2022年01月24日

更新 ヨットのための海の駅と泊地


 昨年の秋巡航の後、更新いたします。 地図を豊富に付け加えました。

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   http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41

    2022-1-24
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2022年01月23日

スパルタ

    

              塩野七生さんによる



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スパルタとアテネ



 アテネに勝利したスパルタについては「スパルタ教育」程度のことしか小生は知らない。 ペロポネトス戦争に勝ってギリシャの覇権を握ったスパルタは、その後パットすることもなくマケドニアにその覇権を譲った。 塩野さんの「ギリシャ人の物語」により少し分かった気がするのでのでここに記します。


 スパルタの年表・紀元前



1104    建国したと云われる
800-700   リュクルゴスの憲法成立
546     ペロポネソス同盟成立
490     第1次ペルシャ戦役
480-479   第二次ペルシャ戦役、 テルモピュレイの戦い
404     ペロポネソス戦役でアテネに勝利  ギリシャの覇権を握る
395     コリントス戦争 アンキタルキダスの和約
371     レウクトラの戦い、 ギリシャの覇権喪失 


     社会の構成


 2人の王、 戦場で戦闘を指揮するのみの権限

 5人のエフェロス、 市民集会で選ばれて再選不可の1年任期、内政と外交に従事

 一万人のスパルタ人戦士・市民権を持つ、 20-60歳の重装歩兵として軍役に従事

 ヘリオイコイ  7万人、手工業や小規模の商業に従事

 ヘロット 16万人、 農奴・農業に従事

 

 ギリシャの陸軍の代表とも言えるスパルタの重装歩兵は歴史を通じて1万人余りであったという。 それは市民権を持つことが出来たスパルタ人であった。この数の兵力でスパルタを維持しアテネに勝利して覇権を握った。 それに役立った制度が今度は衰退の原因となり、わずか70年の期間で衰える。

 5人の内閣ともいえるエフェロスは1年の任期年で再選無の人である。 彼らはリュクルゴス憲法の番人ではあったが戦略的思考のできない人であった。 ペルシャの力を借りてアテネを倒したが、スパルタ人はその傭兵と化して弱体し衰亡していく。

 少数のスパルタ人で自国を支配したのであるが、スパルタはヘロットには収穫の半分しか収奪をしなかった。ヘリオイコイにも安価な税金であったという。 小生にはあの苛烈なスパルタにしては驚き である。

 まずい食い物を食べ華美な生活をしないスパルタ人にはその収入で充分であった。

 スパルタは軍事に特化して若者を訓練・教育し、30歳になってから所帯を持っても、寝る時は宿舎に戻るようなストイックな社会にも衰亡が訪れた。

 作家で都知事であった石原さんが、 かってスパルタを持ち上げるような本や言動があったと記憶にあるが、この本を読んでなんと言うのであろうか。

 全3巻の「ギリシャ人の物語」を5年以上もかかって読み終えたのですが、「ローマ人の物語」も含めてこれを読めば小生にはその後の西欧の歴史はどうでもよくなります。これを学べと言っても、多くのものを学びっとっていないのは事実でしょう。




      2022-1-23





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2022年01月19日

レオンハルトの軌跡


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  NHK FMの古楽の楽しみの番組において、2022年1月11日より5回を連続して藤原一弘さんが解説されて、グスタフ・レオンハルトを取り上げました。

 その放送においてレオンハルトがオランダの戦前の貴族の家に生まれ、ドイツの占領の時代をすごし、バ−ゼルスコラカントルムに学んだことなど、彼の生涯を詳しく語られています。

 また、 レオンハルトは現在のバッハであるとブリュヘンが語っていたエピソ−ドも話された。 まさにレオンハルトは現在のバッハであったと小生も思います。

 藤原さんは皆川達夫先生やドイツで学ぶ。 ここではレオンハルト生涯とその音楽の軌跡を知らしめた。それを放送では当時の良い音源と録音でで聞かせてくれます。 レオンハルトの初期はモダンチェンバロであったことも知りました。彼の演奏はオリジナル楽器のものしか小生はなじみがなかったが、時代を経て古楽が深まるにつれてレオンハルトもオリジナルチェンバロの価値を認めて弾くようになったのですね。

  レオンハルトに対する見識と愛情にあふれた良い番組でした。 藤原さんの語り口も皆川先生の再現のようで落ち着いて聞けます。 皆様にオススメいたします。


 1. イングランドとイタリアの音楽

 2. フランスの音楽

 3. ドイツの音楽

 4. バッハの音楽

 5. バッハのカンタ−タ

  
     2022-1-19


  レオンハルトを偲ぶ
  http://hayame.net/custom16.html#spb-bookmark-770


  余談



   フロ−ベルガ−を語る藤原さん、このレコ−ドを小生も持っていて当時感動して聞きました。

  https://beataorgan.wordpress.com/2021/04/27/1/    9分

   
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2022年01月18日

ソクラテスの死  塩野七生さんによる




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 「ソクラテスの死」については、はっきりとした記憶が無い、高校の倫理社会の時間に学んだのであろうか。 単に「悪法なれどもそれに殉じた死」であったのか、得心のいかないものをずっと老年になるまで持っていた。

 昨年末に1か月余り入院する時があり、新刊を買って以来放置していた塩野さんの「ギリシャ人の物語V」を読み終えた。その死が少しは分かった気がしている。

 当時のアテネの裁判は500人の市民による裁判員裁判であった。死刑の判決を受けても厳しく執行されるものではなく、国外退去すれば逃れることもでき、裁判自体も強弁することが無ければ減刑なり無罪なりの判決を得ることができた。 従いソクラテスは確固とした信条・信念によりこの裁判に対処し死刑の判決を得たものと思われる。

 アテネで紀元前399年に行われたソクラテスを裁く裁判で、ソクラテスを告発した側の言い分は次のようなものであった。「国の認める神々を尊重せず、アテネの青年たちに害毒をおよぼした」 それは彼を死に追いやるような告発ではないと分かる。


 大衆は怖いもので、ペルシャに勝利したデミストテレスでさえ救国の英雄をその嫉妬心から敵国に追いやってしまった。 平等の権利を持ち自由な精神を持つ大衆が無ければギリシャの哲学や芸術は起きなかったけれど、それはアテネの交易による発展の上に成り立っていた。

 スパルタとの抗争でアテネは形勢が悪くなると経済も悪化し不安な気持ちが市民に蔓延した。「もはや自分たちには自分の運命を決める力はないという冷酷な現実は、それが可能と思い込んでいた時代を経験しているアテネの人にとっては耐え難く、憤懣やるかたないの心境であった」この空気の中でソクラテス裁判は起こる。ソクラテスは罪状は認めないが、徴兵に従い公務員まで務めた市民として責務か欠かさなかった。  衆愚が始まりそのイライラとした市民の気分がソクラテスを死に追いやることになる。 「ソクラテスは思索と言動と表現の自由というアテネ人が想像した理念を貫き通し、それにどう幕を引くか。 彼の死に方を見せることは師が弟子に与える最上の教えであった。」「あのような罪を着せられて死なねばならないことを逆手にとって、彼の哲学を完成させた」


アテネの興隆するときでも、良きリーダーが大衆を率いていかなければ機能しなかった。「民主主義・デモクラツイアには良き指導者を不可欠とする」ものでないのか。大衆の意見をくみ上げれば良いというものではない。嫉妬や不満の気分がその意見に反映されやすいものと知るべきであろう。 いつも大衆は愚であるとは思わないが、壊れやすいものとして運営しなければ、効率のよく見える専制主義の被害を受けることになる。


 アテネの繁栄は70年の短い期間であった。わが人生より短いのかと驚きではある。 アテネの経済的な没落と共にソクラテスは死しギリシャ文明も終焉を迎えるのである。


 20代の時に岩波文庫の多くのプラトンを読んだけれど、この老年になって何も残っておらず。 ソクラテスの死も哲学的な問題として、と言うと小生には手に負えないのかもしれませんが、アテネの経済と凋落とから塩野さんのように述べられると少しわかったような気がしています。



   2022-1-18




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2022年01月16日

大西洋横断





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 今となっては30年を過ぎた昔話である。佐野所有のニコルソン39ケッチにてペペと小生の3人で大西洋を横断した。

 佐野との共有していた52fケッチを売り、小生は日本で家にそのお金を使う。 佐野は米国人より39fのヨットを購入した。 それをアメリカに持っていくのにスペイン・マジョルカ島のアレナルヨットハ−バ−より出発した。



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 マジョルカ島 アレナルとパルマ



 スペインの南岸をジブラルタルへの航行中、当時はGPSという便利なものは無かった。チャ−トと灯台頼りの夜間航行中、灯台を目指して航行中であった、崖の上の道路上を車のライトが飛行機のように見え不思議な光景を目にした。 霧の視界が悪い中なので、今思えば灯台よりの離間距離をとって航行しなければならなかった。 突然ドスンと止まってしまう。 のし上げたようだ。 朝まで待ち、そこは灯台近くの位置であった。なんとか離礁して近くにあったフェンヒロ−ラのマリ−ナに行き、そこで修理作業を行った。 ロングキ−ルのハルであったので船底に小さい穴があいたのみで浸水はなかった。 その修理はガラス繊維で覆うだけで良かった。



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 赤丸は座礁地点



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 赤丸はジブラルタルマリ−ナ



 ジブラルタル海峡を抜け地中海とは別れて大西洋に突入。 ジブラルタル空港隣のマリ−ナへ停泊した。 ジブラルタる要塞や飛行場横にあるスペインとの入国検問所を通りアルジェシラスを訪ねた。



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 ラス・パルマス


 ジブラルタルよりアフリカモロッコ西岸沖を航行してカナリア諸島のラス・パルマスに停泊した。
30年もたつとすっかり港の様相が一変していて、前の停泊場所を探すことができない。 当時は公共岸壁にこれから大西洋に向けて旅立つヨットが縦付けに停泊していた。 地図の赤地点はカジノがある場所であるがその近くに停泊する。 おまけにそこで散財するために3日も出港を延期した。

 ここと同じように地中海の諸港はマリ−ナが整備されていて、港内にアンカ−で停泊したり、公共岸壁に停泊する場所が少なくなっているように思える。



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 ラス・パルマスよりしばらく南下してトレ―ドウインド(貿易風)をつかみ西航してウインドワ−ド諸島のひとつフランス海外県マルテイニ−ク島をめざす。

 貿易風の風は予想外に強くビュ−フォ−ト階級の風力4-5であった。 追手ゆえにヨットはロ−リングをくりかえし左右に艇体をゆらしながら快調にすすむ。 正中時の天測で正午位置を求めてサテライトナビゲ−タ−で求める船位の確認をした。 ヨット天測<はこちらのペ−ジをご覧ください。

 ペペは日本の武道の名手でありすぐれたコッックであったので、動揺する船内でテンプラなども作ってくれて、彼のおいしい料理のせいで、25日の横断中に太ってしまった。

 マルテイニ−クに近ずいてからは夜が明けて午前中にそこへ到着するようにセ−ルを縮帆して時間調整を行う。 マルテイニ−クのランドフォ−ルは感動ものである。 その経験は横断したものの特権でしょう。



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 マラン沖の赤丸にアンカ−停泊



 マルテイニ−クの南端の岬を回った湾は貿易風を押さえた理想的な湾である。 そこは横断を終えたヨットが多く停泊していた。 その中に仏人と結婚した日本女性や日本人家族で32fのヨットでやってきた人もいます。

 小生のカミさんもNYから飛行機を乗り継いでここにやって来ました。 島内めぐりをして楽しんだ。 小生はここで下船してパリ経由で日本へ帰る。 パリではル−ブル美術館を3日間堪能した。

 このあと佐野夫妻は数年に渡ってカリブ海を周航した。 ハリケ−ンに会ってこの艇が80mも飛ばされて陸揚げされ、それを佐野は再び航行できるように就航させた、後日談がある。


 老年の乏しい記憶をたどりながらの昔の横断話でした。 今は変わってしまってお役に立つことは少なくなりましたけれど。



        2022-1-16


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2022年01月14日

源範頼  まとめ


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 大河ドラマで新シリ−ズが始まりました。 鎌倉幕府にまつわるお話のようです。 台本を書いたのがまた「あの人」かあという気がしていますが、さて、どうなるのでしょう。

  源範頼について「ゆかりの地」とその「お墓」を訪ねて書いたものがあります。 まとめてみました。

     源範頼 まとめ

    源範頼

    源範頼  ゆかりの地 その1

    源範頼  ゆかりの地 その2

    源範頼   お墓 その1

          お墓 その2

          お墓 その3   

          お墓 その4

    源範頼  その子孫


      2022  1-14



   
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2022年01月13日

人名政の島




 江戸時代の特異な制度の人名政は塩飽諸島の島々に適用されました。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

 それらを訪ねることができたのでまとめてみました。


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 赤丸は人名政の島々とその集落




1. 与島

2. 本島

3. 広島

4. 手島

5. 佐柳島

6. 高見島

7. 沙弥島 (しゃみじま)

 今は陸続きになっていますが、かっては島でした。 柿本人麻呂がこの沖で遭難して流れ着き、歌が万葉集にあるとかで、歌碑があります。


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 またこの島は弘法大使の弟子の理源大師がこの島の生まれたました。彼の胎盤を大きな石でフタをしたということで、それに触れるとたたりがあると、今でも漁港の入り口にふさぐように岩あり、それを残して漁港整備されました。


  
  
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  真ん中の大きな石  瀬戸大橋が見える


8. 瀬居島

  今は陸に続がって坂出市の一部になっている。


9. 牛島

 本島の南にある島。 丸亀市から連絡船2便/日。
豪商であった丸尾五左衛門の住居が残る。咸臨丸の乗組員も他の島と同じようにこの島より出ている。

10. 櫃石島・ひついし島

 下津井の南にある島で最も本土側に近い島である。 島へ行くには、島民しか車で入れないので、バス便を利用することになる。

  咸臨丸の乗組員50名のうち35名が塩飽諸島の出身であるのでこの島も3名が乗り組む。


   2022-1-13


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2022年01月11日

イビザとマジョルカ



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 PING 906



  スペインにいた友人の佐野と共同でマジョルカ島のパルマのマリ−ナにあったオランダ人家族が乗っていた52fのステイ−ルケッチ「PING906」を購入した。

 二人で1か月余り英国とスペインにある中古ヨットを探した。 今から振り返っても楽しく懐かしい旅でもあったと思える。 ロンドンではレコ−ドで聞いていた古楽の合奏団やヘンデルのメサイヤの演奏会をを聞くことが出来た。

 2夫妻が乗るということで大き目のヨットを選んだが、スエ−デンヨット42やホルベルグラシ−42などを買うチャンスがあった。そちらの選択のほうが良かったかなとも思える。

 マジョルカ島のアレナルヨットハ−バ−に係留することになる。 船乗りをしていたので7−8か月の乗船で2か月余りの休暇のときにスペインへ行き、ヨットを楽しむことになった。 要するにこの時期は年中海の生活をしていたことになる。

 海賊の城のある島カブレラやマジョルカ島の南岸、イビザ島を楽しむ。 長いものはイタリアのサルデイニア北岸まで足を延ばした。


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  パルマからササ−リまで


 今思えば40歳代のことになり、30年以上の前のことである。当時にはブログも無い時であり記帳して残してもいなかった。 老人の記憶によるものですので、多少のことは許されたい。

 共同オ−ナ−の佐野が一部を残してくれています。 詳しくはこちらもご覧ください。


   地中海クル−ズ  佐野による
 http://hayame2.sakura.ne.jp/details1044.html#%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E6%B5%B7%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA

    2022-1-11


   我がヨット巡航
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank055.html

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2022年01月07日

芸予諸島の村上水軍城 まとめ


 瀬戸内にある村上水軍やその城の位置ををまとめてみました。


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  青字は訪れた芸予諸島の海賊城、  赤丸数字は城位置


  下記のクリックで個別の城へ


 @ 備後茶臼山城
 A 岡島城
 B 余崎城
 C 馬神城
 D 青木城
 E 青陰城
 F 長崎城
 G 俵崎城
 H 茶臼山城・生口島
 I 甘崎城
 J 能島城
 K 来島城
 L 鹿島城
 M 美可崎城
 N 千守城
 O 亀山城
 P 岩城新城

     2022-1-7


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2022年01月06日

手術後 6年を経て

   

  2021年 12/3-28まで入院をする。 6年ほど前に脱臼骨折の手術をした肩の「術後感染慢性骨髄炎」との診断を受けて手術をすることになる。 先の手術で肩に2本のピン・ボルトが埋め込まれていた。 今度のレントゲン検査で2本のピンを繋いでいたワイヤ−が切れていたのが映っていました。 それが原因で菌を呼び込み体内で悪さをしたのでしょう。 外傷による菌の侵入ではありません。

 2021年の秋巡航の時には肩に水が貯る症状があり、そのリンパ液が染み出てシャツを汚していました、痛くもなく腕も90度くらいは持ち上がるし、これはリハビリ終了後と同じ可動だったので、気にかけずに小生は満足の行ったクル−ズを楽しんでいました。 帰宅してクリニックへ行ったらすぐ病院行きで、手術をすることになる。 病院では「ピンを抜くようにといわれませんでした?」と問われても施術をした医師はそれを言わずに最近退職していた、リハビリをした地元のクリニックも1年余りのリハビリ期間にそれを云われなかった。 今となればピンを抜く処置は医療の常識であったようだ。

 手術では肩を10cm位切り開いて、ピンを抜きよく中を洗浄しその穴に抗生薬を入れて、また、腐った部分を切除した。 切り開いて現状を見てみないと症状の進み具合を判断できない、最悪には人工関節の手段を取ることもあり得ると病院の医師から聞かされる。 幸いにも洗浄だけで済んだようだ。 再発しやすいので今後は注意が必要とのことである。 寸止めで助かったようだ。 この後、形成外科で穴の開いた部分の治療がある。

  ここやブログで「爺爺のリハビリ治療 卒業」を書いていますが、卒業とはいかなくて再入学となりました。 今度の手術は切ったり貼ったりしたところが少なかったのでしょう。 術後1週間ほどの間に2回の院内リハビリで元に戻れそうな気がしています。 やっぱり再発が怖いなあ。

 問題点は中核医療の病院と地元のクリニックとの連携・連絡がうまくいかないとこのような事態が起きるのではと思われる。 米国の友人は日本にもヤブがいるのだなと...言っていましたが。

 中核病院はすぐに地元へ返したがる傾向があるようだ。ここ病院の整形外科も紹介がないと診療が受けられない、このような別の問題もあるのですが。


      2022-1-6


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2022年01月05日

馬神城

     


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 馬神城、青木城,重井港



  生口島にある茶臼山城からの弓削への帰りはタクシ−で金山まで行き、そこからフェリ−で因島赤崎まで行った。ここでバスに乗れば土生まで行き連絡船で弓削に帰ることができるが、時間があるのでバスにて逆方向の重井まで行き馬神城を訪れることにした。 そこはかって青木城を探索したことがあるが、その時は支城にあたる馬神城を知らなかった。

 ここは永禄十年(1567年)青木城を築城した因島村上水軍新蔵人吉充の命により築かれ、側用人頭で第五(付)家老・末長有馬介景光(矢治馬介景親)が城将となった。そこには用人四家、小柱二家、使番五家及び大目付二家と十八(横目付)連中を率いて居城したと伝えられる。

 上の衛星写真で青木城と馬神城の位置関係や馬神島であったことが良くわかる。


 


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  馬神城


 

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 道降寺、  除虫菊ロ−ド脇に建つ




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  登り口と案内表示




 

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 門があったと思われる




 

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 本郭にある祠など

 



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  重井港方向を望む、 土生−重井−三原を結ぶ連絡船もある



 ここへ行くには除虫菊畑の入り口から車で行く方法と海岸沿いを歩き道隆寺へ行く階段を上がると先の道に着くものがある。 まもなく、登り口の案内板を目にする。



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  除虫菊畑の入り口



            2022-1-5







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2022年01月04日

俵崎城と茶臼山城  生口島

    




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 訪れた海賊城



 生口島は個人的には思いで深い町である。  初めての船員として乗船する時に、品川からブル−トレインに乗り尾道で下車。 当時は島々への連絡船のにぎわいのあるなか、瀬戸田造船へ行くためにそれを利用した。 ほどなく本船に乗船して北海道へ向かった。人生の初航海であった。

 
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 瀬戸田 連絡船降り場、 海の駅でもあるようだ




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 古い街並み風のモダンな建物




 瀬戸田と言えば耕三寺が有名である。そこは好みでは無いのでスル−する。 駐車場の隣に俵崎神社があり、そこが俵崎城跡である。





     俵崎城

 



 


 現在は海から離れた土地にあるが、海賊城にふさわしく岬の先の海城である。 瀬戸田は尾道に次ぐ湊町であった。この城主と考えられている生口氏は織田信長と毛利の戦い、第1次木津川口海戦で毛利方の武将です。


 

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 俵崎城登り口





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 1郭にある俵崎神社 




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  1郭にある高い部分  登れなかった



 

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 2郭を見る







  茶臼山城 生口島



 俵崎城は茶臼山城の支城ではないかと云われている。 観光案内所で尋ねて、そこへタクシ−で向かう。この城を訪れる人が少ないのか余り情報をもらえなかった。

 タクシ-を下りてからは舗装された山道を登っていく。ため池のあるところに手作りの案内板がありため池横を登ることになる。途中で行政の案内板があった。かっては整備されていたのであろう。 タクシ−でため池あたりまで行けるので、乗れれば楽です。


 

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 タクシ−下車 左へ向かう




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  ため池横にある手作りの案内プレ−ト  




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 案内板 



 水タンクのようなもので行き止まりとなり、さらに頂上を目指して道の無いところを登って行くと、、それらしくの一番高い場所についた。標識も無いところであった。これより下り路を探したが見当たらない。 より低い位置で通れそうなところを下っていく。往路に出会うとともっていたが1時間ほどしても無い。 焦りを生じた。 途中で土塁に囲まれた郭のようなところへも到達したが、それに続く道も無い。山で迷ったようだ。


 



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  水タンク

 


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  最も高い場所





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 土塁のある名も知らない郭






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 農場、・「ごちそうの森」の奥にたどりついたようだ。





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 ため池のむこうが「ごちそうの森」



 広島観光連盟のペ−ジより

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  守護神     広島観光ナビより転載

 「標高187メートル、中世の模範的な山城と言われています。周辺には寺跡、居館跡、石風呂跡が残っていたと伝えられています。頂上の一の郭には城の守護神がまつられ、二の郭には井戸跡があり一の郭の南側に三の郭の遺構が残っています。この城はお茶を碾く臼によく似ているところから茶臼山城と呼ばれたと言われる。」

 以上のような山頂の守護神なども見つけられなかった。 案内表示が朽ちていたのかもしれないがたどり着けずに、暴走老人のヨット乗りが山で遭難騒ぎを起こす寸前であった。 今後も注意しなければと......



       2022-1-4


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2022年01月03日

余崎城と岡島城


  余崎城



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 向島, 余崎城、 岡島城



 午前中に備後茶臼山城を訪ねて、午後は因島でレンタサイクルを借りて向島にある余崎城と岡島城へ向かう。 今日の3つの城はすべて村会海賊関係の城である。 因島でもらった海賊関係のパンフレットに載っていたものである。

 尾道から自転車込みで90円という安いフェリ−にて迎島に行く。 余崎城は向島の南岸にある城である。 そこへ行くには自転車で一山超えなければならなかった。 海賊にふさわしい立地で余崎城は海に突き出た岬にある。

 当時の栄えた湊町・尾道を押さえるには最適な場所と思われる。地元に人に尋ねながらお城の登り口へ来た。 しかし登って行くと何かの郭があったと思われる民家のある平地に着いた。 本丸へと続くはしごがあったけれど、不安定な構造で民家の敷地でもあり登ることを断念した。

  登り口の近くには船隠しのある小弯がある。



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 余崎城



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 登り口



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  行き止まりの民家



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 本丸へと続はしご?



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 船隠し


 後で知ったのですが、もう一つの経路があり、それは岬の反対側を通るル−トのようで残念だがその時には気が付くことができなかった。 城跡の整備はされていないもよう。




   岡島城




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 岡島城


 余崎城の帰り・岡島城への往路は1時間余りも峠の頂上まで自転車を押し登りで辛い作業であったが、そこからは向島のフェリ−乗場まで一気に下った。 この近くの造船所の敷地内に岡島城はある。 造船所の守衛さんに尋ねたがご存知なかった。城のふもとの民家の女性に聞いてみると、かってそこには邸宅風の建物があり現在は住んでいないということでした。 登り口を探したが通行禁止の模様。 またしても断念した。

 休止していたフェリ−乗場があり、そこを降りると尾道水道がわの城斜面が見える。

そこには城へ上がる道や船を繋ぐ雁木があったかもしれない。



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 造船所の敷地にある



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 登城口とおもわれる?



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 休止していた尾道―向島のフェリ−


 今日の3城訪問はいずれも満足するものではなかった。 因島の観光案内のパンフレットに載っていたものだが、単なる城の位置を示すものだけであったのでしょうか。 観光施設としての整備はされていない。


    2022-1-3









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2022年01月02日

備後茶臼山城



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 青線、 乗船した連絡船航路




弓削海の駅にヨットを置き備後茶臼山城を訪ねた。 実は尾道にも海の駅がありそこにヨットで停泊したことがあります。 尾道水道は狭く潮流が強い時がある。 それゆえ、そこを出港しようとしたところ、もやいを離すとすぐに自船が隣の船に寄せられていき、シングルハンドで対処するには辛い思いをした経験が有り、一人の時は尾道を避けている。



 面倒なことだが、百島にある村上海賊の備後茶臼山城へ行くのに、弓削から連絡船で因島の土生へ、そこで尾道行きのバスに乗り、尾道から百島へ再び連絡船に乗った。



 その城跡の近くの脇の道に来ているのは確かと思われたが、地元の2人に尋ねたが市への確かな道は分からなかった。 尾道市は瀬戸内では有名な観光地なので近くの島の城跡には興味も予算付けも無く。 遺跡整備に熱心ではないようだ、遊歩道の整備も案内板も無かった。 この城訪問は断念した。





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 尾道よりの連絡船




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 百島案内板





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 備後茶臼山城





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 行き止まりの廃車。 ここより道があれば城跡にいけるのだが





    2022-1-2


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2022年01月01日

我がヨット巡航


  2022年 元旦

   あけましておめでとうございます。

     本年もよろしくお願いいたします。

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank055.html


 我がヨット人生はY15に始まり半世紀余りを過ぎました。 かすれ行く記憶をたどって巡航の記録をここに取り上げてみました。

 ヨット泊地は最近のものは、できるだけ詳しく取り上げたつもりです。個別のペ−ジをごらんください。参考になれば幸いです。


                        2022-1-1


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2021年12月30日

青陰城



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 2021年秋巡航で訪れた城(赤字)

 因島村上海賊は長崎城、余崎城、青木城、青陰城と居城を移した。 そのすべてを数回に渡って訪ねたが、今回でそれらを見ることができた。 青陰城以外はすべては、海沿いに建つ海城で近くの船隠しに襲撃船を置いて、いつでも目標に向けて出撃で来た。青陰城は山城でそれを持たない。ここは海賊の地位が確立したので、今までの城立地と違ったのであろう。 本丸から眺めると分かるのだが、近くの島々とその瀬戸がここからは見通せる。ここから出撃命令や発見報告を、狼煙を使用して指示したのであろう。

 本当にここからの眺めは絶景そのもので、これぞ瀬戸内という感じである。 日本のまた、個人的に眺めた絶景のベスト3に入ると確信が持てる。オススメポイントであります。
 


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 青陰城の案内標識、  所々にある。 左端の小屋が宝寿寺

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 一時置きした自転車

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 ここから登山口

 南北に2つの登山口があるようですが、北はメンテが悪いと言う情報があるので、小生が登った南ル−トが良いようです。 小生はレンタサイクルでいったのですが、登山口までズット登坂で自転車を押して登るハメになった。だが、帰りは「楽チン」そのものであったが。

 南ル−トとしては、田熊郵便局横の道を登って行く。 所々に日本遺産の案内標識が設置してある。地図では宝寿寺(小さな祠のようなもの)を目指していく。

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 分岐点


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 曲がり角には石垣が残っている


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 2の丸


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  本丸の石垣へ続く道


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  本丸


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  絶景、  写真のウデと機材が悪くてゴメン、 本物を見よ!


 村上水軍城(博物館)をかって訪ねた時に、「あれが青陰城よ」と教えていただいたが、今度は反対にそこ青陰城から博物館を見下ろすことが出来た。

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 博物館を本丸より見下ろす

   2021-12-14


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2021年12月12日

新高山城

信高山城・にいたかやまじょう

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 信高山城 


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 縄張り図  現在地表示はは匡真寺跡です


三原海の駅に5年ほど前に訪れた。その時は三原城を見た。 そこに移る前の小早川隆景が本拠にしていた今回は信高山城へ行く。

 三原駅からタクシ−に乗ったのだが、費用もかかるしJR本郷駅よりそれに乗っていけば十分であった。

 登山口には下記の写真のように登山中止勧告の掲示があった。 行けるところまで行くつもりでしばらく行くと、 崩落現場に着いた。

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  注意書き


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 通行止め現場

 沢に降りて工事パイプをつかんで現場を避けて続行した。 途中で2−3人の人とすれ違ったので同じ考えの人もいたようだ。 ただし雨が降っている時や翌日の地面が湿っている時にはこのような行動を、おすすめいたしません。

 そのまま登って行くと、番所跡や匡真寺跡にたどり着いた。

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 番所跡



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 匡真寺跡  小早川一族の菩提所があったが城廃止ともに移設した。

 ほどなく中丸跡に着く。右手に行くと本丸である。

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 中の丸(2の丸)

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 本丸

 本丸より一段高い詰め丸へ行く。 沼田川をはさんで以前の本拠・高山城がすぐ近くに見える。 ここはその城の副塁であったものを大きく改築した。

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 高山城、  今回は予定していたが、諦めて訪問できなかった

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 詰めの丸より見た沼田川

井戸廓の井戸を見て、中の丸に再び行き西の丸を訪ねて北の丸へは整備ができてないようなので断念して下山した。 

 城の規模も大きく大分整備されているので崩落個所が無ければ良い所だと思いました。

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 井戸跡

三原へ帰り西国街道沿う宗光寺山門を見た。新高山城から移築されたものという。


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 宗光寺山門




   2021-12-12

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2021年12月10日

丸谷城・丸屋城


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丸谷城・丸屋城は下蒲刈港にヨットで訪れた時、ガソリンスタンドへ軽油を買いに行く途中に偶然そこへの看板を目にした。

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 城への登り口は案内板がないのでわかりにくい。上の写真の道路標識のすぐ近くに下写真の登り口がある。

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 本丸への登り口

 ミカン畑に沿った細い坂道を登って行くと本丸・本廓へ着く。 そこには神社のような建物と石碑がある。

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 本丸,左端に石碑が写っている




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丸谷城 本丸

 縄張りは本丸から天神鼻に向かって段々と降下して廓があったようだが、今回は確認していない。 ここは公園になっているので、天神鼻まの岬の突端まで探索が必要でしょう。

 村上海賊が隆盛するまでの時期に、多賀谷氏がここを築城し、倉橋島にも城を持ちその両方でここの一帯を海賊として支配していた。 

 西風の強風の時にここへヨットで停泊したので、実感したのですが、風が強く吹き抜けても波立つこともなく、安全に係留できた。 昔も風待ち潮待ちの湊として利用されたことと思う。 また、海賊城には舟隠しが必要ですが、その良い施設となったことでしょう。


    2021-12-10


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2021年12月08日

下蒲刈




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 安芸灘とびしま海道図

 ここで「真珠の首飾り」と勝手に名前を付けて「とびしま海道」を取り上げています。 この道と本土に囲まれる海域は穏やかでセーリングにはもってこいの場所です。それでヨット乗りとして以前から安芸灘を注目していました。
 安浦海の駅は温泉もあり、ヨット泊地には良いところでしたが、公共の宿と思われるホテルが売却されたか営業を縮小した関係で海の駅は廃止された模様です。 従い近くのそれに代わる泊地を探していて、下蒲刈島を見つけて停泊しました。


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案内図

 ここを散歩していると日本では珍しい石畳の道に出会いました。 予想外に洗練され整備された観光地の三之瀬を見つけました。
 歴史的には鞆の浦、尾道、御手洗と江戸時代の帆船航路の湊として栄えたところでした。 己の勉強不足です。 福島正則は関ヶ原の後に広島の地を家康からもらったのですが、ここを重要視して長雁木の係留施設を造成し、その跡も残っている。また、朝鮮通信使の宿としても使われた。

 美術好きの人には美術館や関連施設もあります。 風情のある街並みがあるので、訪れてはいかがでしょう。


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 三之瀬案内図



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観瀾閣・かんらんかく、 満州で土木で財を成した人の別荘

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 丸木家住宅、 番所の役人の家という


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 3の瀬本陣跡


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 長雁木、  潮位が高いが階段状になっている


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 蒲刈大橋


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蘭東閣美術館



   ヨット泊地

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 停泊写真

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 赤丸 停泊位置、  青丸 停泊可能性のある位置

 東西の強風を防ぐ良い避難港だと思われます。 最近クル−ズ船が就航するようになったので、その日程をチェックしておく。それがポンツ-ンのどちらに着岸するか不明ですので。 今回は赤丸に着岸した。 青丸のポンツ−ンにも着岸可能だと思われる。

    2021-12-8

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2021年12月03日

内子町と卯之町



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 松山、伊予市、内子町、卯之町、長浜



 ヨットで停泊した伊予市より宇和島行きJR特急に乗り歴史的町並み保存地区のある内子町と卯之町を訪ねた。


   内子町


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   内子町 見どころ


 内子はろうそくの生産が盛んであった町である。江戸時代の藩政改革の特産品として知られている「ろうそく」であるが、特に内子産は世界でも知られていた。それゆえに町の資産家の有志が内子座を建て、現在までこの建物は残る。


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 内子座、  1916年に立てられた


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 内子座を舞台より撮影、   まだ現役の芝居小屋である


 八日市・護国の街並み保存地区には需要文化財 本芳我家住宅や木蝋資料館・上芳我邸など古い町並みが見られる。


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 需要文化財 本芳我家住宅(内最大の製蝋業者だった)と木村家住宅(手前の建物)  




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 旭館  映画館として使用された




     卯之町


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 案内図


 卯之町は北の大洲藩と南の宇和島藩を結ぶ街道の宿場として栄えた町である。 シーボルトの娘・楠本イネを養育した二宮敬作邸跡や高野長英をかくまった隠れ家などが残る。
予想よりもこじんまりとした街並みであった。 バレ-を習っているカワイイ少女に教えてもらい開明学校へ行く。明治15年に町民の寄付により建築された小学校があるが、外観を見ただけで拝観料を払ってまでの努力は省いた。




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 街並み


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 高野長英のかくれ家



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 開明学校



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 二宮敬作 住居跡


    2021-12-3


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2021年12月02日

伊予港

    

      

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 伊予港  赤丸 停泊地、  青丸 ポンツ−ン


 松山堀江から伊予港へ航行し、そこに停泊した。 予定泊地は上図の赤丸で商業岸壁である。 一応サイドアンカ−を打って岸壁に寄せた。 しかし、潮位が低く船より岸壁にはよじ登れない。小1時間待って通りすがりの人に頼んでロープをビットに固定してもらう。 強めの南西風が吹いていたが、構内はその影響無いようだ。北風系が吹いてもよさそうで、良い避難港にはなる模様。岸壁のカキ対策で大き目のフェンダ−が2個ばかり必要でしょう。 もし松山堀江海の駅へ行く予定でウネリの入るようなときには、ここのほうが良いのではないかと思う。伊予鉄道とJRが利用できるので意外と松山に行くのに便利でしょう。 ここから松山観光も考えられる。 松山にはヨット泊地として適当なものが無いので。

 ここより街並み保存地区の内子町と卯之町へ訪れた。  ここから、 伊予長浜に向かう予定でした、長浜は外港に係留するつもりなので、そこでの強風は避けたい、先行きの天候が悪化する模様でそこへの寄港をあきらめた。


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 青丸の予定泊地

 

 このボートは自衛隊の応援グル−プの支援船のようで、このポンツ−ンを管理している。 ここに連絡してここを利用する許可が得られれば最適なヨット泊地になりそうです。


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 赤丸  ヨット泊地


       2021-12-2



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花見山城と宅並城


        


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 堀江海の駅、宅並城、花見山城、葛龍屑城

 今治から中島を計画していたが、東寄りの風のため松山堀江海の駅に停泊した。 かってここから道後温泉や松山城を行ったことがある。 それゆえ、近場の城を散策することにした。


     花見山城

 花見山城はJR堀江駅より予讃線に沿って松山方面に歩き、堀江新池のほとりにある。
お城の立地は川とか岬の鼻とか防御を考慮して立てられている。花見山城の傍にある池は田畑の水不足解消のため19世紀に松山藩に願い出て作ったため池である。この城のためのものではない。川は城のためではあろうと思われるが名前は地図から読み取ることができないので不明である。

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 新池

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 登り口

 登り口を登っていくと本丸にあたるところに祇園神社がある。この南に2の丸、3の丸があったが、それらしいと思われるがはっきりしない。
河野氏が築いて九州ににげ再び取り戻したという。 村上海賊の一族が城主になったこともあるようです。

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 祇園神社


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 名称不明の川(権現川?)より花見山城を望む


      宅並城

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 宅並城


 JR堀江駅より一駅で光洋台駅に至る。 そこよりgoogle マップに導かれて宅並城をめざす。 えんえんと坂道を登り下図の青丸地点にたどりついたようだ。みかん畑で行き止まりであった。作業をしていた人に尋ねると、藪の崖を登れば城跡に行けなくはないけど無理でしょうと云われた。 その人に地図の反対側にある登山口まで軽トラで送って頂いた。 そこから山頂をめざした。
 たどりついても城らしい石垣や土塁を目にすることは無い。 城跡の名称の残る山登りをしただけである。 地元の親切な人々の援助は大変ありがたかった。


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城郭放浪記より   宅並城縄張り


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 半ばで休憩して写す。 中央奥の島は北条城・島

ここは北条城よりの狼煙を受けて松山へ狼煙で知らせる中継点であったと、同行の登山者の女性に教えられた。

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 山頂(201m)にある神社

 光洋台駅まで下ったが老人の気力・体力が衰えて葛龍屑城行きは断念した。 駅のホ−ムよりそこは見えていたのであるけれど。

     

  仁堀連絡船

 旧国鉄が呉線仁駅と予讃線堀江駅との鉄道連絡船を運航していた。この堀江海の駅は1982年に廃止されたこの航路のポンツ−ンを使用している。


       2021-12-2


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2021年11月30日

芸予要塞 小島・おしま

  

    


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 小島・芸予要塞と来島城


 来島へ行く連絡船・フェリ−は来島、小島、馬島へと行くことができる。 来島の他に小島へ寄ってみたのだが、事前に何も知らなかったにもかかわらず芸予要塞を目にするという大きな収穫を得た。 日露戦争に備えて本土防衛用沿岸要塞がそっくり残っているのだ。 旅順攻撃で日本軍が使用した28cm巨大砲砲撃の絵柄を憶えている人は多いでしょう。



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 連絡船・フェリ−から見た小島


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 案内図    芸予要塞 1902-1922


 北部、中部、南部と3つの砲台群があり、それぞれ兵員退去所や発電所がある。 中部には周囲を見渡せる観測所がありそこからの指示で間接射撃を行ったものと思われる。



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 28cm りゅう弾砲のレプリカ、  船着き場近く


船を降りるとすぐに南部砲台に至る。 そこには12cmカノン砲2門が置かれた。この砲座は海から見えない構造である。カノン砲は直接照準の火砲であるが、防御を重視して間接照準での敵艦攻撃をここでは計画したのであろうか。



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  南部砲台 カノン砲座 


 発電所跡がありさらに歩くと弾薬庫跡に至る。 弾薬庫は危険な場所ゆえ周りを崖で囲む地形にあった。



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 中部砲台跡 28cm榴弾砲 この砲座に2門設置


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 中部砲台    28cmりゅう弾砲6門を設置


 ここの2門の28cmりゅう弾砲は203高地の砲撃のために移動され活躍したという。


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 指令所跡  ここで海峡を監視観測して28cm砲へ砲撃を指令する



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 北部砲台

北部砲台には24cmと9cmカノン砲がそれぞれ4門あった。  要塞廃止が決まった後で空爆演習がここで行われた。


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 空爆跡



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 24cm カノン砲

 ここより下に降り海岸沿いの道を船着き場まで帰った。


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 来島海峡中水道を左に眺めながら歩く


 なお、芸予要塞は三原の瀬戸を望む大久野島(うさぎ島)にも対にあたる大久野島要塞があった。

 ロシアの恐怖におびえた明治の指導者は、海軍を育て海岸要塞を築いて対処して、最後には勝利した。 今にも中国が台湾に侵攻しようとしている事態の令和の現指導者はそれに対応すべき何かをしているのであろうか? 日本は30年の大停滞を過ごしたとはいえ、今の日本の経済力は明治のそれとは比べるまでもなく大きくて良いはずだ。いいお湯だと気持ちよくなっているうちにその湯は熱湯へと変わるでしょう、裸でフロから飛び出しても遅い。

 ソ連の中距離核ミサイルの配備に対して、ドイツは米国の中距離核ミサイルを配備すことで対処した。日本はそこまでのことをしなくてもよい。9条の改正を待たなくても良い。 日本は対艦ミサイルや機雷の大量保有で中国に攻められない抑止力を持つことができるのではないでしょうか? 

 芸予要塞を見て、明治の・維新の指導者に思いを寄せる小生には、このような想起をすることを身の丈を越えるものと言えるであろう。


     2021-12-1


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2021年11月29日

来島城


     

     


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 来島海峡の各水道(青字)と来島城、芸予要塞

 来島海峡をヨットで西航するときには今治に停泊し潮流を待って航行する。 本船航路の中・西水道は避けて来島の西にある勝手にヨット推薦水道と名称した水道を小生は航行している。

 村上海賊に強い興味を持っている私としてすでに鹿島城を訪ねているので、念願の来島城へ行きました。

 今治海の駅にある第2桟橋近くのバス停より「渡し場」経由のバス便に乗りそこで降り、波止浜港(観光休憩所)から連絡船に乗船します。10分ほどで来島へ到着です。


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 波止浜にある連絡船乗り場(切符は観光休憩所)の燈明台


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 連絡船から見た来島城

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   案内図


 連絡船を下船して右手報告に数分歩くと、左に上る入り口があります。すぐに石垣が見える。

 
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 来島城入り口


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  2の丸付近の石垣

 そのまま行くと突き当りになり居館跡・心月庵、わかりにくいけれど3の丸へ上がる左の道を往きます。
来島神社、2の丸、本丸へと至る。

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  来島神社

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 2の丸

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本丸跡、  鉄塔がある




  来島 ヨット泊地

ヨットでは行けなかったが、下写真の場所につけられそうである。 フェリ−は連絡船乗場の水道に面している側しか着桟できない。潮流が渦巻いており潮時間と連絡船の空き時間を知っておかないとヨットでそこにつけるのは無理でしょう。 下の漁船の前なら島見学に要する2−3時間なら可能かと思われる。

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 停泊位置


  鹿島城と得居通幸
 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-26


     2021-11-29


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2021年11月27日

佐柳島・さなぎしま

  



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 案内板  人口は2部落で60人という


 佐柳島は長崎港の係留に失敗したので多度津に泊まり、翌日に連絡船でここを訪ねた。 長崎から本浦までは徒歩20分くらいの距離です。 歩いてそこへ行き、帰りの船便を得た。


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 本浦で連絡船を待つ間に足元から離れない子猫


 塩飽諸島に残っている両墓制のお墓近くにもニャ−と呼び掛けてくる猫がいる、島のあちこちで人慣れした猫を多く見かけた。愛猫家には有名な島とのこと。 

 海援隊士であり、いろは丸の紀州藩船との衝突の際には当直仕官であったという佐柳浩高次(さなぎこうじ)はこの地にも長崎集落があるが「出島の長崎」で死亡したけれど、この地元にお墓がある。そこを訪ねた。



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 中央が佐柳高次の墓  前田が本名である

 



  佐柳島 ヨット泊地


 予定していた長崎港の岸壁には階段横から直角にチェ−ンが飛び出していて着岸不可であった。
港も狭く連絡船の反対側も利用できないので、ここより本浦港が停泊には良いように思う。ただし本浦港近くの海域は浅いところがあり、十分な注意が必要である。


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 佐柳島  長崎港入り口
 


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 長崎港  青丸は失敗した岸壁


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 長崎港  チェ-ンの飛び出し



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 本浦港   赤丸は停泊地



    2021-11-27


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2021年11月25日

小手島と高見島


  
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 塩飽諸島


 手島を出港して小手島に立ち寄り佐柳島の長崎で1泊するつもりであった。佐柳島北部にある長崎の港へ入ると予想以上に狭く、予定岸壁に行く、そこからチェ−ンが張り出していて着岸不可能。 発見が遅れると船首をぶつけるところでした。佐柳島の停泊をあきらめ高見島へ向かう。 そこでは連絡船の着桟側の向かい側の利用していない側にヨットを着けた。2時間ほど見学して多度津海の駅に向かい停泊した。 ちなみに、手島、小手島、広島、本島は丸亀から連絡船・フェリ−が来る。 佐柳島、高見島は多度津からそれは来る。


  小手島・おてしま


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 小手島

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 案内図       19所帯33人が住む

 明治のころまで無人島だったが手島、北木島、真鍋島より移住者が来る。親の手島よりも賑わいを感じる。 漁業が手島と違い今でも盛んなようだ。手島よりも小さいにも関わらず人口が多い。
少しの間小手島を見て回ったけれど、帰ってから印象が薄くあまり思い出せない。

  
  小手島ヨット泊地

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 赤丸が停泊地  短時間限定の模様

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  連絡船ポンツ−ンの反対側



   高見島  

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 高見島案内板、  人口は27人という

 高見島は船乗りには備讃瀬戸北航路と南航路に挟まれた島にあり、その島の北を西航し南を東航することから見慣れた馴染みのある島である。でも、訪れた人は少ない。咸臨丸の4人の船員を出した島でもある。 そのお墓があるということで大聖寺へ向かった。しかし、案内板が無くみつけることはできなかった。


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 大聖寺の門にある力士の木像


  竜王山が岸まで迫り平坦地が少ないので山の斜面に沿って家を建てて住む。 塩飽諸島に立ち寄って知ったのですが、両墓制というお墓の制度が残っており、埋葬するところとお参りするところが別になっている制度のようです。 日本古来の様式だという。 

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 両墓制のお墓

 寅さんお映画をテレビで連続して放送している時に、覚えのある映画で題名は忘れました。下の写真の映画です。そのスト−リ−は、引退した船長のところに、港々に女ありというような設定で生まれた娘が病気になりそこで静養をしていた。寅さんが家出したさくらの息子を探しにこの島へ来て彼女に出会う、いつものようにラブコメデイが始まりそして終わる。 この島を訪れてみて船乗り出身者を多く出した島のようには思えなかったが、歴史的にはあり得る設定である。 船乗り稼業に染まったことにある小生にはおもしろかった。

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 寅さんのロケ地となった高見島


 米国で成功した人が故郷に錦を飾った、石垣のすばらしい家が残る。

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 中塚邸  


    高見島  ヨット泊地

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 赤丸は停泊場所

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  泊まることもできそうである


 連絡船は正面を利用するので左右両サイドが利用可能だが沖から見て右側は堤防に近く避けて方が良いように思われる。

     2021-11-25


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2021年11月23日

手島・てしま


     

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 手島を望む

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 手島は15所帯(人口20人)の島です。 一度訪れたくて昨年ヨットで港の停泊場所の事前視察をしています。 江戸時代に人名制で特別な自治制度を認められた塩飽諸島のひとつであり、google マップで見つけた手島城に行ってみたくて今回のクル−ズで訪れてみました。


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 高札場・制札場

 本島にある塩飽勤番所からお触れが出てここに貼られて人名制の手島住民に知らされた。


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 海岸から2つ目の山が城山・手島城跡

 手島城をめざした。 蛇が出る情報があり、事前に長めの長靴を用意して出かけた。 地元の仕掛け猟をしている人に尋ねてみたが、行ったことはなさそうであった。その人によるとエビ対策でキジを放ってあるとのことであった。 そのせいかキジの飛び立つのは見かけたが、幸いにも蛇に出会うことはなかった。 結局、案内板もなかったこともあり城跡にはたどり着けなかった。


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 この石垣は廃墟になった民家のものかもしれない



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  ヨットのつけたポンツ−ンでの撮影風景

 丸亀から来た連絡船でシンガ−ソングライタ−の女性の生歌を聞く機会があった。島内のあちこちで撮影しているのを目にする。カン高いかすれたかよわい声が島内に響いた。

  手島  ヨット泊地



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 手島 ヨット泊地  赤丸係留    青丸 最初の位置


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 最初にもやった位置

 ヨットの停泊場所は先に想定していた場所はフェリ−の着く横であったが、スペ−スが短かったので不適。 写真のように防波堤へもやったがここも3m余りの潮汐には不適。そこで連絡船のキップを売っているおばあちゃんに許可をもらい、ポンツ−ンの反対側に移動して着けた。


         2021-11-23

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2021年11月21日

2021年 秋のクル−ズ


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  今年の巡航は10月28日から児島を出て11月17日に帰港するまで3週間の期間で、瀬戸内中部を楽しんできました。 今度は連れ合いは同行することなく、シングルハンドです。

  周航前のプラン

1. 塩飽諸島の手島、佐柳島、高見島を訪ねて、小名政の跡がないのか、また、龍馬の「いろは丸」が鞆の浦近くで沈没した、その時の当直仕官であり海援隊士でもあった佐柳高次(さなぎたかじ)の生まれた島の佐柳島を訪ねること。
2. 伊予と長浜に寄港して歴史的保存の街並みがある内子町と卯之町を、そこから鉄道で訪ねること。
3. 村上海賊のひとつ来島海賊の本拠地にある来島城、因島村上氏の本拠地青陰城とその主要な周辺城を訪ねること。
4. 斉島、青島、中島、津和地島、平郡島、柱島などを訪ねること。

 今までに瀬戸内周航で行けば良かったと思いを残して、落穂拾いのような企画をしてみました。


  実行した航海

10/28  児島から手島へ、   手島城を探す。  手島泊
10/29  手島から小手島を2時間立ち寄り佐柳島へ、長崎港が狭く停泊できずに高見島寄港、2時間ほど散策して多度津港へ。     多度津泊
10/30  連絡船にて佐柳島訪問、   多度津泊
10/31  多度津から仁尾マリ−ナへ。 仁尾泊
11/1  仁尾から今治へ。  今治泊
11/2  連絡船で来島へ、来島城訪問。さらに小島へ、芸予要塞を訪れる。  今治泊
11/3  今治から松山堀江へ。 堀江泊
11/4  花見山城と宅並城をたずねる。葛龍屑城は断念した。 堀江泊
11/5  堀江から伊予港へ。 伊予泊
11/6  JR予讃線で内子町と卯之町へ。 2つの歴史的保存街並みを見る。 伊予泊
11/7  伊予から上関へ。 北東風で時化る。  上関泊
11/8  上関から五日市メ−プルマリ−ナへ。 メープル泊
11/9  なつかしの旧港廿日市を訪ねる。  メ−プル伯
11/10  メ−プルから下蒲刈島へ。 三番瀬の町を見学と丸谷城を見る。 下蒲刈泊
11/11  下蒲刈から三原へ。 三原泊
11/12  新高山城へ、 高山城は断念した。  三原泊
11/13  三原から弓削へ。  青陰城を見学  弓削泊
11/14  尾道へ因島からバスで行く。 連絡船で百島へ。 備後茶臼山城へ。 尾道に帰ってレンタサイクルで向島の余崎城と岡島城へ    弓削泊
11/15  因島からバスで瀬戸田へ。 俵崎城と茶臼山城を訪れる。 因島・馬神城を訪ねた。  弓削泊
11/16  弓削泊
11/17  弓削から児島へ。 秋巡行を終える。

 伊予まで来て天候が悪化の予報が出る。 長浜へ行く予定を取りやめて。内子町と卯之町の見学を1日にまとめた。
 予報よりも早く天候が悪くなり北東風が強い中で上関へ向かう。ヨットを老年にして手に入れて以来の久しぶりの時化であった。

 面白いことに、海で遭難することも無く山で遭難しかけた。 生口島の村上水軍ゆかりの茶臼山城で頂上近くへ行く道が無くなっていたので、一番高いところをめざしてそこには到達した。 帰りは道に迷い来た道に帰れず、遭難しかけた。 ひたすらに下へ向かう平坦な道を探し続けて、無事、事なきを得たが、暴走老人のご迷惑を世間にかけるところであった。 他にもヒヤリハットする場面は3度ほどあった。

 まあ、楽しく満足してクル−ズを終えた。今年の前半はコロナで大人しくせざる負えなかった。 ところで、小生の年になると、老人のロシアンル−レットはいつ来るか分からない、小生はその年ごろに突入した気がしています。


     2021-11-21



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2021年10月05日

Mille regretz「千々の悲しみ」



        ジョスカン・デ・プレ Josquin des Prez

  
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 20代の時にバロック音楽の時間というNHK FM放送番組のなかで、亡き皆川達夫さんがジョスカン。デ・プレのMille regretz千々の悲しみ」の曲を「皇帝の歌」とも呼ばれるこの曲は豊臣秀吉(織田信長あるいは大友宗麟)の前で演奏されたのではないかと話されていたのを憶えています。

 皆川さんは宣教師が連れてきた演奏者か弾いたにかと憶えていますが、歴史的に天正の少年使節が帰国して聚楽第において秀吉の前で演奏したのがこの曲ではないかともいわれています。

 今でも時々耳にします。いろいろな演奏形態で行われています。 メランコリックなメロデイが心に差し込みます。

 

  Mille regretz - Hilliard

 https://www.youtube.com/watch?v=107gP2moTKM  2分」

  Bruce Dickey, Cornettoコルネット and Hanneke van Proosdij, organ

 https://www.youtube.com/watch?v=QYruB57dJ60  7分  いいね

  Emma-Lisa Roux, voice and luteリュ−ト

 https://www.youtube.com/watch?v=sHmvyCgcAwk  2分

  Vox Luminis LIVE

 https://www.youtube.com/watch?v=8kCKsOT_gno  3分

 PROFETI DELLA QUINTA

 https://www.youtube.com/watch?v=dkfVzCZ68_Q  2分

 Musica Antiqua of London

 https://www.youtube.com/watch?v=ynWxgBcBneM  3分  楽譜付き


      2021-10-5


ジョスカン・デ・プレ
 http://hayame2.sakura.ne.jp/details1035.html
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2021年10月02日

映画 総理の夫





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 コロナ緊急事態明け、また、自民党総裁選明けのこのタイムリ−な時期に「映画・総理の夫」を見て來ました。 また、高市早苗さんの本も出販され10万冊以上も売れたという。個人的に推してきた高市首相は実現されませんでした。 彼女はたとえ日本最初の首相になったとしても、シングルゆえにこの映画のような“ファーストジェントルマン”は実現しないでしょう。



 小生の時代では、妻の稼ぎがより大きい夫は「サッチャ−ズハスバンド」といわれ存在感の無い目立たない男の役割であった。 この映画では、それと異なり夫婦愛のりっぱな形のひとつとして愛情物語りのスト−リ−と描かれている。 見ている途中で二人は離婚していくのではないかの懸念が生じたが、そうではなかった。



 また、この作品は漫画の実写化された映画のひとつであるが、その描かれた政治状況がさもありなんと思わされるものであり、想像される夫婦の生活も実在感がある。ゆえにシナリオも優れたものだ。 主演の中谷さんはオーストリア人のビオラ奏者と結婚されている。この映画では、いかにも凛とした女性政治家を演じられており、やっぱりこのような稀有な成熟した女性は欧州人に獲られてしまうのかと、日本男子としては残念至極である。



 高市さんに話は戻るが、彼女は政治家の山本さんと離婚していて独身である。 それでも元夫は今回の総裁選挙の熱心な応援団の一人です。 離婚しても彼女は夫の地元へ来た場合には山本さんの元義母のお墓へ立ち寄るという稀有な関係を築いているという。 離婚した夫とは親権で争ったり、養育費を送ってこなかったりで良い関係を築いている話は珍しい。 この映画のように夫婦で新しい関係を築けたり、高市さんのような元夫と良い関係が築けるような女性首相が誕生してほしいものです。





      2021-10-2




  高市早苗、 自民党総裁選挙
http://hayame.net/custom10.html#spb-bookmark-763
  http://hayame.sblo.jp/article/189008960.html 

posted by 速魚 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記