2024年11月22日

中島・忽那島 バス一周


 中島・忽那島に停泊中に、北東風の強風に見舞われた。台風以外にフェリーが欠航することが少ないと云う日になった。 レンタサイクルで出かける日でもない。 そこで、島を一周している路線バスにて見て回ることにした。

 大浦港と西中港は島を横断することになるトンネルで結ばれている。 前回訪問した時にはそこを抜け、自転車を借りてトンネル以南を走破した。今回は、トンネル以北の北半分を廻るバス路線があるので乗車した。 その後神浦(かんのうら)にある忽那公碑を見に南回りの路線に乗った。

  中島には大浦港、神浦港、西中港へ連絡船が入出港する時刻ごとに合わせて連絡バスが運行している。東西航路のどちらかが天気の関係で運休しても、バス利用して中島の島民は松山へは行けるようだ。今日は東航路は運休で、西航路は走っていた。

 

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忽那諸島 中島汽船航路図、 赤線は東航路、青線は西航路、 フェリーと高速船が就航



  北回りコ−スでは途中でバスが停止して運転手さんが降りて倒木を取り除く珍しい場面に出くわした。 周辺の民家も少なく住民重視の福祉路線のようだ。 私一人が乗客である。



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  運転手が降りたシ−ン、  



  南回りコースは神浦(かんのうら)で下車して忽那公碑を見る。 南北朝時代に活躍し忽那水軍の黄金期を支えた忽那義範が、南朝方の懐良(かねなが)親王を北朝の足利方からお守りしたことを称えている。忽那諸島を今回に巡ったけれど忽那水軍・海賊を記念したものはこれひとつだったような気がする。懐良親王がどこに住んだのかも分からなかった。

  忽那義範は鎌倉時代後期から南北朝の時代の忽那諸島を本拠とした水軍の武将。南北期は宮方に属した。南朝の懐良親王をこの島に1339年から3年間保護した。軍功により柱島や備後の灰田郷の地頭職、周防国長野郷地頭職を安堵される。晩年は、足利尊氏との対立により宮方に転じた足利直冬と連携し活躍した



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 忽那義範公表忠碑、  瀧神社内


      2024-11-22


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中島・忽那島 バス一周

   

 中島・忽那島に停泊中に、北東風の強風に見舞われた。台風以外にフェリーが欠航することが少ないと云う日になった。 レンタサイクルで出かける日でもない。 そこで、島を一周している路線バスにて見て回ることにした。

 大浦港と西中港は島を横断することになるトンネルで結ばれている。 前回訪問した時にはそこを抜け、自転車を借りてトンネル以南を走破した。今回は、トンネル以北の北半分を廻るバス路線があるので乗車した。 その後神浦(かんのうら)にある忽那公碑を見に南回りの路線に乗った。

  中島には大浦港、神浦港、西中港へ連絡船が入出港する時刻ごとに合わせて連絡バスが運行している。東西航路のどちらかが天気の関係で運休しても、バス利用して中島の島民は松山へは行けるようだ。今日は東航路は運休で、西航路は走っていた。

 

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忽那諸島 中島汽船航路図、 赤線は東航路、青線は西航路、 フェリーと高速船が就航



  北回りコ−スでは途中でバスが停止して運転手さんが降りて倒木を取り除く珍しい場面に出くわした。 周辺の民家も少なく住民重視の福祉路線のようだ。 私一人が乗客である。



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  運転手が降りたシ−ン、  



  南回りコースは神浦(かんのうら)で下車して忽那公碑を見る。 南北朝時代に活躍し忽那水軍の黄金期を支えた忽那義範が、南朝方の懐良(かねなが)親王を北朝の足利方からお守りしたことを称えている。忽那諸島を今回に巡ったけれど忽那水軍・海賊を記念したものはこれひとつだったような気がする。懐良親王がどこに住んだのかも分からなかった。

  忽那義範は鎌倉時代後期から南北朝の時代の忽那諸島を本拠とした水軍の武将。南北期は宮方に属した。南朝の懐良親王をこの島に1339年から3年間保護した。軍功により柱島や備後の灰田郷の地頭職、周防国長野郷地頭職を安堵される。晩年は、足利尊氏との対立により宮方に転じた足利直冬と連携し活躍した



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 忽那義範公表忠碑、  瀧神社内


      2024-11-22


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2024年11月20日

下蒲刈 ヨット泊地 再考察





 ヨットマンの聖地と云われていた弓削海の駅は最近は上関にその地位を譲りつつある。 その中間に下蒲刈がある。40マイル近くのの距離でどちらへもちょうどよい泊地となる。

 瀬戸内の風は強い時には季節により東西の風が続いて吹く。 11月前後には北東の風が主風となるようだ。 その状況によりA,B,Cの3つの泊地が考えられる。



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  A,B,Cの下蒲刈泊地



A, 丸谷  クルーズ船用ポンツーン

 西風強い時には適。 金土日月の午前中には写真左側に「島たびクルーズ船」が寄港する。 午後に着き朝早く出るのならどこに着けても問題ないようだ。 買い物と給油には不便である。

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 丸谷ポンツーン

  ここのポンツーンが利用できない時にはすぐ近くの大型作業船が着けている漁船用ポンツーンの下図青丸の一部に空があるようだ。



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 赤丸は停泊地、青丸は候補地、Xは不適泊地



B,  見戸代 旧連絡船ポンツーン

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 赤丸 停泊地

 西風が強い時には適。 すぐバス亭があるので呉に行くのには便利。



C,  向・ 上蒲刈島


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  赤丸は停泊地、 ポンツーンの両サイドは作業船がそれぞれ利用している

 東、北東風の強い時には適。 小さな食料品店がある。弁当くらいは買える。



    2024-11-20



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2024年11月18日

泰ノ山城  再訪

 
  泰ノ山城 

 文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。  南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。

 今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。



    泰ノ山城、 再訪



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  泰ノ山城 周辺図


 前回からの書き足しで、文治5年(1189年)に忽那氏5代の兼平が築城し、天正13年(1585年)、小早川軍の攻略までの約400年間、忽那水軍の拠城であった。

 1日200円のレンタサイクルで途中の長善寺で自転車を置き、そこから徒歩30分の登り路を行く。泰ノ山山頂から南西に下ったところが城跡のようだ。 ミカン畑といっても傾斜地でこのあたり全ては栽培地になっていた。


 

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 案内板


 腰曲輪と井戸と城壁の石垣があるというけれど、見つけることができなかった。南北に望めば倉橋島や大浦湾が見通すことが出来て船の通航監視にはふさわしい場所である。



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  長善寺




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  大浦を望む

 

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 倉橋島方面を望む



        2024-11-18


 
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2024年11月16日

音戸の早瀬瀬戸 と 女猫の瀬戸

  音戸の早瀬 と 女猫の瀬戸



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  倉橋島海の駅から下蒲刈へ



  倉橋島海の駅より次の寄港地下蒲刈へ行くには2つの航路が考えられた。

1. 鹿島大橋を抜けて蒲刈大橋を通航していく航路

  距離は最短である。 北東の風の時には風力強く、上りになり厳しい

2. 音戸の早瀬を抜け音戸の瀬戸を通峡して安芸灘大橋(女猫の瀬戸)を航行する航路

  距離長く、狭水道航法になる

 秋のこの時期は季節の変わり目で北東風が継続して強い時期である。そのため倉橋島では3泊して天候の回復を待った。慎重を規して早瀬の航路を選択した。


   早瀬の瀬戸

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 早瀬大橋  橋高36m

 江田島と倉橋島に架かる早瀬大橋は呉からの軍艦の航行が考慮されているので高さはある。 早瀬の瀬戸の航行は倉橋島側に接近しすぎてヒヤリとした。 



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 早瀬の瀬戸  倉橋島側に浅いところがある





 音戸の瀬戸ではいつものことであるが松山からの高速船に水路の中央で出会う。小型船どうしなので左舷対左舷でかわした。


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  音戸の瀬戸





   女猫の瀬戸


 今回は下蒲刈の真近の女猫の瀬戸で難儀をした。下図の黄色の航路で見られるように下蒲刈側に寄って安芸灘大橋を抜ける寸前まで航ったが速度ゼロになり進まず。 大きく落とされて本土側を目指して針路をとった。反流をつかんだのか進み始めて下蒲刈港に入港することができた。 何度もここを通航したがこんな目にあったことはない。 最強時の反流にあったのであろうか。気をつけなければなるまい。



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  安芸灘大橋


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 女猫の瀬戸


    2024-11-16


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2024年11月14日

熊山遺跡 と 楯築遺跡

 
熊山遺跡



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 熊山遺跡の周辺地図



 熊山遺跡には山陽本線の熊山駅で下車して、タクシーにて訪れた。 車の中から途中の山道を眺めると、老体にはその道を登るのは無理だと感じられ乗ってきたのは正解であったと思われる。 この遺跡を訪ねるには徒歩なら1日を用意しなければならないであろう。



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  熊山遺跡



 上写真のようなマヤ・インカの遺跡を思い起こさせるピラミッド形式である。 付近に30余もこれらがあるというが見ていない。

奈良時代の仏教遺跡であろうと云われているが、まだ謎である。 方形の竪穴の中には、古墳によく見られる円筒埴輪のような陶製筒形容器(とうせいつつがたようき)と奈良三彩小壺(ならさんさいこつぼ)が納められていた。陶製筒形容器は奈良県天理参考館に収蔵されており、奈良三彩小壺は現在失われています。

 

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 陶製筒形容器  天理大学保管






   楯築遺跡 ・たてつきいせき

 

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 楯築遺跡の周辺地図



 JR山陽線の庭瀬駅で下車、タクシーにて楯築遺跡にむかう。途中に王墓山古墳をチラ見してたどり着いた。 帰りはタクシーを呼び吉備津神社まで行き、徒歩てJR吉備津駅から帰還した。


 
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 2世紀頃の卑弥呼の時代の墳丘墓です。円丘部とその両側に長方形の突出部をもつ特異な形をししており、ストーンヘンジのように巨石が立っています。このストーンサークルは、伝説の上では、温羅(鬼)の射た矢を防ぐ「楯」を「築」いたものと伝えられていますが、墳丘を築いた際に、何らかの祭祀を行う場として作られた説が有力なようです。



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 復元想定図

  上図のように円丘部の上下に長丘部があるが、宅地開発と給水塔の工事で失われている。 現在は給水塔の撤去工事が行われている。

 

 当時には高価な水銀朱が発掘されたところから、相当高貴な方の墳墓だと思われる。 卑弥呼の時代の当地・吉備国は大いに発展していたことがうかがえる。

 すぐ横に宝物館があり、窓から暗いながらも亀石を覗き込むことがでる。




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 発掘風景  赤い水銀朱



     https://www.youtube.com/watch?v=j-gSSr5JdiQ  10分



 徳島で見た日本最古の古墳と云われる萩原2号墳の形状とよく似ている。

 

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 萩原2号墳

https://hayame.net/custom45.html#spb-bookmark-1190


    2024-11-14


 
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2024年11月12日

忽那山城・くつなやまじょう

   忽那山城・くつなやまじよう、 銜山くつわやま城・轡山くつわやま城


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  忽那山城の周辺地図

 

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  田能村竹田三津浜図  1834年  忽那水軍史より転載



中島よりフェリーに乗り三津浜で下船。 タ−ミナルより南へ海岸沿いを歩く。 岸壁の倉庫、オイルタンクや工場を過ぎると小山のようなものが海に突き出ている、往々にして岬の端にそれがあれば城・砦跡であるのであるが、まさにそのとうりで忽那山城跡であった。 その周りを廻ったけれど案内板も登り口も見つからなかった。 衛生センターが大きく囲んでいる状況で見つけにくいわけである。


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  忽那山城、 50mほどの高さである、 



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 登り口と思われるところ


 第11代忽那重勝が1346年頃にこの地域を得て、忽那山城・砦を築いた。ここで九州関係の船の出入りを掌握した。

この城は元は島であった。この城の築城と共に北吉田の「大濱新田」が忽那一族のもとで開発された。その後松山藩により、戦中はあのB29と激闘した松山航空隊の基地として、戦後は工場用地として開発されてきた。


      2024-11-12


  
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2024年11月10日

2024年 秋巡航  忽那諸島



 

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 その1  児島から中島



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 その2  忽那諸島

 

 今度の巡航は忽那海賊のゆかりの島々を訪ねることであった。松山市に中島町は合併したことから、市の教育委員会や観光局は忽那海賊を取り上げる意向が薄れてしまったようだ。 現地の島々には案内の立て札は存在しない。 それゆえに現地へ行くには、余ほど十分な下調べが必要ということになる。

 10月30日に船検があるということで9月25日に小生はマリ−ナ入りを果たしたが、受検の日程が1週間延期されてしまった。 例年なら台風の本土上陸が止む10月半ばごろからクルーズの計画を立て、 実行していたけれど、今回は船検の統合で早めに児島へ来た。 今年は夏の猛暑を引きずっていた来訪日であったので出港する日までクソ暑さに参った。 クル−ズを終えて11月初めの帰港日まで、北東の強風に悩まされてヨットで訪問するはずの島々の泊地の情報が不確かなため、忽那諸島にはフェリーや高速船を利用することが多くなった。 この時期の天候は季節の変わりに目あたり悪天候が続いた。低気圧接近して雨の日のほうがヨットにはむしろ良かった、その後高気圧が張り出してくるとその周辺の強風が続き悩まされることになる。かって伊予灘の北東風の時化にエライ目にあった覚えがある。

 泊地情報は足で稼いできたつもりであるので、この後ここでご報告申し上げられるであろう。

 30歳までの47年前に、フェリ−の乗組員をしていた。休暇で下船した後にその2000トンのフェリーが衝突して沈没した。上司とお客さんが亡くなられた。 誤解していたその位置も判明してお花とお酒を海難慰霊碑に捧げることができたのは、最大の幸運であった。



  巡航日程

9−25  児島到着

9-26  船検備品購入に岡山マリンへ、 火薬類は購入できず

9-30  下津井船具屋にて 小型船用火せん註文

10-1  鷲羽山 展望台へ行く

10-2  セールカバー縫い

10-3  ヤンマー部品注文

10-4  火せん 受け取り

10-7  JCI  定期検査 沿岸小型合格

10-8  検査合格書類を受け取りに岡山JCIへ

10-9  機関ストップワイヤ−交換

10-11 機関ミキシングエルボ交換

10-12  熊山遺跡、吉備津神社、王墓山古墳、楯築遺跡らを見学

10-14  児島より弓削海の駅、

10-15  弓削泊、 潜水して船底カキ落とし

10-16  弓削より下蒲刈へ、 下蒲刈泊

10-17  下蒲刈より中島へ、 中島泊

10-18  中島泊、 泰ノ山城、長善寺、黒岩城、

10-19  中島泊、 フェリーにて松山三津浜へ、道後温泉、忽那山城へ

10-20  中島泊、 風速20mにてフェリ−欠航、 島内バスにて島一周、忽那公碑

10-21  中島泊、 フェリ-にて睦月島へ、梅の子城、梅の子砦、高速船にて野忽那島へ里山へ

10-22  中島より松山三津浜商業港へ、  松山商業港泊

10-23  松山商業港泊  フェリーと高速船にて二神島と津和知島へ、釣島にてフェリーが岸壁衝突事故で頭部と肩に打ち身、  

10-24  松山商業港より再度中島へ、 途中に釣島入港、 中島泊、

10-25  中島泊、 高速船にて松山高浜へ、興居島へフェリ−にて渡る、道後温泉で入浴

10-26  中島泊、 怒和島の元怒和と上怒和にフェリーと高速船で行く

10-27  中島より情島へ、 ふたば海難慰霊碑へ、情島より柱島へ、柱島より倉橋島海の駅へ、 倉橋島泊

10-28  倉橋島泊、 宮の口の街並み,室尾の街並み

10-29  倉橋島泊、  バスにて呉行き、 呉湾内クルーズ乗船

10-30  倉橋島から音戸早瀬、音戸の瀬戸と女猫の瀬戸経由で下蒲刈へ、  下蒲刈泊

10-31  下蒲刈泊、  蘭島閣各美術館

11-1  下蒲刈から弓削へ、 弓削泊

11-2  弓削泊、 インランド温泉入浴

11-3  弓削から児島へ

11-4  児島泊、 バックスエイアジャスターロ−プ交換

11-5  児島泊、 大型俵フェンダー製作

11-6  児島泊、  機関冷却サーモスタットとゴムホ−ス交換

11-8  わが家へ帰還





      2024-11-10








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2024年09月25日

国内最大級の集落群、デーノタメ遺跡の謎!




   https://www.youtube.com/watch?v=xuo4kMYXKs8



 JR高崎線 北本駅より徒歩20分、北本団地行きバスにて団地東まで5分下車、徒歩1分。

 北本は高崎線で上野から高崎に行くまでの間に、路線の車窓景色が唯一とも云う、珍しく線路両側に樹が立っていて、その間を走っていく風情が眺められる。  首都圏から50km圏ゆえに住宅開発がバブルの時に1駅までの桶川で終息した。それゆえに住宅地造成か遅れて、武蔵野台地に雑木林が残った。 開発途中の区画整理地の道路計画でここが発見された。



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 北本周辺図

 デーノタメ遺跡はこの秋に国指定の遺跡になる。縄文中期から後期の1200年間以上に渡って営まれた環濠集落である。 関東最大級のものとなる。100年に1度の発見と云われている。 遺跡と云えば貝殻や魚の骨であるが、それらは見つかっておらず、どんぐり・栗・クルミやヒスイ製品、表面や内部に大豆・小豆を埋め込んだ土器、ニワトコやコウゾの粒、ヒメコガネの死骸などが発見されている。住人が、食糧確保などに便利なように森林の植生(くるみの人工林)を改変するなどして暮らしていたことが推測されている。



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  遺跡全体図



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  発掘風景




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 後期前葉集落跡




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  低湿地跡



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 中期後葉集落跡


 5−6年前のここを遺跡と知らぬ時に散歩したことが有る。 雑草が枯れた時期であったのであろうこの遺跡の中央部分には開けたところがあった。 そのつもりで今回はヤブの中に分け入った。 1m位の雑草が繁樹していてとんでもないヤブ漕ぎになってしまった。半ズボンであったので下肢は傷だらけになってしまう。 まもなく国指定され予算がついて来年度以降には公園整備されるであろうことから、中へ入るのは、しばらくお待ちになったほうが良いでしょう。

 
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  大量の雑草   



      2024-9-23


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2024年09月21日

平田篤胤 、  日本のレオナルド・ダヴィンチ



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 1776-1843




  幕末の歴史好きの小生はここで「松尾多勢子」をとりあげています。信州の伊那谷に平田篤胤の信者が6割も占めたと云う。また、篤胤は彼女のような52歳(当時は今と違い大老人)が京に出て志士活動をさせるほどの大きな力を与えた。 幕末の志士は平田篤胤の大きな影響を受けている。

 

  まだ、小生は彼の著書を読んでいないので、ここに何かを書くレベルではないけれど、ファーストインプレションでも述べたいと思います。

篤胤は佐竹の秋田藩の大和田家の4男とし生まれる。

20歳にして江戸に出奔する。肉体労働をして苦学する。

25歳で備中松山藩士の平田家の養子となる。

26歳で綾瀬と出会い結婚する。本居宣長の没後にその著作を読み国学に目覚める。私塾を開き門人が3人から555人になる。

1812年・37歳の時に愛した妻を亡くす。会いたいゆえに霊界研究に向かう。

1813年対露危機に関して情報を集める、ロシア語辞書を編纂。

1818年・43歳 再婚。 1823年松山藩を辞す。

1824年中国やインドの経典類の考究。1831年以降暦日や易学に傾倒。

1838年故郷秋田藩への帰参が認められた。1841年暦制を批判して江戸追放、秋田藩に召し抱えられる。

1843年病没。

 著書が100冊もあるというが何を読めばよいのであろう。

 
  

    ロシアの脅威と江戸のダヴィンチ・平田篤胤|茂木誠   25分

    https://www.youtube.com/watch?v=46Uj_5kINmw


      2024-9-21




 
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2024年09月19日

映画 奇跡のシンフォニー  

      August Rush  2007年




 
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  BSから録画したこれを余り期待していなかったので、2回に渡って見た。 満足した映画であった。 初めのうちはストーリーの展開がバラバラに構成されていたので理解しずらかったが、流れが後半になると先が読めるようになった。

 最近のアニメの映画化したものを見ることがあるのですが、フィクションとはいえ奇想天外なものが多い印象を受けている。 それは老人故の頭が固くなった故でもあります。

 孤児院の孤児が脱走して最後は死んだと思われていた両親にコンサートを通じてめぐり合うというお話である。 最後に親子3人抱き合うところまでは描かれてはいない。それにしても楽譜を知らない主人公が短期間のうちに幻想曲を作曲してジュリアード音楽院のコンサートで曲を披露するなどとてもあり得ない。 日本が舞台なら嘲笑を受けるレベルである。 しかしニューヨークでは路上ライブや孤児を食い物にする親方、天才少年のジュリアード音楽院での教育などリアリテイのあるものである。 実の親子がオンサートでめぐり合うなんていうのは表題と同じ奇跡であろう。 実名は「August Rush 」で奇跡の文字は無い。 日本の配給者の命名がすばらしいのである。 

 まだ、見られていない方はご覧になっても損はないでしょう。



       2024-9-19



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2024年09月17日

ユダヤ埴輪  柴山はにわ博物館



 東京駅より総武線・快速で千葉へ、乗り換えて総武本線銚子行きに乗車、JR松尾駅で降車。 コミュニテイバスの時間が合わなくてタクシーにて「柴山はにわ博物館」へ着く。 帰りも待ち時間が多くなったので、今度は成田空港第1ターミナルからスカイライナーで帰ることになった。 コミュニテイバスの時刻を調べておく必要が大事であった。 「柴山はにわ通り」には成田空港行きシャトルバスがあるので、殿山古墳を先にするのもありかも。

 
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 柴山マップ



  「日本とユダヤの古代史&世界史」を読んでいたので、さっそく柴山のはにわ博物館」へ行きました。 「ひげの武人はにわ」とも云われていますが、確かに顔の表情と云い独特のユダヤまげを結んでいることなど小生には「ユダヤ人はにわ」と実見・実感した。

 

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 姫塚古墳出土、  人間と同じくらいの大きさがあり意外であった



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 姫塚古墳出土、 「馬のはにわ」も出土



 この殿塚と姫塚の古墳は古墳時代後期の6世紀に築造されたという。 ユダヤ人渡来の5つの波(前著より)それの第4波や第5波の渡来人がここで定着・同化したと云えましょう。 その時代を年表で見てみよう。

 応神天皇の時代新羅の妨害で足止めされていた弓月君の2万人をに受け入れた。その子孫が秦氏であったと云いう。織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草など広めたという。 展示品の中に鉄剣があったのも納得である。

 縄文・弥生の時代には馬がいなかった。5世紀前後から馬が日本でつかわれるようになったという。 ここの古墳中期以降の遺跡に「馬のはにわ」があるのは先進的なことであろう。 地方の豪族となっていた渡来ユダヤ人が鉄剣をもち馬に乗っていたことがわかる。


         2024-9-17


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2024年09月16日

 瀬戸水軍の終焉

 

  

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           祥伝社文庫



 海賊はカリブの海賊のように金銀財宝の積荷を奪うようなイメージがある。 しかし、日本は植民地を持っていたわけではないので、地方の荘園のお米を京にいた荘園主に運んでいた積荷がメインであった。日本の海賊は襲ってもコスパは悪く、次第位に帆別銭・警護水先料を得るようになる。

 戦国への時代が進み、厳島の戦い、第1・2回の木津川の戦い、文禄・慶長の役、秀吉の海賊停止令、関ケ原の戦いを経て日本の海賊は終焉を迎えた。藩の水軍として生き延びることになった。また、海から離れたところに領地・住まいをもつことになった。



村上海賊、 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。来島や因島村上は小早川に従う。能島は大友について他と対立するが、能島も毛利に加わる。 木津川の2回の海戦で勝利し敗北をする。関ケ原で毛利は敗れて,船手衆として残る。来島村上家・久留島家だけが大名として維新まで残る。

   村上水軍 まとめ

忽那海賊、  南北朝時代に忽那氏は後の真田氏のように両天秤を懸ける。兄は北朝、弟は南朝である。征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐(かね)良(なが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。南北の抗争の週末とともに次第に消えていく。

https://hayame.coolblog.jp/custom10.html#spb-bookmark-307

九鬼海賊  九鬼嘉隆は長島の戦いに参戦し鳥羽に拠を移す。木津川の海戦で鉄甲船で勝利する。信長・秀吉に信頼された。関ケ原では自分は西軍に息子は東軍に属し敗北して自害した。九鬼氏は摂津の三田と丹波の綾部の2藩で5万5千石で維新まで続いた。

  https://www.youtube.com/watch?v=g31JXN4Mo3o

塩飽海賊  毛利方に与していたが石山本願寺合戦で信長に味方する。信長、秀吉、家康から朱印状を得て御用船方となる。人名政のもとで自治権を持つ。幕末には咸臨丸の主な水夫として活躍する。船大工としての伝統ものこる。



河野海賊  源平合戦の屋島壇ノ浦の合戦で源氏方として活躍。元寇の役で九州に出陣。南北朝期、北朝に属した河野水軍は、南朝方についた新興勢力・三島村上水軍や忽那(くつな)衆と対峙した。通常倭寇は北九州の対馬・壱岐・松浦を中心とした漁民・浮浪民などの海賊集団と考えられていますが、瀬戸内海の水軍もその一翼を担っていた。 秀吉の四国征伐に屈服。小早川氏に庇護をうける。



   2024-9-15


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2024年09月15日

明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡高通さん

 

 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。

 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作・大久保利光・伊藤博文・勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。



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 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830〜98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信、伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。



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(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838〜1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825〜83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16〜7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文、井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。



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(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。




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(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリカ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリスの海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団(1871年6月〜73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋−横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19

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 大幡さん


  友人であり盟友であった大旗高通さんが93歳で一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

     2022年4月5日


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2024年09月13日

全国ヨット泊地 最新更新  2024-09


全国ヨット泊地 最新更新 2024-09

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四国88ヶ所のお遍路のために四国各港を訪れました。 最新の更新をいたしました。

全国ヨット泊地 最新更新  2024-09

     2024-9-13

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2024年09月12日

松江豊寿  坂東俘虜収容所


 



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1872-1956
  



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  第1次大戦でドイツの俘虜は4715名であった。そのうちの1000名余を徳島鳴門市にあった坂東俘虜収容所に収容した。その2年10か月を会津出の松江豊寿大佐が所長を務めた。


 映画バルトの楽園を見ましたが、ご覧になった方も多いでしょう。 ベートベンの第9が日本のここで初演されました。 第2次大戦で各国の俘虜の悪しき待遇が一般化していますので、信じられないような人道的な待遇がこの収容所で行われました。

 このような俘虜を文明国の人間として、日本人と同じく、国のために戦った人であるとして待遇したのは坂東が著しいものでした。 最大の収容者がいたのは久留米で、所長の真崎甚三郎中佐(のちに皇道派陸軍大将)は些細なことで、俘虜を殴りつけた。 所長の方針で違いがありました。 

 戦前の軍隊の中でも、このノブレス・オブリージュでとりあげる旧軍の軍人たちは個人の責任と判断により、後世での大きな評価を受ける行動をしました。 軍隊ゆえに窮屈で絶対だと思いがちですが、軍隊ゆえに上官の命令は貫徹される側面があります。

 自衛隊のいじめが問題になりますが、それを問題にするのなら指揮官の責任をウヤムヤニしたのでは現代の世でも解決できません。直接の当事者の下士官を罰しても一時の解決にしかならないでしょう。


  1872 明治5  斗南(会津)藩士の嫡男として誕生
  1877 明治10 父・松江久平警部補心得にて西南戦争抜刀隊に入隊
  1889 明治22 陸軍幼年学校入学 16歳
  1892 明治25 陸軍士官学校入学
  1895 明治28 日清戦争で山東省に上陸
  1902 明治35 歩兵大尉
  1904 明治37 日露戦争で仁川作戦 兵站副官、韓国駐箚軍副官
  1907 明治40 歩兵少佐
  1914 大正3  第1次大戦、歩兵中佐 徳島俘虜収容所所長
  1917 大正6 坂東俘虜収容所長、歩兵大佐
  1919 大正8 ドイツ敗戦
  1920 大正9 収容終了
  1922 大正11 陸軍少将、予備役、若松市長
  1925 大正14 若松市長辞任


   2023年と2024年に坂東捕虜収容所を訪れることができました。 お遍路に訪れる西洋人は多い、一番の霊山寺近くにここがあるのですが、地元も政府も外国人に対してここの衆知が足りないようです、此処を訪れる人が少ない。 世界歴史に稀な誇れる場所であるのに残念です。



   アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子
   https://hayame.net/custom29.html#spb-bookmark-1172


     2015-12-1、 2024-9-11



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高市早苗、   自民党総裁選挙   2021&2024



 今日2024年の自民党総裁選の候補者が告知されました。 推しの青山繫晴さんは15人しか推薦者が集まらずに断念しました。
  前回の青山さんは「反回想」の本にあるように、安倍さんに云われて自分の立候補を止めて高市さんの推薦者になっています。高市さん以外はろくなもんではないので、彼女に頑張っていただきたい。

 青山さんは消費税の減税の実現で、財務省と対峙すると明言されていたので、逆鱗に触れ財務省とその配下の大手マスコミにパージされ推薦者の引きはがしに会いこの結果となりました。 財務真理教「はげに怖ろしや」といったところです。 

 ここ30年の停滞を打破するテーマが最も大事な点であると、小生は思っていますが、はたしてその討論はあるのでしょうか? 高石さんにも減税やこの議論を述べていただきたいものです。

        2024-9-12




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 20歳で投票権を得てから、後期高齢者目前になるまで一度も自民党に投票したことはありません。 最近は、誰も支持できなくて白票を入れたこともあります。 小生は総裁選には投票できないけれど、是非とも入れたい人が現れた。 それが高石早苗氏である。 彼女へ投票できるなら、党友にさえなりたい位である。

 彼女の本を読む。 政策の具体的なことが書かれているので小生には分からないことが多い。 けれど、他の候補が抽象性的で具体性のない口当たりの良い言葉に比べれば、彼女が取り上げる対象やその具体性など、小生にはそれらをやってほしいものばかりである。 また。実際にやってきたこともこの本で述べている。

 最近の日本で最も喫緊の対策は何であろうか? これに答えて政策に挙げてくれる政党は無い。 それは夫婦の姓の問題、LGBTの問題、同性婚の問題、環境問題、原発問題では無い。 ワクチンで終息の問題が見えてきたコロナ問題でも、もはや無いでしょう。

 それは「チャイナリスク」である。 最近には、中国の不動産会社に取り付け騒ぎがおきている。すぐにも兆円を大きく超える債務で破綻しそうである。リーマンショックを数十倍にしたものが起きるのではと懸念されています。 それは経済的には大問題で被害の大きさも想定されますが、それよりも、もっと大きいことは台湾問題でしょう。 台湾で負けるようなら沖縄・九州と人命・国土の問題となります。このことを述べているのは高市さんのみ。 国防予算の増額、中距離ミサイルの配備を取り上げています。やっと大事な問題を取り上げてくれる政治家の出現です。


 テレビに向かってそうじゃないだろう、GDPの2%に防衛予算を上げろ、中距離ミサイルを持ち配備しろ、と画面にほざいていたのが、そのことを現実に述べてくれる人が現れました。NATOのような核を持てとまでは言ってはくれませんけれど。 中国に対して冒険をさせないための抑止力を持つのは、今最も必要とされているものと小生は考えています。

 先の米大統領選挙で見られたトランプに対する主要メデイアやSNSの偏向報道が、 アレっ! 日本でも同じではないかと思われることがある。 記者クラブでの候補者の会見をテレビでその後半部分を見ました。 河野・岸田さんばかりに回答を求めて、他の女性には発言を求めない、それが20分ほど続いたので、おかしいと見るに見かねてテレビを切ってしまった。 「高石外し」が始まっているのか? 支持率の発表も意図的な数字を出しているのではないか?と疑っています。 これからも十分にメデイアを監視していく必要がありそうです。


 小生は若いころに船乗りをしていて、イライラ戦争の時にペルシャ湾を航行しました。 その時には日本船が攻撃をされて死者が出ています。 乗船している船体に日の丸を描かされて、それが唯一の安全護符でした。日本国民の人命と財産を守るのは建前だけで、絵空事の時代であった。 最近は、アフガニスタンで1人しか帰国させられなかったけれど、3機の自衛隊輸送機が現地に向かったのとは大きな違いであった。今では当時の状況が起きたのなら自衛艦が船団を組んで商船を守ってくれることが期待できるのでしょうか。 高市さんならできそうな気がします。

 これからの進捗を大いに見ていこうと思う。


      2021-9-20





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2024年09月11日

忽那水軍史 「あしら」を海賊と呼ぶな!  忽那裕三

 


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    アルハオス出販



中島・忽那島に天候待ちでヨットを予定外に停泊させるまで、この地のことは何も知らなかった。 ここは忽那(くつな)海賊の本拠地であったのだ。 ニワカの知識で海賊城を訪れる。クル−ズを終えて時間ができたので家に帰ってから本書を購入した。

 瀬戸内の海賊といえば村上海賊や塩飽海賊のことは興味を持ち。ヨットでそこを訪ねている。

  

  この書によると、忽那諸島に謀反の濡れ衣を着せられ、都より逃れて来た一族がその島々を開発し、また、どのような経過をたどり伊予の本土を開発した一族であったかを解き明かしている。

 平安末期・偶然としか言いようが無い厚遇を得て、朝廷の高官より伊予の年貢米の海運を任され、その船舶を防備する水軍を組織する。そして、九州の長講堂領(上皇領)の年貢米の輸送も手掛け、一族は莫大の資を手にした。 積荷の40%位のお金を得たという。 その資をもって、南朝の旗印を掲げ南朝の水軍として瀬戸内海を制覇し、征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。 荒廃した南朝政府の所領(国衙領)を忽那一族は恩賞として受領。伊予の北吉田に忽那山城を構え、海運で得た多大な資本投じ、荒廃した伊予の各所(北吉田・別府・野間郡大西・風早郡北条・和気郡・久米郡高井・伊予郡松前鶴吉・同北河原・他)を開墾開発し、南北朝期より室町期の開発地は未だ忽那を名乗る集落として存在する。



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 忽那山城 周辺図 



  塩入荒野の開発・海浜の土木開発とは

 忽那一族は3万石を超える荒野を干拓し農耕地に開発した。その方法は3−4mに及ぶ瀬戸内の干満の差を利用して、遠浅海岸で堤防を築きその内水面の海水を潮差で排出して耕地を造成した。その技術と動員できる人を彼らは持っていた。

 瀬戸内の一水軍が、平安時代末期の朝廷貴族から、武士を中心とした鎌倉・南北朝・室町時代の、武家政権の中枢とも関わりを持ち続け、室町幕府の日明貿易にも関っている。著者は現地に足を運び神社・仏閣等に、五〜六百年前の残り少ない史料(木簡・位牌等)を見出し、伊予の中世史を新たな側面から論じている。

 忽那氏の勢力下にあった島々は「忽那七島」と称され、愛媛県に属する忽那島(中島)、睦月島、野忽那島、二神島、怒和島、津和地島に加えて、山口県岩国市に属する柱島を含める

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  忽那七島



  忽那七島は中世の航路を支配する絶好の位置にある。

 

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  中世・近世の航路図



   2024-9-11



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2024年09月10日

反回想  青山繫晴 、  報道の危機

 
     わたしの接したもうひとりの安倍総理

          

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      扶桑社刊

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 青山繫晴さんの「ないないずくし」のことをマスコミが無視して報じないので知らない皆様が多いことでしょう。

   そのゼロとは

 1.個人・団体献金 2.支援団体・後援会 3.派閥 4.地元・後援会長 5.私設秘書 6.パーテイ 

 まあ、今までの議員が持っているものすべてです。 彼は議員の存在すら無いものとされています。

 今回の自民党の総裁選挙では昨年11月10日から立候補を表明されている。先に立候補表明の記者会見を行ったがその日のNHKには相変わらず告知報道がされないままです。 推薦候補者の引きはがしがすさまじく告知日までに20人集まるか不明の状態である。

 消費税の減税や財政法の改正を表明されているので、財務省や既得権者より強力な妨害をされて、それらの議論が庶民に分からないような工作がされている。 日本の民主主義の危機的状況である。 ここに載せても何も影響がないけれど述べざる負えない。

  近著の「反回想」を読んだ。 総裁選があるので、3版にて、差しさわりのあるところを修正されたと云うことであった。入手したものは初版であったが、小生には何か問題がある箇所があるには思えない。

 「ぼくらの国会」などをよく見ているせいか、今回の内容で90%くらいは聞き覚えのあるものであった。 安倍さんの最初の辞任の理由が病気ではないことを読むまで知らなかった。

 旧・民主党の有力議員の事務所で実際に耳にしたことは、「安倍さんは2流大学出のアホな2世議員」の評であった。しかし、彼は速読の読書家で知的に欠けるとはとんでもない。 今回の総裁選ではそのような人がいないわけでは無い....   また、モリカケのカケは全くの冤罪であったことも知った。

 トランプが再選されるであろうから、彼に信頼されていた安倍さんが居ないのは、これからの日本にとって本当に大きな損失だろう。 望むことは出来ないけれど、今度の総裁に安倍さんに三選を願いたい位だ。 本当に暗殺が起こるということは我が国の歴史の恥ずべくものだと皆が共通の認識としたい。

 動画で前世の記憶を持つ子供の番組が結構好きで小生はよく見ることがある、暗殺された日に青山さんのところに安倍さんがお別れに来たことも最後に書かれている、本当のことだと思います。



 最後に今回の選挙で4000円の会費を納め自民党員になれば日本の総理選びの選挙に参加できる。しかし国籍のチェックが無いので、中国や外国による介入が充分に起こりえる、次回の選挙よりしっかり確認してほしい。


 
  総裁選出馬意向の青山繁晴氏が会見 消費減税を主張「財務省と対峙しても実現」

    https://www.youtube.com/watch?v=oOtH8ym_Xe0&t=9s

  青山繫晴  アフガンの悲劇なぜ 

   https://hayame.net/custom7.html#spb-bookmark-755

  青山繁晴議員に聞く! 自民党総裁選

 https://www.youtube.com/watch?v=g4OdfddeA3o



        2024-9-10

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2024年09月09日

日本とユダヤの古代史&世界史   著・田中英道、茂木誠

   

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     ワニブックス刊

 この本は邪馬台国の所在が阿波にあったという説を支持する小生がそれを補強するべく買い求めたものである。 

 田中英道は日ユ同祖論ではなく日ユ同化論を述べる、ユダヤの人々は国を持たなかったけれども、ひたすら宗教と伝統を守ってきた。それが日本では同化したというのは不思議なことです。そこらあたりの説明をもっと知りたいところではある。  日本は万年の縄文文化を持っており、そこへユダヤ人が渡来して、戦争をしなかった平和の縄文人が彼らを受け入れ彼らは日本に同化したものであると、小生は思っています。 

 下表にある第3波の徐福の跡を、鹿児島や三重県において小生は見かけている。 ここで波田須の道串木野祠をとりあげています。日本各地に徐福の跡があるようです。 応神天皇の時代には第4波の弓月国からら2万人のユダヤ系の人々の移民を受け入れる。(徐福は2千人です)  第5波の蘇我氏ですが、大化の改新・645年の時代になると蘇我氏は教科書にも登場してくるので知っている。ユダヤ人であったとは知りませんでした。 431年「エフェソス公会議」において景教・ネストリウス派は異端とされ東へ旅立ち日本にたどりつく。蘇我氏は「われよみがえり・我蘇」と呼んでいる。 これまでの自分が、ばらばらに学んでいた景教・蘇我氏が結びついてきました。



    ユダヤ人渡来の5つの波 、  本文より



第1波 紀元前13世紀 出エジプト記/縄文時代 日高見国・スサノオ
第2波 紀元前722年以降 アッシリア捕囚と失われた10支族 日本建国
第3波 紀元前2-3世紀 秦の始皇帝・徐福ら3千人 秦氏各地に渡来
第4波 3-4世紀 弓月国から秦氏2万人 応神天皇が受け入れ
第5波 431年以降 エフェソス公会議・ネストリウス派 蘇我氏


  あのピラミッドにも負けない巨大な古墳築造をを指導してきたのは秦氏・ユダヤの人々だという、仁徳天皇陵はユダヤのマナの壺の形にソックリな形状である。さもありなんと思われる。仏教が広まるとともに古墳は消えた事実も本書で知った。

 

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 マナの壺


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 仁徳天皇陵



 成田空港近くの柴山にはにわ博物館があるという、今度訪れたいと思っている。 そこに昔は「武将はにわ」と学んだつもりであったが、本書の指摘で明らかに「ユダヤ人埴輪」と考え直した。 ユダヤ人の「もみあげは」 聖徳太子もつけているし埴輪にも表現されている。



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 長いモミアゲ・ペイオト姿のユダヤ教徒


 

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 見ずら「美豆良・ペイオト」をつけるユダヤ人埴輪と聖徳太子


  友人が優秀な子供を持ちその子が医者になり、米国でユダヤ病院に勤務し、ユダヤ人と結婚している。 ユダヤ人に対して差別や偏見を持たない日本人でも、意識・教養の高い人には世界での差別の存在を認識・実感しているので、娘の亭主がユダヤ人かと指摘されると気色ばむことになるのでしょうか。 難しい問題である。デイ-プステ−トの世界支配の問題もあるしね。

 本書でも、樋口季一郎中将のユダヤ人の満州通過を即断し、戦前の東条首相ですら追認したことを述べています。

 「中国・朝鮮の文化圏としての日本史観は捨て、ユダヤ同化論を突き詰めて頂きたい、」

 「ユダヤ人たちが世界に対して何をやるべきかということは、平和の場所の伝統と文化に貢献することであろう」

 「日本という地で、ユダヤがいたということは、世界を考える上で重要な思考の礎になる」......... 田中英道氏による





天皇とユダヤの「3種の神器」に隠された驚愕の真実│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=FrShBtLDggk

秦氏のルーツはユダヤ?秦の始皇帝?ローマ帝国?|茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=jGaYbjeOK5U

聖徳太子に隠された謎に迫る│茂木誠

https://www.youtube.com/watch?v=TKYpKFxLzek&t=10s



 世界第3次大戦前ともいわれる「新しき戦前」のこの時代、イスラエルがイランと戦火をまみえるようになれば、ロシア・中国・北朝鮮が漁夫の利とばかりにどう動くか分かりません。 日本とユダヤの平和的な関係が研究され明らかになっていくことを望むばかりである。



     阿波・邪馬台国と日神子・卑弥呼 邪馬台国は阿波にあったのか?    香川宣子さんによる



 未だ、自分自身にこなれた知といえないところは、バレてしまっていることでしょう。皆様の考えの一部になれれば良いです。



          2024-9-9


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2024年09月05日

四国88ヶ所 ヨット巡礼  まとめ


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 ヨットで訪ねるお遍路を計画してみました。 下図のようなお遍路寄港図その1とその2へ寄港して、そこから公共交通やタクシ−にて徒歩でお遍路する。 70代後半の年令になっては平地ならともかく、山道を長い時間に登るのことは難しい。

 予想外にバス便がお遍路寺に整備されていない。 従いタクシーを使うことが多くなりました。 費用的には「歩き遍路の方」が、他の方法よりも宿泊費が多くなる分、費用が多くかかったことでしょう。次寺まで数日要するところもあるので大変ですが、日数増えるので宿代が多くなる。その手配も苦労すると聞きました。 ヨットは宿泊代がタダなのが取柄です。

 尊敬に値する「歩き遍路の人」は極めて少数で、自家用車で廻られる方が主流です。それでも行き会うことが難しい山路を走らなければならないので、老生のような運転下手には車も難しい。
 
 意外なのはバックパッカーのような大きなリュックを担いだ若い西洋人が多いことでした。 3割位の割合で西洋人がいるように思えた。信仰も違うのに「ヨウヤルワ」という感じです。

 タクシ−利用が多くなりました、スマホで「近くのタクシー」で検索して呼び寄せるのことになる、四国の大きな都市地域以外の処では1−2社位しかタクシ−会社が無く、そこには病院や買い物需要のご老人のお客さんが多いので、予約有で来てくれないこともある。できれば前日の予約されたら良いかもしれない。 費用を抑えるのには原付をフェリーに載せ徳島へ持ち込み、お遍路するのがオススメでしょう。 自転車はあの山路を登るのは老人には無理な気がします。
 
 ヨットの寄港地ですが、安心して置けるところに長く留まることになってしまい、初めてで情報の少ない港は避けてしまいました。 例えば観音寺、西条、松山空港、宇和島、宿毛、宇佐、橘湾、小松島などです。そこへ入港すれば小生とは違ったものになったであろう。

 信仰心の少ない小生ですが、これからのご利益ではなく、昨年のように巡航中に心筋梗塞での入院にもかかわらず、今年出かけることが出来たので、もろもろのお礼を兼ねてお遍路をして来ました。 ぶっちゃけ、本当はクルーズに目的をつけて楽しく廻っただけなのです。皆様のおかげで無事結願できました。ありがとうございました。


1.   ヨットで巡るお遍路
2.   お遍路 ヨット泊地
3.   札所詳細
4.   県別のお遍路   徳島県   高知県  愛媛県  香川県
5.   ヨットお遍路逆打ち


     2024-9-5

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2024年09月04日

草壁・小豆島  ヨット泊地




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  草壁と苗羽・  内海湾/小豆島

 坂手に停泊して草壁と苗羽の泊地を見に行って来た。 草壁は連絡船が廃止になりそれに使用していたポンツーンが係留できるようだ。 すぐ近くにリゾートホテル風の桟橋がある。人の気配がしなくて利用できるかどうかは不明でした。苗羽は係留できるようである。 

 坂手と違いここは燃料と食料の補給ができる。



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  草壁 旧連絡船ポンツーン



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  リゾートホテル風の3本の桟橋

 

  苗羽



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  苗羽の係留候補地

 近くに醤油の博物館がある。


        2024-9-5



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2024年09月03日

大鳴門橋 渦の道

       


  長崎から徳島ケンチョピアまでキャンピングカーで訪ねてきてくれたヨット仲間と一緒に、その車で鳴門の「渦の道」を観光した。

 

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  鳴門海峡と小鳴門


 

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  友人はこの車とヨットを所有している


  大鳴門橋には車道の下に新幹線用のスペースが設けられている。 余談だが、小生は四国への橋は未だにこの1本だけで良かったと思っている。後の2本の橋の予算があれば新幹線を通して徳島−高松―松山と高知へと続がっていたと思う。現在は予想外に高速道路は四国各地に敷設されて充実しているようである。

 このスペースを利用して遊歩道があり「渦の道」と称している。 最近のニュ−スでサイクリング道をここを利用して淡路島へと結ぶ計画があるようだ。歩道橋として淡路島へと追加工事をあいていただければ横断徒歩するのも楽しいものである。 歩いて渡れるものと思っていたが現況ではダメでした。

 

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  鳴門海峡


 ヨットで何度か通峡している。 その際には上の写真のように帆船観光船がいる四国側部分を航行する。


 

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 最近は5000トンクラスのコンテナ船でも通るようです。

 

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 前夜の午餐、 他のことでも大変お世話になっているUさんとFさん


 1番の霊山寺坂東捕虜収容所も訪れた。



  アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子

  http://gby.sblo.jp/article/190594734.html



     2024-9-3



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2024年09月02日

由岐  ヨット泊地

  


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  日和佐から由岐へ




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  由岐港



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  由岐漁港


 

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 松本竹蔵翁 顕彰碑



 「九州・五島行き」という出漁形態があるという。徳島のここ近辺の漁民移動の形態です。上の写真はその先駆者の碑である。 ヨットで九州をクルーズしていると、捕鯨で徳島から迎えたとか、徳島発の漁法のやり方を耳にする。 昨年に五島の奈良尾で以西底引き網の基地であることを目にした。 それは由岐の漁民がもたらしたことを知ることになった。  阿波の漁師は先駆的で賢いのだ。

 

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  現地 案内板


 翔鳳丸は薩摩藩の武装汽船で1868年の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。鳥羽・伏見の戦いが起こると兵庫港封鎖部隊が移動し、その隙に同地の薩摩艦「春日丸」、「翔凰丸」、「平運丸」は脱出を図った。「翔凰丸」は「春日丸」に曳航されたが、「春日丸」は「平運丸」と衝突し舵輪を損傷した。「春日丸」と「翔凰丸」は「開陽」に捕捉され、「春日丸」は「翔凰丸」を分離して「開陽」と交戦。一方、「翔凰丸」は阿波由岐浦で座礁し、焼かれた。この海戦は阿波沖海戦という。


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 翔鳳丸・461トン、 16センチカノン艦砲



   2024-9-1



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2024年08月29日

湯谷神社、  若杉山鉱山遺跡





  21番太龍寺を参詣した時にロープウエイ乗場へタクシーを呼び寄せ、若杉山鉱山遺跡と湯谷神社へ行って来た。 地元のドライバーでもこれらへは行ったことが無く、スマホを見ながら、こちらがそこへ指示した。

 

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 那賀町 周辺図





    湯谷神社

 古事記にあるイザナミが黄泉の国から逃げる道を黄泉比良坂(よもつひらさか)と言いますが隠岐出雲の国にあるのではなく「ユヤの坂」のことである。美馬市穴吹町から山越えして阿南市まで続がっている。下図にそれに関連した地名を記した。 


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  イザナギ逃亡地図  高越山から橘湾まで

 

 湯谷神社は道路わきにあり、見逃しやすい場所である。




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  鳥居



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  大きなものではない本殿



神武天皇とイザナギ・イザナミにゆかりの阿波にある神社

 葦稲葉神社、 事代主神社、樫原神社、建夫津神社、熊野神社、鴨神社、伊邪那美神社、倭大國魂神社   

「いずも」の神社を訪ねる
    大御和神社 豊国神社 八鉾神社、賀志波比売神社、生夷神社 津ヶ峰神社







    若杉山辰砂採掘鉱山遺跡

 

 ロープウエイ乗場から那賀川沿いの林道みたいな県道283号を走る。グ−グルマップではここを指示できない。 川沿いの道と遺跡と直角に・最短距離の近接地点で車を止めて、鉱山跡に行く登り口を探すが見当たらなかった。 もう少し北上して水井橋近くの地元の方に尋ねて、20番鶴林寺からの21番太龍寺へのお遍路道の案内看板を教えて頂いた。若杉山鉱山跡の案内も併せてあったが、その道は歩き遍路道で車が走れる道では無かった。後日へと断念して引き返した。

 行けていないのであるが、ここでは、石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。 出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられるという。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。 魏志倭人伝に卑弥呼の国には辰砂の鉱山がありと書かれている。 他の有力な邪馬台国の地には、この種の鉱山が無い。 ここ阿波の国こそ、この鉱山により邪馬台国の地である重要な証拠になる。



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  鶴林寺から大龍寺へ



 

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  近接地点でタクシーを止める





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 若杉山辰砂採掘遺跡 案内板



      2024-8-29



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2024年08月27日

お遍路27  12番 焼山寺

  

 いよいよ結願です。  昨秋の徳島では1番から20番札所まで参詣した。  11番藤井寺より12番焼山寺は山奥ゆえに残したままであった。近春から逆打ちにして、ヨットで反時計回りで四国を巡航したのでここが最後になった。


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 神山町 周辺図


 JR徳島駅前のバス乗場から神山高校前行きに乗車。 神山町役場前で下車してタクシーを呼ぶ。 タクシーは2社ほどしかなく、午前中は医者や買い物のご老人の利用が多く、前日の予約が良いのかと思われた。 卑弥呼の在た地の悲願寺に行く予定をしていたがタクシーが捕まらず行くことが出来なかった。

 順番に訪問するのにこだわらなければ11番の藤井寺でいったん止め、翌日に17番井戸寺より13番大日寺まで歩き遍路で行けるので大日寺よりバスで神山町役場へ、逆に順序にこだわるならバスで役場前までいき焼山寺を終えて再びバス便大日寺下車の方法もある。 11番藤井寺より歩き遍路で12番焼山寺は厳しいものになると思われる。修行だと思われるている方には余計なアドヴァイスであろう。

 ちなみに、はるばる海から渡って阿波の海岸にたどり着いたユダヤの人々は神の山のここらあたりにたどり着いたと云う。卑弥呼は悲願寺を拠点とした。



     12番 焼山寺

 大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者)が開山し、庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、蛇は山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願すると大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。

  

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  階段と山門





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  本堂   本尊は、虚空蔵菩薩  秘仏




 藤井寺から焼山寺の間はお遍路ころがしと言われ 「一に焼山寺、二に鶴林寺、三に太龍寺」 と焼山ではかなりの難所になっています。



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 11番藤井寺方面を望む



        2024-8-27



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2024年08月25日

祖谷(いや)渓谷観光バスツアー

   

  超フリータイムトラベルすなわちヨットクルージングをしている小生にとって定期観光バスに乗ることは人生で数回のことである。 カミさんが徳島で合流して祖谷に行きたいとの希望で定期(土日)観光バスに乗りました。徳島駅より徳島線で池田まで行く、そこが出発です。 帰りは時刻表が合わず2時間ほど乗車を待ち暗くなって徳島へ帰った。



  コースは下記

 JR阿波池田駅(乗車)〜阿波池田BT(乗車)〜平家屋敷〜郷土料理の昼食〜かずら橋〜小便小僧〜道の駅大歩危〜大歩峡船下り(降車)〜西宇(降車)〜JR阿波池田駅(降車)〜JR徳島線で徳島駅へ

 

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 祖谷観光 マップ


 

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 平家屋敷、  平家の御典医がここまで落ちのびて来た



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  かずら橋、  高いところで足がすくむ小生には  とても恐かった




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  小便小僧、  どうしてここにこの像が?



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  祖谷渓谷、  写真のウデがイマイチ  実物を見てください、



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  大歩危峡船下り、 急流下りでは無かった、渓谷をみる

 

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  地学的な説明があった、 思い出せない。 

 ブラタモリの番組のせいか、最近の観光地で地学的な説明が多くなったような気がする。

 

    大歩危・祖谷秘境の旅

   https://yonkoh.co.jp/teikan


    2024-8-25



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2024年08月24日

お遍路26  21番太龍寺




  日和佐よりJR阿南駅についた。 バスの停留所が見つからなかった。 しかたなく、ロープウエイの乗場までタクシーを利用した。5000円ほどの出費は痛い。


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  阿南 周辺図



    21番 太龍寺


 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。


 

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  ロープウエイ

 ロープウエイのガイドさんが弘法大使さんが修業した山中(舎心獄)を教えてもらい写真を撮ったが、明確に映っていなかった。


 

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  本殿  本尊は、虚空蔵菩薩   秘仏




 
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  大師堂


    2024-8-24


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2024年08月22日

甲浦散歩・かんのうら、 DMVバス



 室戸岬バス営業所よりジオパーク経由で高知の東部海岸を走る甲浦行のバス便がある。 それに乗り終点の甲浦まで行って来た。今は運行していない,旧フェリー乗り場がある。 

 東洋町海の駅から阿波海南文化村行の珍しいデユアル・モード・ビークルバスに乗った。 甲浦で高知県と徳島県に別れる。


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  甲浦周辺地図



   甲浦漁港



 カツオ釣りの少し大きめの漁船が出入りする。乗組員はインドネシア人であろうか、東南アジア系の若者が町で見かけた。

 ヨットの係留にはふさわしいところが見つからなかった。強いて言えば旧フェリー埠頭がどうであろうか?

 

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  甲浦港図


 江藤新平が佐賀の乱で負けて東京に向かう途中にここで上陸して捕縛されたという。 佐賀に送られ処刑された。



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  漁港地区 港内





    海の駅東洋町

 ここは徳島からのバスの終点で、23番薬王寺から24番最御崎寺へ向かうお遍路さんが、室戸行のバスに乗り換えるようすが見られた。 売店ではサシミが安くて大きい。買って帰りヨットで食した。



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  海の駅東洋町



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   白浜海岸

 夏のナギの時には湾の中央でポンとアンカーを打ってリゾート気分を味わいたいと思う。 シャワー施設が充実している。




   デユアル・モード・ビークル  DMVバス

 珍しい道路と線路を走行するバスに乗ってみた。 普段使いの雰囲気は感じられずに観光用でしょうか。 通勤に利用している人はいるのでしょうか。

 東洋町海の駅で乗車して道路を走り、甲浦駅でチェンジして線路に上がる。阿波海南駅で再びチェンジして道路を走行して阿波海南文化村で下車した。帰りは逆で海の駅で降りた。


 

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  デユアル・モード・ビークル



 

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  線路走行中



       阿波海南文化村



 DMVの始発駅である。博物館があり刀剣の展示があった。 知らなかったが、このあたりは刀剣造りの産地であったという。

 
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 食事するお店がなかったようで。手持ちのおにぎりを食した。


 

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  展示品




   和奈佐意富曽神社・わなさおうそじんじゃ

 スマホのグーグルマップのお気に入りにこの神社があり。近くの文化村に行ったのでタクシーを呼びここを訪ねた。 地元のドライバーも知らなかった。 マップを便りに着いてみると確かに町内にある規模の神社であった。 それでも格式のある式内社であるという。 家に帰って調べてみても、マークした当人も忘れているし、調べても不明である。 判明次第アップいたします。

 何の所縁であろうか?  スイマセン。

 

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  鳥居

  祭神に関して諸説あり、「大日本史」には大麻比古神、「特選神名牒」では大麻神と記載されている。(ウイキより)


 

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  本殿

  これにて甲浦散歩を終える。DMVに再び乗り海の駅東洋町からバスで室戸まで帰った。



    2024-8-21


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2024年08月21日

日和佐城

   

 大昔の20代の時に日和佐に来たことがある。当時は日程を消化することに一杯でこの城に行くことはなかった。 ヨットで海から入港する時にお城を見ながら入るのは気分が良いものだ。 九州の平戸城、四国の川之江城なんかは良い例です。

 10年ぶり位で日和佐に入港し、お城にタクシーで向かった。 運転手はもうお城はやっていないと行くのをオススメしない口ぶりであった。 まあ、いいからと行って見た。 閉館中とかで中へはいることはできなかった。 歴史を踏まえて再現された天守ではない。また、耐震に問題在りということで閉館中(敷地内立入禁止)だそうですが、改築するなら研究してオリジナルに近いものになるといいです。 平戸のように櫓や塀も造るともっと良い。


 元亀・天正(1500年代の初め頃)、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部侵入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたと伝える。日和佐肥前守が造った城は、天正十三(1585)年蜂須賀家政が、阿波に入国した際に廃城になったといわれているため、当時の城の形態に関しては、全くわかっていませんが、城の構えは、山城であったと考えられるとか。




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 日和佐城 


    日和佐 ヨット泊地



      2024-8-20


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