2024年08月04日

高知ヨットクラブ  ヨット泊地

 

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  高知ヨットクラブ  周辺図



 土佐久礼から高知ヨットクラブのゲストバースにてお世話になることになった。 その途中で36番青龍寺に行くべき近くの竜崎の船溜まりに係留するつもりであった。 前日にそこの水深が浅いことに気が付いて取りやめてクラブに直行した。



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  赤丸は係留地

 ゲストバースにつけるまで、担当の方からヨットに携帯の電話をもらい、安全のための適宜指示をいただいた。 また、翌日はクラブの会長さんから、荒天で増し舫いのアドヴァイスをもらうことができた。 他にも何から何まで大変お世話になりありがとうございました。


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  横抱きして係留



    2024-8-4


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2024年08月02日

お遍路21  36番清龍寺、35番清瀧寺、34番種間寺、33番雪蹊寺、

  

  ヨットで久礼に停泊しました。翌朝から動き、土佐久礼駅より特急で伊野駅まで行き、そこからタクシーにて35番、36番、34番、33番札所を廻ってきました。最後は桂浜で下車して龍馬像と龍馬記念館を見る。 大昔の高校の修学旅行で桂浜には来たが、もう覚えはありません。路線バスにて高知駅へ行き、JRで久礼に帰る。

 36番青龍寺には近くの船溜まりにヨットを着けて訪れる予定でしたが、タクシーのドライバーが間違えてそこへ連れて行ってくれました。港を実際に陸から確認すると、水深が浅くヨットを着けられそうもありませんでした。 座礁を免れたということでしょう。 35番と36番は同名の「せいりゅうじ」で龍の漢字がサンズイがつくかつかないかの違いですので、運転手が間違えても仕方がないところです。そのことは結果的に幸運であったというべきです。



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  高知市西部地図



  36番 清龍寺・しょうりゅじ

 弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという.




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  三重塔



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 本堂  本尊は、波切不動明王




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 大師堂

 



   35番 清瀧寺 ・きよたきじ

 養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。

 平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。



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 本尊は、薬師如来



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  大師堂



  34番 種間寺・たねまじ 


 用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したという。
 



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  本堂はコンクリート造、 本尊は、薬師如来


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  大師堂




  33番 雪蹊寺 

 空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。
 なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。

 

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   本堂、  本尊は、薬師如来です。



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   大師堂



     2024-8-2


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2024年08月01日

窪川散歩

  


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 土佐くろしお鉄道は中村―宿毛、御免―奈半利と分断して高知県の西部と東部を運行している。 37番岩本寺へ行くのに、土佐くろしお鉄道の宿毛・中村線、土佐佐賀より窪川往復を乗車した。 後で気が付いたのであるが地図にあるようにこの線はループした路線があるようだ。ほぼトンネルということで乗っていてもその事実を知らなければ気が付かない。また窪川駅は宇和島へ行く予土線の接続駅でもある。



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  予土線、 宇和島行き、  新幹線を模したユニークな車両



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  窪川周辺図

 37番岩本寺の参詣を終えて、観光案内所にて街並みでも見て廻ろうとレンタサイクルを借りた。 谷干城の誕生地を訪ねるべくグーグルマップに従い予土線と川岸沿って30分も走った。 とても着きそうもないので、民家を訪ねていた業者に不安になりそこを尋ねた。谷干城は川向うの国道・県道381を戻るようである。これだからグーグルマップは注意して使わなくてはならない。 若井大橋を渡るときに眼下に若井沈下橋を見る。 この川は四万十川の上流であった。



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  四万十川と若井沈下橋



 

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  陸軍中将・谷干城像、  戊辰戦争で活躍し、 熊本城で西郷軍を足止めした。



 

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  谷干城 生誕地

 mac窪川店の駐車場の一角にある。



 

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  旧都築半平別邸  

 1822年(文政5年)土佐藩はこの地方の開発のため、身分や職業の制限を撤回して開墾者を募集した。それに芸西村和食の都築家の次男の半平が窪川に移住して新田開発に取り組んだ。その後、半平は酒造業や水産業などの実業家として成功を収めた、



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  茂串城・窪川城 案内板

  1500年頃鎌倉から来た山内氏が窪川氏を名乗る。長曾我部氏の配下となり文禄の役で戦死し断絶した。 岩本寺の奥の山に城は有るのであるが登り口が分からずに行くのを断念した。



      2024-8-1


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2024年07月31日

土佐久礼   ヨット泊地

   


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  土佐久礼 周辺図


  土佐佐賀より土佐久礼に向かった。 凪の日であったが南東の大きなウネリが港内に入り、この風の時化の時にはここの停泊は不適であろう。



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  赤丸は停泊地  青丸は候補地




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  矢印の岸壁側に係留できる



    2024-8-3


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2024年07月30日

お遍路20  37番岩本寺

     
土佐清水を離れ、足摺岬を廻ると、いよいよ太平洋だ。 土佐佐賀にヨットを停泊した。


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37番 岩本寺

  土佐佐賀駅より窪川駅まで中村発の高知行の特急に乗った。 ここらあたりは本数が少ないので一つ逃すと2時間待ちということが生じる。 岩本寺までは徒歩10分である。

 天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が開創したのが起源であるという。その後空海が増築した。 本堂には全国の有志が描いた天井ががある。



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  仁王門



 

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   左は大師堂、中央は歓喜天堂





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 本堂 天井絵



     2024-7-30

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2024年07月29日

土佐佐賀   ヨット泊地




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 高知県南東部




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  赤丸は停泊地  青丸は候補地


 土佐湾の諸港は凪の時でもウネリが入る時が多く、風向とウネリの方向に注意が必要である。 ここは台風でもやってこなければ安心できる港のようである。 ここの南には避難港の土佐上川口がある。

 スーパーとガソリンスタンドはある。


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  土佐佐賀 係留地



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 上川口港、   湾内に避難用ブイが設置されている



   2024-7-30


 
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2024年07月28日

お遍路19 38番 金剛福寺



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  足摺 周辺図



38番 金剛福寺



 38番金剛福寺は足摺岬灯台のごく近くにあり、ヨットでその岬を廻った時には四国最南端とはこのことだ、すぐに確認できる。

 弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。



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  仁王門



 

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 本堂



 

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  愛染堂



     2024-7-28


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2024年07月26日

土佐清水越  ヨット泊地



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 土佐清水 周辺図

 愛南かわうそ海の駅より停泊地に不安があった宿毛を避けて土佐清水越にヨットを廻した。そこから38番金剛福寺とジョン万次郎資料館を訪れる。 資料館は廃止になった長距離フェリーのターミナルを改装して使われている。



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 資料館



 展示の内容はジョン万次郎の生涯をたどっていけるようになっている。 貧しい片親の家に生まれた万次郎が寺子屋にも行かずに漁師になり、遭難して米国捕鯨船に助けられて船長の援助を受けて学び、日本に帰国して龍馬などに影響を与えて、士分に取り上げられて和親条約締結に向けて活躍し、教育者になり航海術や英語などを教えた。

 

       土佐清水越 ヨット泊地



      2024-7-26




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2024年07月24日

佐田岬 三崎   ヨット泊地



  伊予長浜より佐田岬近くの三崎に停泊した。宇和島や「かわうそ海の駅」に行くには八幡浜などの湾奥に行きたくないのでここを選んだ。 

 実際に中に入ってみると港内に海草が海面近くまで育っており、プロペラに巻き付く恐れが大きく、心配であった。

 買い物するお店もないような小さい漁港であるので、翌朝には早々に出港した。


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  佐田岬・三崎



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  赤丸は停泊地




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  停泊位置



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  湾内に繁る背の高い海草



     2024-7-22


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2024年07月22日

紫電改記念館


かわうそ村海の駅にて天候待ちで時間ができたので、紫電改記念館に行って来ました。 山の中あるので南レク公園からタクシーで往復することになる。

 

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 愛媛県・愛南町 マップ



 ここの紫電改戦闘機は1978年に漁師さんにより久良湾海底から見つかったものである。 なぜこの近くに着水事故を起こしたのかと云えば、先の大戦末期に優秀な搭乗員を集めて本土防空戦を戦うための部隊第343海軍航空隊が松山にあったからである。


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 紫電改は水上戦闘機・強風を陸上型に再設計されたものである。ゼロ戦は1000馬力ほどのエンジンであるが、紫電改は場合の2000馬力のエンジンを持っている。大戦末期では米国戦闘機に負けていたが、紫電改は性能的には敵と同等の能力で最優秀の戦闘機であったとされる。 

 

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  燃料タンクの防弾処理がされたもの、ゼロ戦にはこれは無い、初めて実物を見た



       2024-7-22




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2024年07月20日

お遍路18 40番観自在寺、39番延光寺




  かわうそ村海の駅に停泊して40番観自在寺と39番延光寺を訪れる。 観自在寺には地元の漁師さんが連れていってくれました。 そこからバスで宿毛へ行き、タクシーにて延光寺をお遍路した。



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  愛南町・宿毛  お遍路図


   

  40番 観自在寺  


 平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。

 送ってもらいうことが出来てバスで行くより1時間も早く着いた。 納経所が開く時間8時まで境内で待つことになる。



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  仁王門



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 本堂、  薬師如来が本尊





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  大師堂



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 寺の宝物を収納展示する宝聚殿八角堂



  39番 延光寺

 聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したとされる。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったとされる。


 

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  本堂


 

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   中庭



    2024-7-20

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2024年07月19日

伊予長浜 ヨット泊地

   

 長浜新港に停泊した。 青丸の空いているポンツーンは停泊中の3日間には使用されていない。 漁協は良い返事をくれないようだ。 北東の風の荒天であったけれど、ウネリもあったが耐えることができた。 赤丸停泊地は漁協の許可をもらったけれど、ビットの設備が無く、何とか工夫して悪天候をしのいだ。 ポンツーンに停泊できれば良かったけれども。 使っている気配が無いので、云われるまでそこに置いておくのもひとつの手かも?

 旧港もひろいようだけれど適当なところは見つからなかった。



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  赤丸は停泊地、 青丸は候補地



 

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 植え込みを利用したりした もやいロープ



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  ドラム缶を利用してもやいを植木で支えた





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 停泊候補地



   伊予長浜散歩

  日本最古の可動橋と龍馬の宿を訪ねる。



        2024-7-19 

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2024年07月18日

お遍路17  43番明石寺、42番佛木寺、41番龍光寺

 

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 御遍路17 地図



   43番 明石寺  

 伊予長浜よりJR特急で卯之町に着き、そこから歩いて43番明石を訪ねた。街はずれからお遍路道を行くことになった、石畳の登り山道で木立の日差しが少ない道を歩いた。途中で歩き遍路の方とすれ違う。 ほとんど歩きの人は少ないので見かけずらい。 ひょっとして逆打ちだと会えると云われる弘法大使様ではなかったとさえ後から考えると思われた。 その後もヨットで廻っているせいか、最後までその気配を感じることはなかったので。 本当は遍路まがいのことをしている小生にはその機会が無いということであろう。

 6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建し、天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として、その後、荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。


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  お遍路道 


 
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 仁王門



 

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  本堂

 ここでタクシーを呼び、42番 佛木寺と41番龍光寺を訪ねた。






  42番 佛木寺 ・ ぶつもくじ


 大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。

  

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 本堂と大師堂


 


   41番 龍光寺


 空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられてる。


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 稲荷神社

 この赤い鳥居は稲荷神社のもので、そこから40段ほど上がった先に、稲荷神社の社殿があります。 社殿が龍光寺の本堂でしたが、神仏分離令により、旧本堂を稲荷神社とし、新たに龍光寺は本堂を建築することになった




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  本堂



2024-7-18

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2024年07月16日

松山 中島  ヨット泊地




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中島、クダコ水道 航路図

  堀江海の駅は北東風が吹くと直接ウネリが港内に入るので、中島へ避難しました。 停泊の問題は避難港になっているということで問題ないようです。

 入港して左側へいくとポンツーンがあり地元のヨットも定係している。 このポンツーンの反対側に2隻ほどの係留余地がある。

スーパーもレンタサイクルもある。 ウネリも入らないようで荒天を避けるにはふさわしい。



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  赤丸は停泊地



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  赤矢印 係留地


  忽那海賊の城




    2024-7-16



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2024年07月14日

 黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城,   忽那水軍のお城




 松山堀江海の駅から次の荒天を避けるため予定外の中島へ行きました。ちょうど柑橘類の受粉の時期であったのか、島中にミカンのような匂いが漂って化粧水に浸っているような気分であった。

 城廻の気分が沸き起こり、レンタサイクルにて島の城跡を見てきました。そこは忽那水軍に関するお城であったようです。


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 中島・忽那島 周辺の城


   黒岩城


 さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。 



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  黒岩城



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  案合板



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 中島・大浦港を望む


  



 本山城

中島・小浜の大串海岸に面した標高106mの本山山頂に築かれた城跡です。

文治3年(1187年)、忽那兼平が水軍活動の根拠地として、初めて築いた城である。  東は睦月島に相対し松山の北条を見通す、西は長師、神ノ浦を眼下にし、怒和島、津和地島や広島湾を見通す、南は興居島、伊予灘、九州航路を見通す位置であった。

豊臣秀吉の四国攻略で、天正13年(1585年)、小早川軍が来襲し、落城した。


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 案内板

 麓の公園和気まで行ったが登り口も分からず、整備もされていないようなので諦めて引き返した。



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 忽那水軍 マップ

 忽那氏五代の兼平は3代将軍の源実朝によって、地頭職に補任されて鎌倉幕府政所の水軍となる。文辞3・1187年幕府の命で忽那島・中島に二城・本山城・泰ノ山城を築いた。



   泰ノ山城 

 文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。  南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。

 今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。



   熊磯城

 岬の鼻にある小島に熊磯城はあった。 干潮の時は繋がって渡れるようであるが、当時もこの小さな面積では小さな砦、否、見張り所のようなものであったろう。


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  九多児城・クダコ


 クダコ水道は上関ー弓削島へのヨットで航行する時によく利用する航路です。潮流もあり速度が2ノットくらいしかでないときもあり。クダコ島にあるこの城は難攻の城であったでしょう。 カタカナ名ばかり知っていたので九多児という漢字だとは気が付きませんでした。 ここを訪ねるのもなかなか難しいと思います。


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  案内板

 


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 赤矢印 九多児城



     2024-7-14


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2024年07月12日

お遍路16 50番繁多寺、45番岩屋寺、44番大宝寺、51番石手寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺  49番浄土寺、




  ヨット仲間のUさんが長崎から松山へ会いに来てくれました。 44番と45番の札所は久万高原の山中にあるお寺ゆえに大変であると思われた。松山まで乗って来られた彼の車により、山道を乗せてもらって44番から51番までのお遍路を助けて頂いた。



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 お遍路 松山図


  51番 石手寺


 神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。



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  仁王門、 国宝




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  三重塔、  重文




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  本殿、 重文

 


  50番 繁多寺・はんたじ

 天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。後に徳川将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。



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  山門



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  本堂



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  大師堂





  49番 浄土寺

 天平勝宝年間(749年 – 757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗したという。



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  仁王門





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  本堂、  1482年創建  重文



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  大師堂





  48番 西林寺

 伊予鉄道 横河原線 - 鷹ノ子駅 下車 (0.8 km)

 大同2年(807年)に空海(弘法大師)が巡錫の折、今の場所に寺を移されたと云われている。日照りに苦しむ里人のため、奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたとも云われている。



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  本堂、  本尊は秘仏でみるこよができない



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  大師堂





   47番 八坂寺


 大宝元年(701年)に、河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ、ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。



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  橋門



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  本堂、  本尊の阿弥陀如来は50年に1度の開帳



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  大師堂





    46番 浄瑠璃寺  

 大仏開眼を前にした和銅元年(708年)に布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝わる。



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  案合板





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  本堂、  本尊は、薬師如来です




   45番 岩屋寺


 弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。

 本堂横にはしごがかけられていて、岩の中腹に登ことができます。


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  いかにも岩屋寺の風情,本堂,  本尊は、不動明王です。絶対秘仏




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  大師堂



 


  44番 大宝寺 だいほうじ


 百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。



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  石段を登ると本堂



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  大師堂



   2024-7-12

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2024年07月10日

お遍路15   53番園明寺、52番大山寺

 


  松山堀江海の駅に昼頃着く。夕方から東北寄りの風が強くなるのが予想された。ポンツーンにその風をまともに受ける側より反対側にシフトするのを怠ったため、翌朝までハルが岸壁に当たり大変な目に会う。 ここの港は北東側に防波堤が抜けているので、充分な注意が必要であった。 少しは承知していたが、ナメていたと云うしかない。




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 松山堀江 周辺図


 53番園明寺はJR和木駅より2−3分である。 堀江海の駅はJR堀江駅まで5−6分で行ける。 ここはガソリンスタンドが潰れたので、給油だけはとても不便である。



  53番 園明寺

 天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を刻んで開基した。その後、この地を訪れた空海(弘法大師)が荒廃した伽藍を整備して再興する。



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  本堂




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  龍の彫刻、 左甚五郎作という




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  大師堂




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 キリシタン灯籠、  云われは定かでない、譜代の松山藩も武士に隠れキリシタンがいたのであろうか





  52番  大山寺


  586年豊後臼杵の真野の長者というものが近くで海難し救助された。そのお礼に木組みを整えて再訪し、一夜にして建立したと云う(一夜建立の御堂の伝説)。その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。



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  四天王門(3の門)



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  本堂  国宝 1305年



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  鐘楼堂



    2024-7-10



 
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2024年07月08日

国分山城 ・唐子山城

 

前日に59番国分寺に行って来た。天候待ちで今治の停泊が延びたので、今回の巡航で封印していた城廻りを解き、国分山城に行く。

 今治からバスで国分寺下車そこから徒歩15分位で行ける。この地は古くは国分寺があった地なので栄えていたであろうと思われるが、今は今治へ移ったのであろう、それを感じさせる面影は見受けられない。

 国分山城は藤堂高虎が今治城の築城の際にここの資材を持ち去ったので、石垣などは確認できなかった。 


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 唐子山 105m





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 遊歩道を登ると城跡へ




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  山頂にある案内板



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 otaketamaさんからお借りしました。詳しくは下記をごらんください

  http://otakeya.in.coocan.jp/ehime/imabarisi02.htm




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  山頂

主な城主は河野氏、小早川氏、福島正則、池田秀氏、小川祐忠、藤堂高虎




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  村上武吉が居城していたと云うから、海賊城としての眺望は良い



     2024-7-8


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2024年07月06日

お遍路14  55番南光坊、54番延命寺、56番泰山寺、57番栄福寺、58番仙遊寺、59番国分寺




 今治海の駅に停泊して55番から59番札所までお遍路した。 55番南光坊は港から徒歩10分位でいくことができる。そこからはタクシーに手59番国分寺まで参詣することになった。



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  今治 お遍路図



 55番 南光坊

 今治市内の街中にある札所である。 寺と云わず坊とつくのはここだけである。というのは、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。



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  山門


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  本堂




  54番 延命寺


 聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5 m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年 – 824年)には空海が嵯峨天皇の勅命によって再興した。 明治初年の神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなったことから、本札所の大山祇神社を四国遍路として参拝することがなくなった。 53番54番と同名の札所が続く混乱を避けるため、当寺は通称の延命寺を寺号とした。





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  本堂



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  大師堂




   56番 泰山寺


 空海が川の氾濫を治めたという。地蔵菩薩像を刻み堂宇を建て本尊とした。



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 境内入り口、  城を思わせるたたずまい



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  本堂  本尊は地蔵菩薩



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  大師堂





   57番 栄福寺


 弘仁年間(810年 – 824年)巡錫に来た空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。



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  本堂




  58番 仙遊寺



 天智天皇(在位661年 – 672年)の勅願によって伊予の大守越智守興(おちもりおき)が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が当寺に暮らしていたが養老2年(718年)に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来になっているという。



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 本堂





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 大師堂





   59番 伊予国分寺


 天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。

 今回のお遍路でもいくつかの同名の国分寺を訪ねることになる。各県すなわち徳島の15番、高知の29番、愛媛の59番そして香川の80番の国分寺を参詣することになった。




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 本堂、 1789年に再建、 本尊は薬師如来で秘仏である



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 大師堂



    2024-7-6


 
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2024年07月04日

伊予西条氷見 森家住宅  国有形文化財



  60番札所の横峰寺からの帰りに登山バスを降車して乗り継ぐ路線バスの時間が2時間余りあったので、JR氷見駅まで歩いて下山した。 途中で森家(住吉屋)を見ることが出来た。 内部まで見るみることができなかった。見学会は月1回であるという。 

 江戸時代末期(1841年)に建てられた大地主のお屋敷。 下記でお雛様や内部をごらんください。

       https://www.lovesaijo.com/education/sumiyoshiya202303/



 



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  案内標識


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  玄関、他に門もある




 


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 門




     2024-7-4

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2024年07月02日

お遍路13 横峰寺登山バスにて 60番 横峰寺




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 JR伊予西条駅よりバスにて横峯山行きの登山客と同乗して、横峯登山口で下車、すぐ近くの横峯寺登山バスに乗り換える。 路肩の狭い山道を専用マイクロバスでいくことになる。自家用車でも行けるけれど、路の譲り合いで苦労するでしょう。

 帰りは路線バスの乗り換え時間が長く、JR氷見まで歩くことになった。下り路ゆえに1時間余りかかったが難儀というほどでもなかった。

 本堂の高さ745mは66番雲辺寺に次ぐものである。蔵王権現を本尊として、脳病にご利益があるという石仙菩薩像がある。



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  路線バス




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  登山マイクロバス





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  本堂



     2024-7-2



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2024年06月30日

お遍路12 61番香園寺、62番宝寿寺、63番吉祥寺、64番前神寺

 


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伊予西条のお遍路図

 仁尾マリーナより新居浜マリ−ナへ航行し周辺の西条市の札所を訪ねた。 新居浜マリ−ナからはバス便が無く、朝にタクシーを予約してJR新居浜駅より予讃線の各駅近くの札所を訪ねた。



  61番 香園寺・こうおんじ

 用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。安産・子育ての信仰の寺である。

 海外まで布教した関係か唯一の教会を思わせる内部の寺院となっていた。


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  教会風の呼び名大聖堂



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  座席に座る




   62番 宝寿寺

 タクシーの運転手からこの寺の霊場会とのトラブルを聞かされる。一時は閉鎖して参詣できない時もあったという。 庶民の御朱印集めも頓挫されられた。

 昨年は300円の納経料であったが今年の春から500円に値上がりである。88ヶ所廻ると4万4千円の総額となる。 歩き遍路の人には日々の宿泊料負担を加え10万を超えるお金が必要とされる。こちらのような「まがいのお遍路さん」ではなく、本当に必要としている「お遍路さん」では大変なことである。金次第のご利益ではどうしようもない。 けれども人気のない山奥の寺では檀家も少ないであろうから、寺を維持するには安定的な収入の納経料は必須であろう、難しい問題です。



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  本堂



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  太師堂





    63番 吉祥寺(伊予西条市)

 

 空海が造った毘沙門天を本尊とする。四国八十八ヶ所では当寺のみである。 

 天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火され、全山焼失した。万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)と合併して現在の地に再建された。

 長宗我部元親が救出したスペイン船長より託されたとされるマリア観音像 - 純白の高麗焼の像、高さ約30 cmがあるというが見ていない。


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  山門




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  本堂




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  太師堂




   64番 前神寺



 西日本最高峰石鎚山(いしづちさん)・1982mを守る古刹、空海が当山で修業した。、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。


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  太師堂




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  本堂



   2024-6-30



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2024年06月28日

お遍路11 65番 三角寺

 


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  三角寺 周辺図

 ばくちで首になった会長の製紙会社で有名になった伊予三島駅よりタクシーで向かった。タクシーのドライバーいわく地元の恥だそうです。 急な73段の階段を登る。空海が刻んだと云われる十一面観世音菩薩が子供を授かる祈願の仏として有名である。



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 73段の階段





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  珍しい梵鐘がある山門



 

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 本堂



    2024-6-28


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2024年06月26日

お遍路10 68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、67番大興寺、ロープウエイで66番雲辺寺


 お遍路10 68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、67番大興寺、ロープウエイで66番雲辺寺

   仁尾マリ−ナより観音寺行きのバスでお遍路した。 観音寺港に停泊すれば楽であるけれど、適地の情報が得られなかった。



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 仁尾マリ−ナよりのお遍路





  68番 神恵院・じんねいん

 JR観音寺駅より徒歩10分ほどで神恵院に行ける。69番の観音寺も同じ境内に在り。明治の神仏分離令により琴弾(ことひき)八幡宮より分離され神恵院は観音寺境内に移されたという。

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 本堂入り口は近代的な鉄筋コンクリート製である、  本堂内部



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 太子堂





  69番 観音寺

 大宝年間(701年 – 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として当寺は建立され神宮寺宝光院と称していた。

 寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山した。



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 本堂



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  太子堂







  70番 本山寺

四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔がある。中世には寺領2000石の大寺である。長曾我部氏により焼かれた寺院が多い中でここは本堂と仁王門が残った。



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 五重塔





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 仁王門(重文)







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 本堂(国宝)





   67番 大興寺

 天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。 真言宗と天台宗の二宗派が兼学した珍しい寺である。 案合図のように本堂左の弘法太子堂と右側の智を祀る天台大師堂がある。



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  大興寺案内図



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 仁王門  四国随一大きさ





   66番 雲辺寺

 所在地は徳島県であるが香川県との県境にあり讃岐の札所として見られている。標高927mであるのでロープウエイが設備されている。 さすがに山頂に着くとガスで視界が悪かった。

 この寺は789年(延暦8年)に佐伯真魚(後の空海・弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、この地を霊山と感得し堂宇を建立したことを起源とする。



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 県境の道路標識




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  ロープウエイ




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   本堂




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  霧中の五百羅漢像



    2024-6-26


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2024年06月23日

2024年 春巡航    ヨットでお遍路

  2024年 春巡航 四国一周  

        ヨット四国88ヶ所お遍路の旅



 
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4月の半ばより6月の半ばまでの期間において、昨年秋の巡航の続きになるお遍路の旅をしてきました。下記の項目の詳しくは下線リンクしてご覧になるようしていきます。 それの日数はしばらくを要することになります。 

 

 4/17  倉敷着、 ヨット就寝中に四国愛南地震警報が鳴る

 4/18  年間係留代を岡山県に納付

 4/19  宇野へ行く

 4/20  バッテリー届く

 4/21(日)  メインバッテリー交換

 4/22  室内はしご作成、 ポータブルリチウム電源130A作成

 4/23  バッテリーチャージャー20A購入

 4/24から4/26まで ドック、 船艇塗料塗り

 4/27  左右乗降補助台作成

 4/28【日) キャビン内はしご作成

 4/29  倉敷−仁尾  2024年春巡航開始 

 4/30 お遍路再開、JR観音寺駅、68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、67番大興寺、ロープウエイで66番雲辺寺

 5/1 JR伊予三島駅、65番三角寺  

 5/2 JR伊予西条駅、 61番香園寺、62番宝寿寺、63番吉祥寺、64番前神寺

 5/3  仁尾−新居浜マリ−ナ、 

 5/4  横峰寺登山バスにて60番横峰寺

 5/5(日)  新居浜マリ−ナ−今治海の駅、 55番南光坊、54番延命寺、56番泰山寺、57番永福寺、58番仙遊寺、

 5/6  59番国分寺、 国分山城

 5/7  今治にてレンタサイクル

 5/8  今治ー松山堀江海の駅  荒天ウネリ入る

 5/9  梅木さん来る、 53番園明寺、52番大山寺

 5/10 、梅木さんの車にて、50番繁多寺、45番岩屋寺、44番大宝寺、51番石手寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺

      49番浄土寺、

 5/11  松山城、 道後温泉

 5/12(日) 堀江ー松山・中島

 5/13  黒岩城、本山城、熊磯城、九多児城

 5/14  中島ー伊予長浜

 5/15  JR卯之町駅 43番明石寺、JR宇和島駅 42番佛木寺、41番龍光寺

 5/16  荒天

 5/17 長浜―佐多岬・三崎

 5/18 三崎―愛南かわうそ村海の駅

 5/19(日) バスにて宿毛へ 40番観自在寺、39番延光寺

 5/20  紫電改記念館、 ペラの海草除去潜水

 5/21  かわうそ村―足摺 ジョン万次郎記念館、38番金剛福寺

 5/22  足摺―土佐佐賀

 5/23  JR窪川駅 37番岩本寺

 5/24  土佐佐賀―土佐久礼  

 5/25  JR土佐伊野駅 36番清龍寺、35番清瀧寺、34番種間寺、33番雪蹊寺、龍馬像

 5/26  土佐久礼―高知ヨットクラブ

 5/27  28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺、31番竹林寺、32番禅師峰寺、

 5/28  荒天

 5/29  高知城、龍馬生家。

 5/30  高知ー安芸  インペラ破損により奈半利より安芸に変更

 5/31  くろしお鉄道唐浜駅 27番神峰寺、 安田の街並み、 龍馬の姉夫婦の墓

 6/1  安芸―室戸岬

 6/2(日) 吉良川の街並み、26番金剛頂寺。25番津照寺、24番最御崎寺

 6/3  中岡慎太郎生家と記念館

 6/4  甲浦漁港、海の駅東洋町、デユアル・モード・ビークル乗車、和奈佐意富曽神社、阿波海南文化村

 6/5  山田宅

 6/6  室戸岬ー日和佐

 6/7   23番薬王寺、日和佐城、22番平等寺

 6/8  JR阿南駅  ロ−プウエイ 21番太龍寺、湯谷神社、若杉山鉱山遺跡

 6/9(日)

 6/10  日和佐―徳山沖洲マリンタ−ミナル

 6/11  沖洲ーケンチョピア海の駅

 6/12  カミさん来着

 6/13  12番焼山寺 ここで88ヶ所お遍路結願した。

 6/14  長崎のヨット仲間がキャンピングカーで来航

 6/15  仲間と1番霊山寺、坂東捕虜収容所跡、大麻比古神社、鳴門大橋渦の道

 6/16(日) JR阿波池田駅  祖谷渓谷観光バスツアー参加

 6/17  カミさん帰る、 ケンチョピア―坂手・小豆島

 6/18  荒天  草壁海の駅見学

 6/19  坂手―倉敷  2024年春巡航終了

 6/22  倉敷より自宅へ帰る



     2024-6-23

 
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2024年04月16日

全国ヨット泊地 更新


 
 全国ヨット泊地を更新しました。
  
   https://hayame.coolblog.jp/custom4.html#spb-bookmark-36

 今回は2024年春巡航のために、 四国88ヶ所をヨットでお遍路する準備として、 四国のヨット泊地を加えました。
 泊地候補の青丸ばかりですが、今夏にはクルーズを終えて実際の係留地赤丸印に加筆訂正していきます。

     2024-4-17



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田口愛




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  田口さん



 明日から人生の残り少ないヨット巡航へ出発する。 そのための荷物をハーバーへ送ったところだ。 大好きな袋詰めチョコレート3個を同梱した老生です。

 何年か前のテレビの番組において、小生はチョコレートの原料・カカオ豆の産地では栽培して収穫している現地の人々には、それを口にすることは無いとの番組を見た。



 何十年前にはその産地の国々は独立したわけであるが、未だに植民地的な状況が続いているのかと小生は驚いてしまう。 ベルギーのチョコは有名であるけれど、その企業は現地には何も残さずに独立後でも実質的な支配を続けているのであろう。



 死ぬ間際の老人になっても他者のために何かをしてきたのかと小生に問われてみてもお答えするものは無い。 若い女性がマラリヤに犯されながらも、みんながウィンウインになるための努力されているのに敬服いたします。 まだ、立ち上げたばかりですので、これから上手くやれると良いですね。




 ガーナのカカオ農家を支援するため24歳の女性がチョコレート工場を建てる 

              24分

    https://www.youtube.com/watch?v=eSz8d0YDrOM&t=29s
      

   
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   マーハチョコレート


     2024-4-17


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2024年04月15日

一乗谷  朝倉氏遺跡

 
  

 永平寺よりバスにて一乗谷・復元町まで行く。 谷あいの川を挟んだ狭い地域に朝倉氏が住んだ。 復元の街並みを見ることができる。 当日は鉄砲隊の実演があり。谷間に銃撃音が予想外に大きく響いた。



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 福井駅、 永平寺、 一乗谷



 現地を訪れてみると南北に城戸をもうけるだけでは不安がある。朝倉館もすぐ横が山であるここから攻めてきたらどうするのだろうか? 安心して住んできたのであるから、統治が安定していたか、他の防備を考えてきたかのいずれかであろう。

  実際には、北東の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。なお、一乗谷の周辺の山峰にも、西に槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていた。 下図のように東西南北に出城があった。 それらはクマが出るような環境であるから見るのは大変である。

 柴田勝家の北の庄城でも云えるのであるが、大きな野戦で敗北してしまうと、ここも信長から守るのは難しかった。 ここは芭蕉ではないが「兵どもの夢の跡」という気持ちがしないでもない。



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 一乗谷城の周辺出城





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 一乗谷川の両岸に朝倉氏の遺跡がある





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  朝倉館跡  この敷地に庭園跡もある





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  復元城下町





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  火縄銃の発砲実演



  2024-4-16




posted by 速魚 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ひがし茶屋街  金沢

 

 京都駅より1日巡回バス券 800円を購入してここを訪ねる。 街並み保存地区であり、よく整備保存されている。 お昼の訪問であったので、京都で見かけると云う芸妓さんは見かけなかったけれども、若いカップルが和装してポーズを決めてカメラマンが撮影しているの見た。 このようなツアーがあるのであろうか、他所でも目にする。

 金沢芸妓   https://kanazawageigi.jp/chaya/higashi.html



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  金沢有名観光地



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 「ひがし」と「主計町」 茶屋街図

上の2つの他に「西茶屋街」があるというが、訪ねていない。



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  ひがし茶屋街 その1



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  ひがし茶屋街 その2





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  ひがし茶屋街 その3



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  主計町茶屋街  浅野川沿いにある



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  泉鏡花記念館



      2024-4-15


 
posted by 速魚 at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年04月14日

高校生のときの私

  


 もう60年も前の話を取り上げるのは笑止千万とはこのことでしょう。 小生には受験勉強になじめずに苦悶した時代でもありました。 実はナマケモノであっただけ。 今思えば、学生の本分に従って努力してきた人には結果的に、半世紀経っても少しは報われた世代でもありました。  しかし時代が変わる。 チャットGPTが誕生してきた現今では、まだどうなるかは分かりませんが秀才の職業は無くなっていくでしょう。 弁護士、医者、会計士、官僚など既存の知識を活用していくものがそうなる。AIを使いこなせる人材や子供の博士ちゃん的の人材が求められるようになるか。 産業革命のような大きな変動が起きるのかもしれませんね。

 以下は小生の過去のブログを再掲いたします。 

              2024-4-14



 1.  高校の音楽と人生の楽しみ
 


 高校の世界史で歴史好きが嫌いになった話を先ほど書きました。 今度は音楽の授業で人生の楽しみを見つけたお話です。高校2年生の時に音楽史をメインに教材が作られていました。(ああ なんと60年前かと...)最初はグレゴリオ聖歌で始まります。何とか修道院の聖歌隊のレコードでした。



randofsukaya.jpg
 ワンダ・ランドフスカヤ  1879-1959


 お経のようで,今までに聞いたことのない響きで感動でした。それからランドフスカヤのチェンバロです、なんて繊細で微妙な音楽なんでしょう。心と耳に衝撃を受けそれ以来老人になるまで、オーケストラは好きになれませんでしたが、古楽とバッハの音楽を楽しんで過ごせました。


 出来の悪い生徒でしたので、他の科目では何も得ることはなかったです。もっと後になるまで、自分が音痴であるとは気が付きませんでしたが、ヘタの横好きは続きました。普通こういうことをかく人は何事をなした人の若い時のエピソードでしょう。 スミマセン。ただ無駄に過ごした老人の話です。

 昨年にレオンハルトの亡くなる前の最後の日本公演を聞くことができました。アンコールなんか一切しない演奏会でしたが、淡々と端正なチェンバロ曲を聴くことができました。人の持つ感性は様々で、眠たい音楽を授業で聞かされ退屈した生徒も多かったでしょうね。我が人生としてはありがたかった授業でした。
 ライプチヒで開かれているバッハ音楽祭には死ぬまでにいけるのでしょうか......。

  グレゴリオ聖歌  ベネデイクトス    シロスモンセラート合唱団   4分
  http://www.youtube.com/watch?v=_MbDqc3x97k&list=PL7459B90AE9B9F837&index=11
 


     2013-8-5



   2. 高校のクラブと美術


caravaggio.png
 カラヴァジオ 1571-1610


 昨年からブログを380本(今は1000本)近く書いてきました。訳のわからない古楽やら線香ただよう宗教音楽、この先には老人の遊びと化しそうな(なった)ヨットの話、絶滅した外航船員のおはなしをアップしてまいりました。まだ美術関係のブログを書いたことはありません。実は私は高校のときには美術クラブに入っておりました。デッサンもまともに書けないような部員でしたが、油絵を中心とした活動をしていました。卒業までまともな作品・絵はひとつとして描けませんでしたが。


 でもクラブは活発なクラブでした。当時は、施設・ハコモノがまだ貧弱な時代で、県にひとつしかない美術館に定期展示会をもっていて,他高や美術団体からうらやましがられていました。 受験校でしたので、学校の方針として受験第一ですから、活発なクラブはご迷惑という方針で、部活動にいろんな規制をかけられておりました。 落ちこぼれの生徒でしたので、クラブに行くことのみが楽しみで、また受験のもろもろの空気に反発しながらも、それがあるので学校に行けていたようなものでした。 クラブでイベント・展示会に向かって、皆でやることはその後の人生に役立ったように思います。

 でも卒業以来だんだんと美術そのものは興味が薄れていき、美術館へも滅多にいかなくなりました。人生の楽しみにはそれはなれませんでした。自分の楽しみ・興味はヨットや古楽のほうに向いて生きてきました。だからこのブログにあげることが少ない理由でしょう。古楽と同じでバロック・ルネッサンスの絵画は好きです。

 歳を重ねて老人になってから考えてみますと、高校段階のクラブは大切なものです。その後の人生に大きな影響を与えることがあります。クラブの同級の男子5人のうち3人は美大にすすみ、その後、絵で一生生活しているのですから。自分が好きで努力もしないで、できるものを早くみつけて、高校にそんなクラブがあるなら、入ってやっていくべきでしょう。

   2014-11-5





   3. 高校の歴史教科書
         

 本屋さんで;東大のデイープな日本史という本を見つけました。もちろん東大を目指しているのではありません(笑)。他大学の入試問題はどうなったんでしょうね。老人になった小生が何10年前かに受けた3流大学の問題とは明らかに違っていました。これだと暗記ではない相当な認識を要求されます。



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                  講談社刊


 この年になるまで歴史好きで来ました。しかし高校の時の世界史の教科書はひどかったです。世界史なので量的なものが多くなるためもあるのでしょう。受験のための歴史語彙が羅列してあるばかりで、すっかり歴史が嫌いになりました。 成人してヒッテイの”アラブの歴史”を読み、こんな教科書なら若い時にもっと歴史が好きになったでしょう。友人に薦めたらすっかりアラブ通になりました。

 世界史は今の高校では受験に必須の科目の位置にあるようです。高校の歴史をもう少し細分化して、日本史・ローマ史・アラブ史・西欧近代史・中国史などひとくくりで学べる意義のある単元に区切る必要があると思います。


 高校程度の知識では抜けた分は自分で十分補えます。たとえばローマ史だけ丁寧に学べば人生に役立ちますね。


                      2013-7-28
  

      慶応大学入試











posted by 速魚 at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記