2024年09月15日

明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡高通さん

 

 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。

 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作・大久保利光・伊藤博文・勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。



oohats 10.jpg


 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830〜98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信、伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。



oohata 12.jpg
(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838〜1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825〜83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16〜7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文、井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。



oohats 14.jpg
(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。




oohats 16.jpg
(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリカ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリスの海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団(1871年6月〜73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋−横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19

oohata 05.jpg
 大幡さん


  友人であり盟友であった大旗高通さんが93歳で一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

     2022年4月5日


posted by 速魚 at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月13日

全国ヨット泊地 最新更新  2024-09


全国ヨット泊地 最新更新 2024-09

  hakuti 88.jpg


四国88ヶ所のお遍路のために四国各港を訪れました。 最新の更新をいたしました。

全国ヨット泊地 最新更新  2024-09

     2024-9-13

posted by 速魚 at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月12日

松江豊寿  坂東俘虜収容所


 



bando 10.jpg
1872-1956
  



bando 12.jpeg



  第1次大戦でドイツの俘虜は4715名であった。そのうちの1000名余を徳島鳴門市にあった坂東俘虜収容所に収容した。その2年10か月を会津出の松江豊寿大佐が所長を務めた。


 映画バルトの楽園を見ましたが、ご覧になった方も多いでしょう。 ベートベンの第9が日本のここで初演されました。 第2次大戦で各国の俘虜の悪しき待遇が一般化していますので、信じられないような人道的な待遇がこの収容所で行われました。

 このような俘虜を文明国の人間として、日本人と同じく、国のために戦った人であるとして待遇したのは坂東が著しいものでした。 最大の収容者がいたのは久留米で、所長の真崎甚三郎中佐(のちに皇道派陸軍大将)は些細なことで、俘虜を殴りつけた。 所長の方針で違いがありました。 

 戦前の軍隊の中でも、このノブレス・オブリージュでとりあげる旧軍の軍人たちは個人の責任と判断により、後世での大きな評価を受ける行動をしました。 軍隊ゆえに窮屈で絶対だと思いがちですが、軍隊ゆえに上官の命令は貫徹される側面があります。

 自衛隊のいじめが問題になりますが、それを問題にするのなら指揮官の責任をウヤムヤニしたのでは現代の世でも解決できません。直接の当事者の下士官を罰しても一時の解決にしかならないでしょう。


  1872 明治5  斗南(会津)藩士の嫡男として誕生
  1877 明治10 父・松江久平警部補心得にて西南戦争抜刀隊に入隊
  1889 明治22 陸軍幼年学校入学 16歳
  1892 明治25 陸軍士官学校入学
  1895 明治28 日清戦争で山東省に上陸
  1902 明治35 歩兵大尉
  1904 明治37 日露戦争で仁川作戦 兵站副官、韓国駐箚軍副官
  1907 明治40 歩兵少佐
  1914 大正3  第1次大戦、歩兵中佐 徳島俘虜収容所所長
  1917 大正6 坂東俘虜収容所長、歩兵大佐
  1919 大正8 ドイツ敗戦
  1920 大正9 収容終了
  1922 大正11 陸軍少将、予備役、若松市長
  1925 大正14 若松市長辞任


   2023年と2024年に坂東捕虜収容所を訪れることができました。 お遍路に訪れる西洋人は多い、一番の霊山寺近くにここがあるのですが、地元も政府も外国人に対してここの衆知が足りないようです、此処を訪れる人が少ない。 世界歴史に稀な誇れる場所であるのに残念です。



   アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子
   https://hayame.net/custom29.html#spb-bookmark-1172


     2015-12-1、 2024-9-11



posted by 速魚 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

高市早苗、   自民党総裁選挙   2021&2024



 今日2024年の自民党総裁選の候補者が告知されました。 推しの青山繫晴さんは15人しか推薦者が集まらずに断念しました。
  前回の青山さんは「反回想」の本にあるように、安倍さんに云われて自分の立候補を止めて高市さんの推薦者になっています。高市さん以外はろくなもんではないので、彼女に頑張っていただきたい。

 青山さんは消費税の減税の実現で、財務省と対峙すると明言されていたので、逆鱗に触れ財務省とその配下の大手マスコミにパージされ推薦者の引きはがしに会いこの結果となりました。 財務真理教「はげに怖ろしや」といったところです。 

 ここ30年の停滞を打破するテーマが最も大事な点であると、小生は思っていますが、はたしてその討論はあるのでしょうか? 高石さんにも減税やこの議論を述べていただきたいものです。

        2024-9-12




takaiti 05.jpg

 20歳で投票権を得てから、後期高齢者目前になるまで一度も自民党に投票したことはありません。 最近は、誰も支持できなくて白票を入れたこともあります。 小生は総裁選には投票できないけれど、是非とも入れたい人が現れた。 それが高石早苗氏である。 彼女へ投票できるなら、党友にさえなりたい位である。

 彼女の本を読む。 政策の具体的なことが書かれているので小生には分からないことが多い。 けれど、他の候補が抽象性的で具体性のない口当たりの良い言葉に比べれば、彼女が取り上げる対象やその具体性など、小生にはそれらをやってほしいものばかりである。 また。実際にやってきたこともこの本で述べている。

 最近の日本で最も喫緊の対策は何であろうか? これに答えて政策に挙げてくれる政党は無い。 それは夫婦の姓の問題、LGBTの問題、同性婚の問題、環境問題、原発問題では無い。 ワクチンで終息の問題が見えてきたコロナ問題でも、もはや無いでしょう。

 それは「チャイナリスク」である。 最近には、中国の不動産会社に取り付け騒ぎがおきている。すぐにも兆円を大きく超える債務で破綻しそうである。リーマンショックを数十倍にしたものが起きるのではと懸念されています。 それは経済的には大問題で被害の大きさも想定されますが、それよりも、もっと大きいことは台湾問題でしょう。 台湾で負けるようなら沖縄・九州と人命・国土の問題となります。このことを述べているのは高市さんのみ。 国防予算の増額、中距離ミサイルの配備を取り上げています。やっと大事な問題を取り上げてくれる政治家の出現です。


 テレビに向かってそうじゃないだろう、GDPの2%に防衛予算を上げろ、中距離ミサイルを持ち配備しろ、と画面にほざいていたのが、そのことを現実に述べてくれる人が現れました。NATOのような核を持てとまでは言ってはくれませんけれど。 中国に対して冒険をさせないための抑止力を持つのは、今最も必要とされているものと小生は考えています。

 先の米大統領選挙で見られたトランプに対する主要メデイアやSNSの偏向報道が、 アレっ! 日本でも同じではないかと思われることがある。 記者クラブでの候補者の会見をテレビでその後半部分を見ました。 河野・岸田さんばかりに回答を求めて、他の女性には発言を求めない、それが20分ほど続いたので、おかしいと見るに見かねてテレビを切ってしまった。 「高石外し」が始まっているのか? 支持率の発表も意図的な数字を出しているのではないか?と疑っています。 これからも十分にメデイアを監視していく必要がありそうです。


 小生は若いころに船乗りをしていて、イライラ戦争の時にペルシャ湾を航行しました。 その時には日本船が攻撃をされて死者が出ています。 乗船している船体に日の丸を描かされて、それが唯一の安全護符でした。日本国民の人命と財産を守るのは建前だけで、絵空事の時代であった。 最近は、アフガニスタンで1人しか帰国させられなかったけれど、3機の自衛隊輸送機が現地に向かったのとは大きな違いであった。今では当時の状況が起きたのなら自衛艦が船団を組んで商船を守ってくれることが期待できるのでしょうか。 高市さんならできそうな気がします。

 これからの進捗を大いに見ていこうと思う。


      2021-9-20





posted by 速魚 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月11日

忽那水軍史 「あしら」を海賊と呼ぶな!  忽那裕三

 


kutuna 10.jpg
    アルハオス出販



中島・忽那島に天候待ちでヨットを予定外に停泊させるまで、この地のことは何も知らなかった。 ここは忽那(くつな)海賊の本拠地であったのだ。 ニワカの知識で海賊城を訪れる。クル−ズを終えて時間ができたので家に帰ってから本書を購入した。

 瀬戸内の海賊といえば村上海賊や塩飽海賊のことは興味を持ち。ヨットでそこを訪ねている。

  

  この書によると、忽那諸島に謀反の濡れ衣を着せられ、都より逃れて来た一族がその島々を開発し、また、どのような経過をたどり伊予の本土を開発した一族であったかを解き明かしている。

 平安末期・偶然としか言いようが無い厚遇を得て、朝廷の高官より伊予の年貢米の海運を任され、その船舶を防備する水軍を組織する。そして、九州の長講堂領(上皇領)の年貢米の輸送も手掛け、一族は莫大の資を手にした。 積荷の40%位のお金を得たという。 その資をもって、南朝の旗印を掲げ南朝の水軍として瀬戸内海を制覇し、征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。 荒廃した南朝政府の所領(国衙領)を忽那一族は恩賞として受領。伊予の北吉田に忽那山城を構え、海運で得た多大な資本投じ、荒廃した伊予の各所(北吉田・別府・野間郡大西・風早郡北条・和気郡・久米郡高井・伊予郡松前鶴吉・同北河原・他)を開墾開発し、南北朝期より室町期の開発地は未だ忽那を名乗る集落として存在する。



kutuna 60.jpg
 忽那山城 周辺図 



  塩入荒野の開発・海浜の土木開発とは

 忽那一族は3万石を超える荒野を干拓し農耕地に開発した。その方法は3−4mに及ぶ瀬戸内の干満の差を利用して、遠浅海岸で堤防を築きその内水面の海水を潮差で排出して耕地を造成した。その技術と動員できる人を彼らは持っていた。

 瀬戸内の一水軍が、平安時代末期の朝廷貴族から、武士を中心とした鎌倉・南北朝・室町時代の、武家政権の中枢とも関わりを持ち続け、室町幕府の日明貿易にも関っている。著者は現地に足を運び神社・仏閣等に、五〜六百年前の残り少ない史料(木簡・位牌等)を見出し、伊予の中世史を新たな側面から論じている。

 忽那氏の勢力下にあった島々は「忽那七島」と称され、愛媛県に属する忽那島(中島)、睦月島、野忽那島、二神島、怒和島、津和地島に加えて、山口県岩国市に属する柱島を含める

kutuna map 10.jpg
  忽那七島



  忽那七島は中世の航路を支配する絶好の位置にある。

 

kutuna 88map.png
  中世・近世の航路図



   2024-9-11



posted by 速魚 at 10:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月10日

反回想  青山繫晴 、  報道の危機

 
     わたしの接したもうひとりの安倍総理

          

aoyama 05.jpg
      扶桑社刊

aoyama 10.jpg

 青山繫晴さんの「ないないずくし」のことをマスコミが無視して報じないので知らない皆様が多いことでしょう。

   そのゼロとは

 1.個人・団体献金 2.支援団体・後援会 3.派閥 4.地元・後援会長 5.私設秘書 6.パーテイ 

 まあ、今までの議員が持っているものすべてです。 彼は議員の存在すら無いものとされています。

 今回の自民党の総裁選挙では昨年11月10日から立候補を表明されている。先に立候補表明の記者会見を行ったがその日のNHKには相変わらず告知報道がされないままです。 推薦候補者の引きはがしがすさまじく告知日までに20人集まるか不明の状態である。

 消費税の減税や財政法の改正を表明されているので、財務省や既得権者より強力な妨害をされて、それらの議論が庶民に分からないような工作がされている。 日本の民主主義の危機的状況である。 ここに載せても何も影響がないけれど述べざる負えない。

  近著の「反回想」を読んだ。 総裁選があるので、3版にて、差しさわりのあるところを修正されたと云うことであった。入手したものは初版であったが、小生には何か問題がある箇所があるには思えない。

 「ぼくらの国会」などをよく見ているせいか、今回の内容で90%くらいは聞き覚えのあるものであった。 安倍さんの最初の辞任の理由が病気ではないことを読むまで知らなかった。

 旧・民主党の有力議員の事務所で実際に耳にしたことは、「安倍さんは2流大学出のアホな2世議員」の評であった。しかし、彼は速読の読書家で知的に欠けるとはとんでもない。 今回の総裁選ではそのような人がいないわけでは無い....   また、モリカケのカケは全くの冤罪であったことも知った。

 トランプが再選されるであろうから、彼に信頼されていた安倍さんが居ないのは、これからの日本にとって本当に大きな損失だろう。 望むことは出来ないけれど、今度の総裁に安倍さんに三選を願いたい位だ。 本当に暗殺が起こるということは我が国の歴史の恥ずべくものだと皆が共通の認識としたい。

 動画で前世の記憶を持つ子供の番組が結構好きで小生はよく見ることがある、暗殺された日に青山さんのところに安倍さんがお別れに来たことも最後に書かれている、本当のことだと思います。



 最後に今回の選挙で4000円の会費を納め自民党員になれば日本の総理選びの選挙に参加できる。しかし国籍のチェックが無いので、中国や外国による介入が充分に起こりえる、次回の選挙よりしっかり確認してほしい。


 
  総裁選出馬意向の青山繁晴氏が会見 消費減税を主張「財務省と対峙しても実現」

    https://www.youtube.com/watch?v=oOtH8ym_Xe0&t=9s

  青山繫晴  アフガンの悲劇なぜ 

   https://hayame.net/custom7.html#spb-bookmark-755

  青山繁晴議員に聞く! 自民党総裁選

 https://www.youtube.com/watch?v=g4OdfddeA3o



        2024-9-10

posted by 速魚 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月09日

日本とユダヤの古代史&世界史   著・田中英道、茂木誠

   

yudayya 10.jpg
     ワニブックス刊

 この本は邪馬台国の所在が阿波にあったという説を支持する小生がそれを補強するべく買い求めたものである。 

 田中英道は日ユ同祖論ではなく日ユ同化論を述べる、ユダヤの人々は国を持たなかったけれども、ひたすら宗教と伝統を守ってきた。それが日本では同化したというのは不思議なことです。そこらあたりの説明をもっと知りたいところではある。  日本は万年の縄文文化を持っており、そこへユダヤ人が渡来して、戦争をしなかった平和の縄文人が彼らを受け入れ彼らは日本に同化したものであると、小生は思っています。 

 下表にある第3波の徐福の跡を、鹿児島や三重県において小生は見かけている。 ここで波田須の道串木野祠をとりあげています。日本各地に徐福の跡があるようです。 応神天皇の時代には第4波の弓月国からら2万人のユダヤ系の人々の移民を受け入れる。(徐福は2千人です)  第5波の蘇我氏ですが、大化の改新・645年の時代になると蘇我氏は教科書にも登場してくるので知っている。ユダヤ人であったとは知りませんでした。 431年「エフェソス公会議」において景教・ネストリウス派は異端とされ東へ旅立ち日本にたどりつく。蘇我氏は「われよみがえり・我蘇」と呼んでいる。 これまでの自分が、ばらばらに学んでいた景教・蘇我氏が結びついてきました。



    ユダヤ人渡来の5つの波 、  本文より



第1波 紀元前13世紀 出エジプト記/縄文時代 日高見国・スサノオ
第2波 紀元前722年以降 アッシリア捕囚と失われた10支族 日本建国
第3波 紀元前2-3世紀 秦の始皇帝・徐福ら3千人 秦氏各地に渡来
第4波 3-4世紀 弓月国から秦氏2万人 応神天皇が受け入れ
第5波 431年以降 エフェソス公会議・ネストリウス派 蘇我氏


  あのピラミッドにも負けない巨大な古墳築造をを指導してきたのは秦氏・ユダヤの人々だという、仁徳天皇陵はユダヤのマナの壺の形にソックリな形状である。さもありなんと思われる。仏教が広まるとともに古墳は消えた事実も本書で知った。

 

yudaya 50.jpg
 マナの壺


yudaya 55.jpg
 仁徳天皇陵



 成田空港近くの柴山にはにわ博物館があるという、今度訪れたいと思っている。 そこに昔は「武将はにわ」と学んだつもりであったが、本書の指摘で明らかに「ユダヤ人埴輪」と考え直した。 ユダヤ人の「もみあげは」 聖徳太子もつけているし埴輪にも表現されている。



yudaya 10.jpg
 長いモミアゲ・ペイオト姿のユダヤ教徒


 

yudaya 20.jpg
 見ずら「美豆良・ペイオト」をつけるユダヤ人埴輪と聖徳太子


  友人が優秀な子供を持ちその子が医者になり、米国でユダヤ病院に勤務し、ユダヤ人と結婚している。 ユダヤ人に対して差別や偏見を持たない日本人でも、意識・教養の高い人には世界での差別の存在を認識・実感しているので、娘の亭主がユダヤ人かと指摘されると気色ばむことになるのでしょうか。 難しい問題である。デイ-プステ−トの世界支配の問題もあるしね。

 本書でも、樋口季一郎中将のユダヤ人の満州通過を即断し、戦前の東条首相ですら追認したことを述べています。

 「中国・朝鮮の文化圏としての日本史観は捨て、ユダヤ同化論を突き詰めて頂きたい、」

 「ユダヤ人たちが世界に対して何をやるべきかということは、平和の場所の伝統と文化に貢献することであろう」

 「日本という地で、ユダヤがいたということは、世界を考える上で重要な思考の礎になる」......... 田中英道氏による





天皇とユダヤの「3種の神器」に隠された驚愕の真実│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=FrShBtLDggk

秦氏のルーツはユダヤ?秦の始皇帝?ローマ帝国?|茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=jGaYbjeOK5U

聖徳太子に隠された謎に迫る│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=TKYpKFxLzek&t=10s



 世界第3次大戦前ともいわれる「新しき戦前」のこの時代、イスラエルがイランと戦火をまみえるようになれば、ロシア・中国・北朝鮮が漁夫の利とばかりにどう動くか分かりません。 日本とユダヤの平和的な関係が研究され明らかになっていくことを望むばかりである。



     阿波・邪馬台国と日神子・卑弥呼 邪馬台国は阿波にあったのか?    香川宣子さんによる



 未だ、自分自身にこなれた知といえないところは、バレてしまっていることでしょう。皆様の考えの一部になれれば良いです。



          2024-9-9


posted by 速魚 at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月05日

四国88ヶ所 ヨット巡礼  まとめ


 ohenro map 01.jpg

 ヨットで訪ねるお遍路を計画してみました。 下図のようなお遍路寄港図その1とその2へ寄港して、そこから公共交通やタクシ−にて徒歩でお遍路する。 70代後半の年令になっては平地ならともかく、山道を長い時間に登るのことは難しい。

 予想外にバス便がお遍路寺に整備されていない。 従いタクシーを使うことが多くなりました。 費用的には「歩き遍路の方」が、他の方法よりも宿泊費が多くなる分、費用が多くかかったことでしょう。次寺まで数日要するところもあるので大変ですが、日数増えるので宿代が多くなる。その手配も苦労すると聞きました。 ヨットは宿泊代がタダなのが取柄です。

 尊敬に値する「歩き遍路の人」は極めて少数で、自家用車で廻られる方が主流です。それでも行き会うことが難しい山路を走らなければならないので、老生のような運転下手には車も難しい。
 
 意外なのはバックパッカーのような大きなリュックを担いだ若い西洋人が多いことでした。 3割位の割合で西洋人がいるように思えた。信仰も違うのに「ヨウヤルワ」という感じです。

 タクシ−利用が多くなりました、スマホで「近くのタクシー」で検索して呼び寄せるのことになる、四国の大きな都市地域以外の処では1−2社位しかタクシ−会社が無く、そこには病院や買い物需要のご老人のお客さんが多いので、予約有で来てくれないこともある。できれば前日の予約されたら良いかもしれない。 費用を抑えるのには原付をフェリーに載せ徳島へ持ち込み、お遍路するのがオススメでしょう。 自転車はあの山路を登るのは老人には無理な気がします。
 
 ヨットの寄港地ですが、安心して置けるところに長く留まることになってしまい、初めてで情報の少ない港は避けてしまいました。 例えば観音寺、西条、松山空港、宇和島、宿毛、宇佐、橘湾、小松島などです。そこへ入港すれば小生とは違ったものになったであろう。

 信仰心の少ない小生ですが、これからのご利益ではなく、昨年のように巡航中に心筋梗塞での入院にもかかわらず、今年出かけることが出来たので、もろもろのお礼を兼ねてお遍路をして来ました。 ぶっちゃけ、本当はクルーズに目的をつけて楽しく廻っただけなのです。皆様のおかげで無事結願できました。ありがとうございました。


1.   ヨットで巡るお遍路
2.   お遍路 ヨット泊地
3.   札所詳細
4.   県別のお遍路   徳島県   高知県  愛媛県  香川県
5.   ヨットお遍路逆打ち


     2024-9-5

posted by 速魚 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月04日

草壁・小豆島  ヨット泊地




kusakabe map.jpg
  草壁と苗羽・  内海湾/小豆島

 坂手に停泊して草壁と苗羽の泊地を見に行って来た。 草壁は連絡船が廃止になりそれに使用していたポンツーンが係留できるようだ。 すぐ近くにリゾートホテル風の桟橋がある。人の気配がしなくて利用できるかどうかは不明でした。苗羽は係留できるようである。 

 坂手と違いここは燃料と食料の補給ができる。



kusakabe 10.jpg
  草壁 旧連絡船ポンツーン



kusakabe 30.jpg
  リゾートホテル風の3本の桟橋

 

  苗羽



kusakabe naeha 20.jpg
  苗羽の係留候補地

 近くに醤油の博物館がある。


        2024-9-5



posted by 速魚 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月03日

大鳴門橋 渦の道

       


  長崎から徳島ケンチョピアまでキャンピングカーで訪ねてきてくれたヨット仲間と一緒に、その車で鳴門の「渦の道」を観光した。

 

naruto uzu 10.jpg
  鳴門海峡と小鳴門


 

naruto uzu 30.jpg
  友人はこの車とヨットを所有している


  大鳴門橋には車道の下に新幹線用のスペースが設けられている。 余談だが、小生は四国への橋は未だにこの1本だけで良かったと思っている。後の2本の橋の予算があれば新幹線を通して徳島−高松―松山と高知へと続がっていたと思う。現在は予想外に高速道路は四国各地に敷設されて充実しているようである。

 このスペースを利用して遊歩道があり「渦の道」と称している。 最近のニュ−スでサイクリング道をここを利用して淡路島へと結ぶ計画があるようだ。歩道橋として淡路島へと追加工事をあいていただければ横断徒歩するのも楽しいものである。 歩いて渡れるものと思っていたが現況ではダメでした。

 

naruto uzu 20.jpg
  鳴門海峡


 ヨットで何度か通峡している。 その際には上の写真のように帆船観光船がいる四国側部分を航行する。


 

naruto uzu 40.jpg
 最近は5000トンクラスのコンテナ船でも通るようです。

 

naruto uzu 50.jpg
 前夜の午餐、 他のことでも大変お世話になっているUさんとFさん


 1番の霊山寺坂東捕虜収容所も訪れた。



  アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子

  http://gby.sblo.jp/article/190594734.html



     2024-9-3



posted by 速魚 at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年09月02日

由岐  ヨット泊地

  


yuki map 10.jpg
  日和佐から由岐へ




yuki 20.jpg
  由岐港



yuki 30.jpg
  由岐漁港


 

yuki 40.jpg
 松本竹蔵翁 顕彰碑



 「九州・五島行き」という出漁形態があるという。徳島のここ近辺の漁民移動の形態です。上の写真はその先駆者の碑である。 ヨットで九州をクルーズしていると、捕鯨で徳島から迎えたとか、徳島発の漁法のやり方を耳にする。 昨年に五島の奈良尾で以西底引き網の基地であることを目にした。 それは由岐の漁民がもたらしたことを知ることになった。  阿波の漁師は先駆的で賢いのだ。

 

yuki 55.jpg
  現地 案内板


 翔鳳丸は薩摩藩の武装汽船で1868年の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。鳥羽・伏見の戦いが起こると兵庫港封鎖部隊が移動し、その隙に同地の薩摩艦「春日丸」、「翔凰丸」、「平運丸」は脱出を図った。「翔凰丸」は「春日丸」に曳航されたが、「春日丸」は「平運丸」と衝突し舵輪を損傷した。「春日丸」と「翔凰丸」は「開陽」に捕捉され、「春日丸」は「翔凰丸」を分離して「開陽」と交戦。一方、「翔凰丸」は阿波由岐浦で座礁し、焼かれた。この海戦は阿波沖海戦という。


yuki 50.jpg
 翔鳳丸・461トン、 16センチカノン艦砲



   2024-9-1



posted by 速魚 at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月29日

湯谷神社、  若杉山鉱山遺跡





  21番太龍寺を参詣した時にロープウエイ乗場へタクシーを呼び寄せ、若杉山鉱山遺跡と湯谷神社へ行って来た。 地元のドライバーでもこれらへは行ったことが無く、スマホを見ながら、こちらがそこへ指示した。

 

wakasugi map 10.jpg
 那賀町 周辺図





    湯谷神社

 古事記にあるイザナミが黄泉の国から逃げる道を黄泉比良坂(よもつひらさか)と言いますが隠岐出雲の国にあるのではなく「ユヤの坂」のことである。美馬市穴吹町から山越えして阿南市まで続がっている。下図にそれに関連した地名を記した。 


izanagi map.jpg
  イザナギ逃亡地図  高越山から橘湾まで

 

 湯谷神社は道路わきにあり、見逃しやすい場所である。




yuyazinzya 20.jpg
  鳥居



yuyazinzya 30.jpg
  大きなものではない本殿



神武天皇とイザナギ・イザナミにゆかりの阿波にある神社

 葦稲葉神社、 事代主神社、樫原神社、建夫津神社、熊野神社、鴨神社、伊邪那美神社、倭大國魂神社   

「いずも」の神社を訪ねる
    大御和神社 豊国神社 八鉾神社、賀志波比売神社、生夷神社 津ヶ峰神社







    若杉山辰砂採掘鉱山遺跡

 

 ロープウエイ乗場から那賀川沿いの林道みたいな県道283号を走る。グ−グルマップではここを指示できない。 川沿いの道と遺跡と直角に・最短距離の近接地点で車を止めて、鉱山跡に行く登り口を探すが見当たらなかった。 もう少し北上して水井橋近くの地元の方に尋ねて、20番鶴林寺からの21番太龍寺へのお遍路道の案内看板を教えて頂いた。若杉山鉱山跡の案内も併せてあったが、その道は歩き遍路道で車が走れる道では無かった。後日へと断念して引き返した。

 行けていないのであるが、ここでは、石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。 出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられるという。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。 魏志倭人伝に卑弥呼の国には辰砂の鉱山がありと書かれている。 他の有力な邪馬台国の地には、この種の鉱山が無い。 ここ阿波の国こそ、この鉱山により邪馬台国の地である重要な証拠になる。



wakasugi map 20.jpg
  鶴林寺から大龍寺へ



 

wakasugi 40.jpg
  近接地点でタクシーを止める





wakasugi 30.jpg
 若杉山辰砂採掘遺跡 案内板



      2024-8-29



posted by 速魚 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月27日

お遍路27  12番 焼山寺

  

 いよいよ結願です。  昨秋の徳島では1番から20番札所まで参詣した。  11番藤井寺より12番焼山寺は山奥ゆえに残したままであった。近春から逆打ちにして、ヨットで反時計回りで四国を巡航したのでここが最後になった。


kamiyamatyo map.jpg
 神山町 周辺図


 JR徳島駅前のバス乗場から神山高校前行きに乗車。 神山町役場前で下車してタクシーを呼ぶ。 タクシーは2社ほどしかなく、午前中は医者や買い物のご老人の利用が多く、前日の予約が良いのかと思われた。 卑弥呼の在た地の悲願寺に行く予定をしていたがタクシーが捕まらず行くことが出来なかった。

 順番に訪問するのにこだわらなければ11番の藤井寺でいったん止め、翌日に17番井戸寺より13番大日寺まで歩き遍路で行けるので大日寺よりバスで神山町役場へ、逆に順序にこだわるならバスで役場前までいき焼山寺を終えて再びバス便大日寺下車の方法もある。 11番藤井寺より歩き遍路で12番焼山寺は厳しいものになると思われる。修行だと思われるている方には余計なアドヴァイスであろう。

 ちなみに、はるばる海から渡って阿波の海岸にたどり着いたユダヤの人々は神の山のここらあたりにたどり着いたと云う。卑弥呼は悲願寺を拠点とした。



     12番 焼山寺

 大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者)が開山し、庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、蛇は山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願すると大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。

  

12 shouzanzi 15.jpg
  階段と山門





12 shousanzi 20.jpg
  本堂   本尊は、虚空蔵菩薩  秘仏




 藤井寺から焼山寺の間はお遍路ころがしと言われ 「一に焼山寺、二に鶴林寺、三に太龍寺」 と焼山ではかなりの難所になっています。



12 shouzanzi 50.jpg
 11番藤井寺方面を望む



        2024-8-27



posted by 速魚 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月25日

祖谷(いや)渓谷観光バスツアー

   

  超フリータイムトラベルすなわちヨットクルージングをしている小生にとって定期観光バスに乗ることは人生で数回のことである。 カミさんが徳島で合流して祖谷に行きたいとの希望で定期(土日)観光バスに乗りました。徳島駅より徳島線で池田まで行く、そこが出発です。 帰りは時刻表が合わず2時間ほど乗車を待ち暗くなって徳島へ帰った。



  コースは下記

 JR阿波池田駅(乗車)〜阿波池田BT(乗車)〜平家屋敷〜郷土料理の昼食〜かずら橋〜小便小僧〜道の駅大歩危〜大歩峡船下り(降車)〜西宇(降車)〜JR阿波池田駅(降車)〜JR徳島線で徳島駅へ

 

iya 10 map.jpg
 祖谷観光 マップ


 

iya 20.jpg
 平家屋敷、  平家の御典医がここまで落ちのびて来た



iya 25.jpg
  かずら橋、  高いところで足がすくむ小生には  とても恐かった




iya 30.jpg
  小便小僧、  どうしてここにこの像が?



iya 35.jpg
  祖谷渓谷、  写真のウデがイマイチ  実物を見てください、



iya 40.jpg
  大歩危峡船下り、 急流下りでは無かった、渓谷をみる

 

iya  45.jpg
  地学的な説明があった、 思い出せない。 

 ブラタモリの番組のせいか、最近の観光地で地学的な説明が多くなったような気がする。

 

    大歩危・祖谷秘境の旅

   https://yonkoh.co.jp/teikan


    2024-8-25



posted by 速魚 at 13:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月24日

お遍路26  21番太龍寺




  日和佐よりJR阿南駅についた。 バスの停留所が見つからなかった。 しかたなく、ロープウエイの乗場までタクシーを利用した。5000円ほどの出費は痛い。


21 tairyuzi mapし.jpg
  阿南 周辺図



    21番 太龍寺


 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。


 

21 tairyuzi 15.jpg
  ロープウエイ

 ロープウエイのガイドさんが弘法大使さんが修業した山中(舎心獄)を教えてもらい写真を撮ったが、明確に映っていなかった。


 

21 tairyuzi 20.jpg
  本殿  本尊は、虚空蔵菩薩   秘仏




 
21 tairyuzi 30.jpg
  大師堂


    2024-8-24


posted by 速魚 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月22日

甲浦散歩・かんのうら、 DMVバス



 室戸岬バス営業所よりジオパーク経由で高知の東部海岸を走る甲浦行のバス便がある。 それに乗り終点の甲浦まで行って来た。今は運行していない,旧フェリー乗り場がある。 

 東洋町海の駅から阿波海南文化村行の珍しいデユアル・モード・ビークルバスに乗った。 甲浦で高知県と徳島県に別れる。


kannoura map.jpg
  甲浦周辺地図



   甲浦漁港



 カツオ釣りの少し大きめの漁船が出入りする。乗組員はインドネシア人であろうか、東南アジア系の若者が町で見かけた。

 ヨットの係留にはふさわしいところが見つからなかった。強いて言えば旧フェリー埠頭がどうであろうか?

 

kannoura 05.jpg
  甲浦港図


 江藤新平が佐賀の乱で負けて東京に向かう途中にここで上陸して捕縛されたという。 佐賀に送られ処刑された。



kannoura 10.jpg
  漁港地区 港内





    海の駅東洋町

 ここは徳島からのバスの終点で、23番薬王寺から24番最御崎寺へ向かうお遍路さんが、室戸行のバスに乗り換えるようすが見られた。 売店ではサシミが安くて大きい。買って帰りヨットで食した。



kannourasanpo 18.jpg
  海の駅東洋町



kannourasanpo 20.jpg
   白浜海岸

 夏のナギの時には湾の中央でポンとアンカーを打ってリゾート気分を味わいたいと思う。 シャワー施設が充実している。




   デユアル・モード・ビークル  DMVバス

 珍しい道路と線路を走行するバスに乗ってみた。 普段使いの雰囲気は感じられずに観光用でしょうか。 通勤に利用している人はいるのでしょうか。

 東洋町海の駅で乗車して道路を走り、甲浦駅でチェンジして線路に上がる。阿波海南駅で再びチェンジして道路を走行して阿波海南文化村で下車した。帰りは逆で海の駅で降りた。


 

kannourasanpo30.jpg
  デユアル・モード・ビークル



 

kannourasanpo 32.jpg
  線路走行中



       阿波海南文化村



 DMVの始発駅である。博物館があり刀剣の展示があった。 知らなかったが、このあたりは刀剣造りの産地であったという。

 
kkannourasanpo 40.jpg



 食事するお店がなかったようで。手持ちのおにぎりを食した。


 

kannourasanpo 42.jpg
  展示品




   和奈佐意富曽神社・わなさおうそじんじゃ

 スマホのグーグルマップのお気に入りにこの神社があり。近くの文化村に行ったのでタクシーを呼びここを訪ねた。 地元のドライバーも知らなかった。 マップを便りに着いてみると確かに町内にある規模の神社であった。 それでも格式のある式内社であるという。 家に帰って調べてみても、マークした当人も忘れているし、調べても不明である。 判明次第アップいたします。

 何の所縁であろうか?  スイマセン。

 

kannourasanpo 50.jpg
  鳥居

  祭神に関して諸説あり、「大日本史」には大麻比古神、「特選神名牒」では大麻神と記載されている。(ウイキより)


 

kannourasanpo 55.jpg
  本殿

  これにて甲浦散歩を終える。DMVに再び乗り海の駅東洋町からバスで室戸まで帰った。



    2024-8-21


posted by 速魚 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月21日

日和佐城

   

 大昔の20代の時に日和佐に来たことがある。当時は日程を消化することに一杯でこの城に行くことはなかった。 ヨットで海から入港する時にお城を見ながら入るのは気分が良いものだ。 九州の平戸城、四国の川之江城なんかは良い例です。

 10年ぶり位で日和佐に入港し、お城にタクシーで向かった。 運転手はもうお城はやっていないと行くのをオススメしない口ぶりであった。 まあ、いいからと行って見た。 閉館中とかで中へはいることはできなかった。 歴史を踏まえて再現された天守ではない。また、耐震に問題在りということで閉館中(敷地内立入禁止)だそうですが、改築するなら研究してオリジナルに近いものになるといいです。 平戸のように櫓や塀も造るともっと良い。


 元亀・天正(1500年代の初め頃)、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部侵入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたと伝える。日和佐肥前守が造った城は、天正十三(1585)年蜂須賀家政が、阿波に入国した際に廃城になったといわれているため、当時の城の形態に関しては、全くわかっていませんが、城の構えは、山城であったと考えられるとか。




hiwasazyo 20.jpg
 日和佐城 


    日和佐 ヨット泊地



      2024-8-20


posted by 速魚 at 03:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月20日

日和佐   ヨット泊地



 




hiwasa map 10.jpg
   室戸・日和佐  周辺図








hiwasa 30.jpg
  赤丸は係留地  位置AからBヘシフトした



 最初は防波堤を過ぎてすぐの位置Aに2日ほど係留した。荒天が予想されたので、巡視船の後ろの位置Bへシフトした。ここはウネリも入らず良い位置であった。 1隻くらいのスペースしかないので写真のように横抱きになる場合もあり。






hiwasa B.jpg
 係留地B





   >日和佐城



     2024-8-20





posted by 速魚 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月19日

お遍路25 23番 薬王寺、 22番 平等寺



 逆打ちでこの日和佐まで来ると残りは4つになった。 しかし、歩くことを避けていた小生でも左足の甲に痛みがでてきた。 なぜか札所は山の中に多い。 坂道や階段を登ることが多いゆえであろう。

 日和佐と由岐の診療所でそこを診察してもらった。 レントゲン技師が不在で撮影できずに痛み止め薬と湿布をもらう。 地方で都会を離れると、病院に行っても、今日は外科医やレントゲン技師がいなくて診療できないなんてこともある。 良いことばかりではないようだ。

 由岐の病院からタクシーで平等寺に向かった。帰りはJR新野駅から日和佐駅までJRを使った。

 

hiwasa map.jpg
  日和佐 周辺図



  23番 薬王寺  


 、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建と伝わる[1]。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が厄除けのため薬師如来像を刻み、伽藍を建立。


 

23 yakuouzi 15.jpg
  瑜祇塔

 日和佐に入港する時にはこの塔は顕著なよい目標になる。


 

23 yakuozi 20.jpg
  本堂    本尊は、厄徐薬師如来  秘仏



 

23 yakuouzi 30.jpg
 大師堂





    22番 平等寺


 空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置した。


 

22 byoudouzi 20.jpg
 本堂   本尊は、薬師如来

 

22 byoudouzi 30.jpg
 大師堂



         2024-8-19


posted by 速魚 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月18日

室戸岬港、津呂港、 及び 室津港   ヨット泊地

   

  室戸岬港、  ヨット泊地



  安芸を出港して室津か室戸岬か迷ったけれども、室戸岬港に入港した。 室津港は漁船が多く係留余地が少なく室戸岬が正解であった。 買い物などは室津が便利である。そのために、バスでコインランドリーやスーパーに行くことになった。

 

akimuroto map.jpg
  高知・安芸・室戸岬  周辺図


 

murotomisaki 10.jpg
  赤丸は停泊地、 位置AからBへシフトした

  Aの位置に係留したけれど、工事船がここへ停泊するとの張り紙がビットに貼り付けられていたのでBの位置にヨットをシフトした。 出港するまで5泊したけれど、それが来航する気配はなかった。 前の位置の方が停泊中のウネリを避けやすく動揺が少ないようだ。


murotomisaki 20.jpg
 

 



    室戸岬・津呂港



  津呂港は室津港と同じく、土佐藩執政野中兼山により、整備された掘り込み港です。工事に当たり、港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。
土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な位置付けにここはありました。



murotomisaki 50.jpg
 津呂港,    中央の空きビルはかっての遠洋漁業の司令塔だったという

 

    2024-8-18






   室津  ヨット泊地



murotu 10.jpg
  青丸は候補地、   広いようで適当な係留地は見つからない

 25番津照寺は岸壁からすぐ近くにある。



    2024-8-18


posted by 速魚 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月17日

中岡慎太郎記念館と生家

  


 室戸岬港からバスに乗り奈半利へ着く。 そこから北川村のコミュニテイバスにて記念館に行って来た。 本数が少ないので時刻表には注意が必要である。

nakaokasin 10.jpg
  中岡慎太郎、 北川村周辺図

 中岡慎太郎は龍馬と一緒に暗殺されたけれども、多くを知っているわけではない。

 まとめると、大庄屋の長男として生まれたので帯刀はゆるされたであろうが、農民で郷士でさえないと思う。 土佐勤皇党に入り、それが弾圧されると脱藩し長州へ亡命する。そこに都落ちしていた七卿の衛士となる。禁門の変で負傷する。 下関戦争で攘夷を捨て開国論へ転じる。竜馬と共に薩長同盟を締結させた。竜馬とともに脱藩を許される。板垣退助や谷干城とともに薩土倒幕挙兵の密約を結ぶ。大政奉還の建白を推進していく薩土盟約の仲介する。陸援隊を組織す。薩土盟約解消。大政奉還成立。竜馬と暗殺される。享年30。



nakaokasin 20.jpg
  記念館



 
nakaokasin 30.jpg
  記念館前に立つ像





nakasimasin 35.jpg
  松林寺

 生家近くの松林寺で学ぶ、また山越えし苦労して麓の塾へ通ったと云う。



nakaokasin 40.jpg
  奈半利川の山間の誕生地





    中岡慎太郎の生家



 天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。

 記念館の近くに少し下ったところにある。



nakaokasin 50.jpg
 生家

 大庄屋といえども見てみると豪壮な家ではない。 山間の農家であったので貧しかったのであろう。



nakaokasin 55.jpg
  内部



          2024-8-17


posted by 速魚 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月16日

高知 吉良川の街並み




  室戸岬港からのお遍路寺26番、25番、24番と一緒に吉良川の街並み保存地区へ行ってきました。

 西海岸の奈半利から室戸岬、東海岸の室戸岬から甲浦は鉄道の路線がないのでバス便になる。

 

kirakawa map.jpg
  吉良川から室戸岬


 重要伝統的建造物保存地区になっている。 備長炭で財を成して明治から大正にかけてこのような建造物が建てられたという。


kirakawa 15.jpg
   案内板




kirakawa 30.jpg
  街並み1



 

kirakawa 38.jpg
  台風から守るための「いしくろ」の塀



 

kirakawa 35.jpg
  多雨の地ゆえに土佐漆喰壁を守る水切り瓦(小屋根)が幾重にも設置されている



 

kirakawa40.jpg
 ここも水切り瓦が見られる



     2024-8-15


posted by 速魚 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月15日

お遍路24 26番金剛頂寺、25番津照寺、24番最御崎寺



 

murotomisaki map.jpg
  室戸岬  周辺図



   26番 金剛頂寺



 大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。



 

26 konngoutyouzi 20.jpg
 本堂、  本尊は、薬師如来



 

26 kongoutyouzi 30.jpg
  大師堂


 

26 kongoutyouzi 40.jpg
  「一粒万倍の釜」

 弘法大師が、三合三勺(495 g)のお米を入れて炊いたところ、万倍にも増え、飢えた人々を救ったという。



   25番 津照寺


  室津の港からすぐのところにある。


 大同2年(807年)に空海がこの地を巡錫した際、山の形が宝珠に似ておりこの地が霊地であると感得し、宝珠に合わせ、一刀三礼して延命地蔵菩薩を刻み堂宇を建立し開創したという。

 

25 sinshouzi 15.jpg
 鐘楼門   竜宮城みたいである


 

25 sinshouzi 20.jpg
 本堂   本尊は、楫取延命地蔵菩薩。 秘仏



 

25 sinshouzi 30.jpg
 大師堂





  24番 最御崎寺・ほつみさきじ

 空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。


 

24 hotumisakizi 15.jpg
  仁王門




 

24 hotuminami 40.jpg
 鐘石   叩くと極楽へ届く

 





 

24 hotumisaki 20.jpg
  本堂、  本尊は、虚空蔵菩薩です。 秘仏



 

24 hotumisaki 40.jpg
  多宝塔



      2024-8-15



posted by 速魚 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月14日

龍馬姉夫婦のお墓



 27番神峯寺へ参詣を終えた帰りに安田のまちへ行くことになった。 ここは勘違いで、後に行くことになる吉良川の歴史的町並みの事だと思っていた。 安田のまちなみ交流館を訪れたけれど近くの街並みは古いものが残っていなかった。 近くに龍馬の姉の千鶴の嫁いだ高松順蔵とのお墓があったので行くことにした。

 

27 ryomaane haka.jpg
  安田 周辺図



 高松順蔵は1807(文化4)年に郷士の長男として生まれた。 8歳で郷士職を継ぎ、江戸で学問を学び、剣術を極めます。
また書や篆刻を学び、和歌をたしなむ文化人でした。
 坂本龍馬の長姉・千鶴の夫で、若き日の龍馬の思想形成に大きな影響を与えました。 私塾には中岡慎太郎、石田英吉らがいました。 

 

sakamotonao.jpg
 坂本直 1842−1898

 順蔵の長男の高松直は土佐勤皇党に属し、龍馬の紹介で勝海舟の海軍操練所に学び、龍馬と同じように脱藩し海援隊に入った。明治4年に龍馬の家督を相続して坂本直となる。晩年はキリスト教徒として弟の直寛(なおひろ)に厄介になる。

  

ryoma ane 10.jpg
 こじんまりした夫婦の墓




       2024-8-14

posted by 速魚 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月13日

土佐・安芸   ヨット泊地

   



 高知を出て奈半利に行く予定であったが、機関が途中で冷却水異常の警報が鳴り、エンジンを止めて予備の2馬力船外機と帆走にて安芸へ行くことになる。



akimuroto map.jpg
高知・安芸・室戸  周辺図


 

aki 10.jpg
  赤丸は停泊地 、 赤星印は錨泊地


  港内に入り赤星印の位置で錨泊して冷却水ポンプを分解して、インペラーを交換した。

 

aki 20.jpg
   赤矢印の岸壁に係留した。


 最寄りの駅は球場前駅である。 買い物は安芸駅まで行かないと充分ではない。



     2024-8-13


posted by 速魚 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

お遍路23 27番神峰寺・こうのみねじ

 安芸から「くろしお鉄道」に乗り唐浜駅で下車、そこからタクシーにて神峯寺を参詣した。 「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所としここへは麓からの急峻な遍路道を登るしか行きつけなかったが、住職らの努力により車で行けるように整備された。



aki map.jpg
  安芸 周辺図


27番 神峰寺



 神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。


 

27 kounominezi 20.jpg
  本堂     本尊は、十一面観世音菩薩

 

27 kounominezi 30.jpg
  大師堂



   2024-8-13


posted by 速魚 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月11日

高知湾でインペラ破損


  

inpera 10.jpg
   高知湾での冷却水異常地点



 昨春と秋に2回とも冷却水のトラブルに巻き込まれている。春にホンダワラの巻き込みがあるので充分な注意をして航行してきた。

今年は幸いにも、潜ってそれを取り除いたのは愛南の1回だけで少量であった。 

 高知ヨットクラブを出て香南の沖にさしかかると冷却水の警報が鳴った。機関を止めて、ホンダの2馬力をセットしてあるので10分ほどでエンジンがかかった。 購入して6年余り初めて予備機関として使用した。スロットルを強くして途中で燃料切れになるのを恐れてジブと一緒に2ノット位で走る。 奈半利へが今日の予定であったが、土佐安芸へ入港予定を変更した。  



aki 10.jpg
  赤星印で錨泊して修理


 機帆走で入港して錨泊。 冷却ポンプを取り外して、キングストンへのパイプをくわえて強く吹いてみる。 ゴボゴボと小さい音がするようなので吸水口のツマリではないようだ。 ヤンマー2GMは冷却水ポンプを機関から取り外さないとインペラーの確認ができない。 分解するとインペラの羽根のひとつが折れていた。 インペラを交換してポンプを取り付けた。 これで室戸岬港と日和佐港までは航行できた。 どっこい、日和佐港から徳島ケンチョピアに向かう際に岸壁を離れる前にエンジンの白煙がスゴイ。出港を中止して点検すると、冷却水ポンプを駆動するファンベルトが外れていた。 安芸での修理がまずくてポンプの取り付けボルトの締め付けが緩かったのであろう、固く締めて出港することが出来た。 まだまだ、排煙が多い?ように思う気になります。



    2024-8-11


posted by 速魚 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月09日

高知歴史散歩、 龍馬生家


 
 はりやま橋のバス停で下車、レンタサイクルを借りるべく近くを探したが、JR高知駅に行くことになる。スマホ使用のものは見つかったが、老人には使いこなせずに断念したので。 下図のように歴史的なところを自転車で徘徊した。 

 

kotisanpo all map.jpg
  高知歴史散歩 地図



 

kotisanpo 10.jpg
  はりまや橋

 日本三大がっかり地点であるというが、高校の修学旅行ですでに見ていたので驚くことはなかった。

 

    龍馬の生家

 坂本龍馬の家は郷士であったのでお城から遠いところにあるのかと思いきや意外と近くであった。 お城の南側の電車筋にある。 現在は病院が建っていた。


kotisanpo 20 ryoma.jpg
  龍馬の生家   現在は上町病院



kotisanpo kondo.jpg
  近藤長次郎邸跡碑  近所で遊び友達だったことが分かる

 長崎でお墓を訪ねたが長次郎の邸跡に行く。 龍馬の家の近くであったが道路わきにあり見つけられずに近くで尋ねた。



kotisanpo bukeyasiki.jpg
  大川筋 武家屋敷資料館

  土佐藩の武士,旧手嶋家の住宅で当時の武家の建築様式を残している城下では唯一の建造物です。 武家屋敷がもっと残っていそうですが、下屋敷位しか武家屋敷風の建物がないようです。

 

kotisanpo simoyasiki.jpg
  旧山内家下屋敷長屋展示館

 

kotisanpo simoyasiki2.jpg
  展示館内にあった夕顔丸の模型




kotisanpo taketi.jpg
  武智瑞山殉節の地

 この付近に、武士の牢屋である揚屋(あがりや)があった。武市瑞山が当時切腹したこの付近になる。



kotisanpo nonaka.jpg
 野中兼山邸跡、 ほとんど城中というような追手門前にある

  野中兼山は、土佐藩の2代藩主と3代藩主に仕えた家老。新田開発や土木事業で功績がある一方、領民に対して過酷な賦役を行い、晩年に失脚している。 



kotisanpo itagaki2.jpg
  板垣退助誕生地

  板垣は中岡慎太郎と共に西郷らに会って、武力討伐の薩土密約を結び、戊辰の役では土佐藩の立役者となった。 



kotisanpo goto.jpg
 後藤象二郎生誕地

 日本キリスト教団土佐教会、聖泉幼稚園の門前に後藤象二郎先生誕生之地の碑がある。坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになった。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功した。


 

kotisanpo hukuoka.jpg
 福岡孝弟先生誕生地碑

  藩主の側役となり公武合体運動に尽力した。また坂本龍馬の海援隊などと提携し、藩営商社開成館を通じて殖産興業策を推進した。明治維新後には越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。


 

kotisanpo ueki.jpg
植木枝盛生誕地

 自由民権運動に加わった理論的指導者の植木枝盛の生誕地に建つ碑。枝盛が構想した「東洋大日本国国憲按」は、最も民主的、急進的な内容であった。「自由は土佐の山間より出づ」は枝盛の残した言葉として有



 

kotisanpo yosidatoyo.jpg
  吉田東洋受難の碑

 吉田東洋は、文化13年(1816)生まれ、長宗我部の名将吉田正重より出ているといわれる。学才に優れ、郡奉行・船奉行を経て十五代藩主山内容堂に抜擢され、参政の職についた。長浜に鶴田塾(小林塾)を開いて、後藤象二郎・板垣退助・岩崎弥太郎・福岡孝弟らを教えた。文久2年(1862)4月、外出先から帰宅する途中で土佐勤王党の党員の手にかかり、暗殺された。



  

kotisanpo rutisha.jpg
 立志社

  立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買い取って本拠地とした。 高知に戻った板垣は、板垣より先に帰郷して失業士族の生活救済、その子弟の教育機関としての学校の設立準備を進めていた片岡健吉・林有造らと協議し、同年に愛国公党によって建白された民撰議院の開設を期待する政治思想を折り込んだ結社として発足することとなった。


  長州の萩と比べて、高知は石碑が残るばかりで面白味が欠ける印象を持った。 萩の前原一誠宅などは現在も建物があり、表札があり縁者が住まれているようで見学は出来ないけれど納得感があった。



       2024-8-9


posted by 速魚 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月07日

高知城



  山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入った。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。

  想像していたよりもこじんまりした印象を受けた。外様ゆえに遠慮したのかもしれない。 天守と言い本丸御殿っと言い現存しているので一度は見ておくお城と云えよう。


kotizyo 10.jpg
   高知城図



kotizyo 20.jpg
  追手門




kotizyo 30.jpg
  詰門


 
kotizyo 60.jpg
  雨の多いところゆえに石垣を守るための雨樋




kotizyo 35.jpg
   天守、   4重6階、 重文

  享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に復元されたもの。




kotizyo 38.jpg
  天守から本丸を覗く



 

kotizyo 40.jpg
  懐徳館・本丸御殿   書院の間



 

kotizyo 48.jpg
  黒鉄門





kotizyo 50.jpg
   搦手門



     2024-8-7

posted by 速魚 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月06日

お遍路22 28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺、31番竹林寺、32番禅師峰寺、

   

koti east map.jpg
   高知市東 マップ

  土佐久礼より浦戸湾にある高知ヨットクラブのゲストバースを使わせてもらう。 そこを拠点にして31番、30番、29番、28番、32番と順にお遍路をした。


  31番 竹林寺

  牧野植物園の隣に竹林寺はある。

 神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 – 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。




31 tikurinnzi 15.jpg
  五重塔


 

31 tikurinzi 30.jpg
  本堂   本尊は、文殊菩薩




   28番 大日寺

 土佐くろしお鉄道「のいち」駅より2kmであるが、御免駅にてタッチの差で乗り遅れた。次発まで2時間余あるのでタクシーを呼ぶ。

 天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。



 

28 dainitizi 15.jpg
 山門


 

28 dainitizi 20.jpg
  本堂  本尊は、大日如来  秘仏


 



  29番 国分寺



 御免駅よりタクシーで往復しました。

 国分寺は、奈良時代に聖武天皇が国分寺の建立の勅願により創建されたお寺です。有名な土佐日記の著者紀貫之が国司として4年間滞在した場所としても知られるお寺です。


29 kokubunzi 15.jpg
   仁王門




 

29 kokubunzi 20.jpg
  本堂    本尊は、千手観世音菩薩   秘仏



  

29 kokubunnzi 30.jpg
  大師堂


 

29 kokubunzi 50.jpg
  大師堂の横には、禁酒の効果があるとされる酒断地蔵尊

 ビール好きさんにお札をお土産に買いました。



    30番 善楽寺


 牧野植物園前でタクシーに来てもらいここへ行く。帰りは読み方がわからない薊野(あぞうの)駅より御免駅までJRで行く。土佐の地名は馴染みのないものが多いです。ちなみに隣駅の土佐一宮駅は(とさいっくえき)と呼ぶのだそうです。

 大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。


 

30 zenrakuzi 20.jpg
  本堂  本尊は、阿弥陀如来です   秘仏




   32番 禅師峰寺・ぜんじぶじ

  聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、山の姿が補陀落山の八葉の蓮台に似ていることから八葉山、求聞持法を修したことから求聞持院禅師峰寺と寺名を定めたという。

 土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。


 

32zenzibuzi 10.jpg
 十一面観世音菩薩像



 

32zrnzibuzi 20.jpg
  本堂 本尊は、十一面観世音菩薩  絶対秘仏



 

32 zenbuzi 30.jpg
  大師堂



 

32 zenbuzibu 10.jpg
 境内から眺める高知湾



           2024-8-6


posted by 速魚 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記