航行が考慮されているので高さはある。 早瀬の瀬戸の航行は倉橋島側に接近しすぎてヒヤリとした。 



ondo hayase 20.jpg
 早瀬の瀬戸  倉橋島側に浅いところがある





 音戸の瀬戸ではいつものことであるが松山からの高速船に水路の中央で出会う。小型船どうしなので左舷対左舷でかわした。


ondo35.jpeg
  音戸の瀬戸





   女猫の瀬戸


 今回は下蒲刈の真近の女猫の瀬戸で難儀をした。下図の黄色の航路で見られるように下蒲刈側に寄って安芸灘大橋を抜ける寸前まで航ったが速度ゼロになり進まず。 大きく落とされて本土側を目指して針路をとった。反流をつかんだのか進み始めて下蒲刈港に入港することができた。 何度もここを通航したがこんな目にあったことはない。 最強時の反流にあったのであろうか。気をつけなければなるまい。



akinada.jpeg
  安芸灘大橋


meneko 30.jpg
 女猫の瀬戸


    2024-11-16


posted by 速魚 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月14日

熊山遺跡 と 楯築遺跡

 
熊山遺跡



kumayama 10.jpg
 熊山遺跡の周辺地図



 熊山遺跡には山陽本線の熊山駅で下車して、タクシーにて訪れた。 車の中から途中の山道を眺めると、老体にはその道を登るのは無理だと感じられ乗ってきたのは正解であったと思われる。 この遺跡を訪ねるには徒歩なら1日を用意しなければならないであろう。



kumayama 22.jpg
  熊山遺跡



 上写真のようなマヤ・インカの遺跡を思い起こさせるピラミッド形式である。 付近に30余もこれらがあるというが見ていない。

奈良時代の仏教遺跡であろうと云われているが、まだ謎である。 方形の竪穴の中には、古墳によく見られる円筒埴輪のような陶製筒形容器(とうせいつつがたようき)と奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ)が納められていた。陶製筒形容器は奈良県天理参考館に収蔵されており、奈良三彩小壺は現在失われています。

 

kumayama 30.JPG
 陶製筒形容器  天理大学保管






   楯築遺跡 ・たてつきいせき

 

tatetuki 10.jpg
 楯築遺跡の周辺地図



 JR山陽線の庭瀬駅で下車、タクシーにて楯築遺跡にむかう。途中に王墓山古墳をチラ見してたどり着いた。 帰りはタクシーを呼び吉備津神社まで行き、徒歩てJR吉備津駅から帰還した。


 
tatetuku 20.jpg



 2世紀頃の卑弥呼の時代の墳丘墓です。円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ特異な形をししており、ストーンヘンジのように巨石が立っています。このストーンサークルは、伝説の上では、温羅(鬼)の射た矢を防ぐ「楯」を「築」いたものと伝えられていますが、墳丘を築いた際に、何らかの祭祀を行う場として作られた説が有力なようです。



tatetuku 26.jpg
 復元想定図

  上図のように円丘部の上下に長丘部があるが、宅地開発と給水塔の工事で失われている。 現在は給水塔の撤去工事が行われている。

 

 当時には高価な水銀朱が発掘されたところから、相当高貴な方の墳墓だと思われる。 卑弥呼の時代の当地・吉備国は大いに発展していたことがうかがえる。

 すぐ横に宝物館があり、窓から暗いながらも亀石を覗き込むことがでる。




tatetuku 40.jpg
 発掘風景  赤い水銀朱



     https://www.youtube.com/watch?v=j-gSSr5JdiQ  10分



 徳島で見た日本最古の古墳と云われる萩原2号墳の形状とよく似ている。

 

hagiwara2.jpg
 萩原2号墳

https://hayame.net/custom45.html#spb-bookmark-1190


    2024-11-14


 
posted by 速魚 at 05:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月12日

忽那山城・くつなやまじょう

   忽那山城・くつなやまじよう、 銜山くつわやま城・轡山くつわやま城


yamasiro 05.jpg
  忽那山城の周辺地図

 

yamasiro 15.jpg
  田能村竹田三津浜図  1834年  忽那水軍史より転載



中島よりフェリーに乗り三津浜で下船。 タ−ミナルより南へ海岸沿いを歩く。 岸壁の倉庫、オイルタンクや工場を過ぎると小山のようなものが海に突き出ている、往々にして岬の端にそれがあれば城・砦跡であるのであるが、まさにそのとうりで忽那山城跡であった。 その周りを廻ったけれど案内板も登り口も見つからなかった。 衛生センターが大きく囲んでいる状況で見つけにくいわけである。


yamasiro 20.jpg
  忽那山城、 50mほどの高さである、 



yamasiro 10.jpg
 登り口と思われるところ


 第11代忽那重勝が1346年頃にこの地域を得て、忽那山城・砦を築いた。ここで九州関係の船の出入りを掌握した。

この城は元は島であった。この城の築城と共に北吉田の「大濱新田」が忽那一族のもとで開発された。その後松山藩により、戦中はあのB29と激闘した松山航空隊の基地として、戦後は工場用地として開発されてきた。


      2024-11-12


  
posted by 速魚 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年11月10日

2024年 秋巡航  忽那諸島



 

2024 kutuna 10.jpg
 その1  児島から中島



2024 kutuna all.jpg
 その2  忽那諸島

 

 今度の巡航は忽那海賊のゆかりの島々を訪ねることであった。松山市に中島町は合併したことから、市の教育委員会や観光局は忽那海賊を取り上げる意向が薄れてしまったようだ。 現地の島々には案内の立て札は存在しない。 それゆえに現地へ行くには、余ほど十分な下調べが必要ということになる。

 10月30日に船検があるということで9月25日に小生はマリ−ナ入りを果たしたが、受検の日程が1週間延期されてしまった。 例年なら台風の本土上陸が止む10月半ばごろからクルーズの計画を立て、 実行していたけれど、今回は船検の統合で早めに児島へ来た。 今年は夏の猛暑を引きずっていた来訪日であったので出港する日までクソ暑さに参った。 クル−ズを終えて11月初めの帰港日まで、北東の強風に悩まされてヨットで訪問するはずの島々の泊地の情報が不確かなため、忽那諸島にはフェリーや高速船を利用することが多くなった。 この時期の天候は季節の変わりに目あたり悪天候が続いた。低気圧接近して雨の日のほうがヨットにはむしろ良かった、その後高気圧が張り出してくるとその周辺の強風が続き悩まされることになる。かって伊予灘の北東風の時化にエライ目にあった覚えがある。

 泊地情報は足で稼いできたつもりであるので、この後ここでご報告申し上げられるであろう。

 30歳までの47年前に、フェリ−の乗組員をしていた。休暇で下船した後にその2000トンのフェリーが衝突して沈没した。上司とお客さんが亡くなられた。 誤解していたその位置も判明してお花とお酒を海難慰霊碑に捧げることができたのは、最大の幸運であった。



  巡航日程

9−25  児島到着

9-26  船検備品購入に岡山マリンへ、 火薬類は購入できず

9-30  下津井船具屋にて 小型船用火せん註文

10-1  鷲羽山 展望台へ行く

10-2  セールカバー縫い

10-3  ヤンマー部品注文

10-4  火せん 受け取り

10-7  JCI  定期検査 沿岸小型合格

10-8  検査合格書類を受け取りに岡山JCIへ

10-9  機関ストップワイヤ−交換

10-11 機関ミキシングエルボ交換

10-12  熊山遺跡、吉備津神社、王墓山古墳、楯築遺跡らを見学

10-14  児島より弓削海の駅、

10-15  弓削泊、 潜水して船底カキ落とし

10-16  弓削より下蒲刈へ、 下蒲刈泊

10-17  下蒲刈より中島へ、 中島泊

10-18  中島泊、 泰ノ山城、長善寺、黒岩城、

10-19  中島泊、 フェリーにて松山三津浜へ、道後温泉、忽那山城へ

10-20  中島泊、 風速20mにてフェリ−欠航、 島内バスにて島一周、忽那公碑

10-21  中島泊、 フェリ-にて睦月島へ、梅の子城、梅の子砦、高速船にて野忽那島へ里山へ

10-22  中島より松山三津浜商業港へ、  松山商業港泊

10-23  松山商業港泊  フェリーと高速船にて二神島と津和知島へ、釣島にてフェリーが岸壁衝突事故で頭部と肩に打ち身、  

10-24  松山商業港より再度中島へ、 途中に釣島入港、 中島泊、

10-25  中島泊、 高速船にて松山高浜へ、興居島へフェリ−にて渡る、道後温泉で入浴

10-26  中島泊、 怒和島の元怒和と上怒和にフェリーと高速船で行く

10-27  中島より情島へ、 ふたば海難慰霊碑へ、情島より柱島へ、柱島より倉橋島海の駅へ、 倉橋島泊

10-28  倉橋島泊、 宮の口の街並み,室尾の街並み

10-29  倉橋島泊、  バスにて呉行き、 呉湾内クルーズ乗船

10-30  倉橋島から音戸早瀬、音戸の瀬戸と女猫の瀬戸経由で下蒲刈へ、  下蒲刈泊

10-31  下蒲刈泊、  蘭島閣各美術館

11-1  下蒲刈から弓削へ、 弓削泊

11-2  弓削泊、 インランド温泉入浴

11-3  弓削から児島へ

11-4  児島泊、 バックスエイアジャスターロ−プ交換

11-5  児島泊、 大型俵フェンダー製作

11-6  児島泊、  機関冷却サーモスタットとゴムホ−ス交換

11-8  わが家へ帰還





      2024-11-10








posted by 速魚 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月25日

国内最大級の集落群、デーノタメ遺跡の謎!




   https://www.youtube.com/watch?v=xuo4kMYXKs8



 JR高崎線 北本駅より徒歩20分、北本団地行きバスにて団地東まで5分下車、徒歩1分。

 北本は高崎線で上野から高崎に行くまでの間に、路線の車窓景色が唯一とも云う、珍しく線路両側に樹が立っていて、その間を走っていく風情が眺められる。  首都圏から50km圏ゆえに住宅開発がバブルの時に1駅までの桶川で終息した。それゆえに住宅地造成か遅れて、武蔵野台地に雑木林が残った。 開発途中の区画整理地の道路計画でここが発見された。



debotama 10.jpg
 北本周辺図

 デーノタメ遺跡はこの秋に国指定の遺跡になる。縄文中期から後期の1200年間以上に渡って営まれた環濠集落である。 関東最大級のものとなる。100年に1度の発見と云われている。 遺跡と云えば貝殻や魚の骨であるが、それらは見つかっておらず、どんぐり・栗・クルミやヒスイ製品、表面や内部に大豆・小豆を埋め込んだ土器、ニワトコやコウゾの粒、ヒメコガネの死骸などが発見されている。住人が、食糧確保などに便利なように森林の植生(くるみの人工林)を改変するなどして暮らしていたことが推測されている。



denotame 15.jpg
  遺跡全体図



denotame 20.jpg
  発掘風景




danotame 30.jpg
 後期前葉集落跡




danotame 32.jpg
  低湿地跡



danotame 35.jpg
 中期後葉集落跡


 5−6年前のここを遺跡と知らぬ時に散歩したことが有る。 雑草が枯れた時期であったのであろうこの遺跡の中央部分には開けたところがあった。 そのつもりで今回はヤブの中に分け入った。 1m位の雑草が繁樹していてとんでもないヤブ漕ぎになってしまった。半ズボンであったので下肢は傷だらけになってしまう。 まもなく国指定され予算がついて来年度以降には公園整備されるであろうことから、中へ入るのは、しばらくお待ちになったほうが良いでしょう。

 
danotame 40.jpg
  大量の雑草   



      2024-9-23


posted by 速魚 at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月21日

平田篤胤 、  日本のレオナルド・ダヴィンチ



hirata 10.jpg
 1776-1843




  幕末の歴史好きの小生はここで「松尾多勢子」をとりあげています。信州の伊那谷に平田篤胤の信者が6割も占めたと云う。また、篤胤は彼女のような52歳(当時は今と違い大老人)が京に出て志士活動をさせるほどの大きな力を与えた。 幕末の志士は平田篤胤の大きな影響を受けている。

 

  まだ、小生は彼の著書を読んでいないので、ここに何かを書くレベルではないけれど、ファーストインプレションでも述べたいと思います。

篤胤は佐竹の秋田藩の大和田家の4男とし生まれる。

20歳にして江戸に出奔する。肉体労働をして苦学する。

25歳で備中松山藩士の平田家の養子となる。

26歳で綾瀬と出会い結婚する。本居宣長の没後にその著作を読み国学に目覚める。私塾を開き門人が3人から555人になる。

1812年・37歳の時に愛した妻を亡くす。会いたいゆえに霊界研究に向かう。

1813年対露危機に関して情報を集める、ロシア語辞書を編纂。

1818年・43歳 再婚。 1823年松山藩を辞す。

1824年中国やインドの経典類の考究。1831年以降暦日や易学に傾倒。

1838年故郷秋田藩への帰参が認められた。1841年暦制を批判して江戸追放、秋田藩に召し抱えられる。

1843年病没。

 著書が100冊もあるというが何を読めばよいのであろう。

 
  

    ロシアの脅威と江戸のダヴィンチ・平田篤胤|茂木誠   25分

    https://www.youtube.com/watch?v=46Uj_5kINmw


      2024-9-21




 
posted by 速魚 at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月19日

映画 奇跡のシンフォニー  

      August Rush  2007年




 
kiseki symphony 10.jpeg



  BSから録画したこれを余り期待していなかったので、2回に渡って見た。 満足した映画であった。 初めのうちはストーリーの展開がバラバラに構成されていたので理解しずらかったが、流れが後半になると先が読めるようになった。

 最近のアニメの映画化したものを見ることがあるのですが、フィクションとはいえ奇想天外なものが多い印象を受けている。 それは老人故の頭が固くなった故でもあります。

 孤児院の孤児が脱走して最後は死んだと思われていた両親にコンサートを通じてめぐり合うというお話である。 最後に親子3人抱き合うところまでは描かれてはいない。それにしても楽譜を知らない主人公が短期間のうちに幻想曲を作曲してジュリアード音楽院のコンサートで曲を披露するなどとてもあり得ない。 日本が舞台なら嘲笑を受けるレベルである。 しかしニューヨークでは路上ライブや孤児を食い物にする親方、天才少年のジュリアード音楽院での教育などリアリテイのあるものである。 実の親子がオンサートでめぐり合うなんていうのは表題と同じ奇跡であろう。 実名は「August Rush 」で奇跡の文字は無い。 日本の配給者の命名がすばらしいのである。 

 まだ、見られていない方はご覧になっても損はないでしょう。



       2024-9-19



posted by 速魚 at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月17日

ユダヤ埴輪  柴山はにわ博物館



 東京駅より総武線・快速で千葉へ、乗り換えて総武本線銚子行きに乗車、JR松尾駅で降車。 コミュニテイバスの時間が合わなくてタクシーにて「柴山はにわ博物館」へ着く。 帰りも待ち時間が多くなったので、今度は成田空港第1ターミナルからスカイライナーで帰ることになった。 コミュニテイバスの時刻を調べておく必要が大事であった。 「柴山はにわ通り」には成田空港行きシャトルバスがあるので、殿山古墳を先にするのもありかも。

 
haniwa map 10.jpg
 柴山マップ



  「日本とユダヤの古代史&世界史」を読んでいたので、さっそく柴山のはにわ博物館」へ行きました。 「ひげの武人はにわ」とも云われていますが、確かに顔の表情と云い独特のユダヤまげを結んでいることなど小生には「ユダヤ人はにわ」と実見・実感した。

 

haniwa 20.jpg
 姫塚古墳出土、  人間と同じくらいの大きさがあり意外であった



haniwa 22.jpg
 姫塚古墳出土、 「馬のはにわ」も出土



 この殿塚と姫塚の古墳は古墳時代後期の6世紀に築造されたという。 ユダヤ人渡来の5つの波(前著より)それの第4波や第5波の渡来人がここで定着・同化したと云えましょう。 その時代を年表で見てみよう。

 応神天皇の時代新羅の妨害で足止めされていた弓月君の2万人をに受け入れた。その子孫が秦氏であったと云いう。織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草など広めたという。 展示品の中に鉄剣があったのも納得である。

 縄文・弥生の時代には馬がいなかった。5世紀前後から馬が日本でつかわれるようになったという。 ここの古墳中期以降の遺跡に「馬のはにわ」があるのは先進的なことであろう。 地方の豪族となっていた渡来ユダヤ人が鉄剣をもち馬に乗っていたことがわかる。


         2024-9-17


posted by 速魚 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月16日

 瀬戸水軍の終焉

 

  

suigun 10.jpg
           祥伝社文庫



 海賊はカリブの海賊のように金銀財宝の積荷を奪うようなイメージがある。 しかし、日本は植民地を持っていたわけではないので、地方の荘園のお米を京にいた荘園主に運んでいた積荷がメインであった。日本の海賊は襲ってもコスパは悪く、次第位に帆別銭・警護水先料を得るようになる。

 戦国への時代が進み、厳島の戦い、第1・2回の木津川の戦い、文禄・慶長の役、秀吉の海賊停止令、関ケ原の戦いを経て日本の海賊は終焉を迎えた。藩の水軍として生き延びることになった。また、海から離れたところに領地・住まいをもつことになった。



村上海賊、 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。来島や因島村上は小早川に従う。能島は大友について他と対立するが、能島も毛利に加わる。 木津川の2回の海戦で勝利し敗北をする。関ケ原で毛利は敗れて,船手衆として残る。来島村上家・久留島家だけが大名として維新まで残る。

   村上水軍 まとめ

忽那海賊、  南北朝時代に忽那氏は後の真田氏のように両天秤を懸ける。兄は北朝、弟は南朝である。征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐(かね)良(なが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。南北の抗争の週末とともに次第に消えていく。

https://hayame.coolblog.jp/custom10.html#spb-bookmark-307

九鬼海賊  九鬼嘉隆は長島の戦いに参戦し鳥羽に拠を移す。木津川の海戦で鉄甲船で勝利する。信長・秀吉に信頼された。関ケ原では自分は西軍に息子は東軍に属し敗北して自害した。九鬼氏は摂津の三田と丹波の綾部の2藩で5万5千石で維新まで続いた。

  https://www.youtube.com/watch?v=g31JXN4Mo3o

塩飽海賊  毛利方に与していたが石山本願寺合戦で信長に味方する。信長、秀吉、家康から朱印状を得て御用船方となる。人名政のもとで自治権を持つ。幕末には咸臨丸の主な水夫として活躍する。船大工としての伝統ものこる。



河野海賊  源平合戦の屋島壇ノ浦の合戦で源氏方として活躍。元寇の役で九州に出陣。南北朝期、北朝に属した河野水軍は、南朝方についた新興勢力・三島村上水軍や忽那(くつな)衆と対峙した。通常倭寇は北九州の対馬・壱岐・松浦を中心とした漁民・浮浪民などの海賊集団と考えられていますが、瀬戸内海の水軍もその一翼を担っていた。 秀吉の四国征伐に屈服。小早川氏に庇護をうける。



   2024-9-15


posted by 速魚 at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記