2024年08月20日

日和佐   ヨット泊地

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2024年08月19日

お遍路25 23番 薬王寺、 22番 平等寺



 逆打ちでこの日和佐まで来ると残りは4つになった。 しかし、歩くことを避けていた小生でも左足の甲に痛みがでてきた。 なぜか札所は山の中に多い。 坂道や階段を登ることが多いゆえであろう。

 日和佐と由岐の診療所でそこを診察してもらった。 レントゲン技師が不在で撮影できずに痛み止め薬と湿布をもらう。 地方で都会を離れると、病院に行っても、今日は外科医やレントゲン技師がいなくて診療できないなんてこともある。 良いことばかりではないようだ。

 由岐の病院からタクシーで平等寺に向かった。帰りはJR新野駅から日和佐駅までJRを使った。

 

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  日和佐 周辺図



  23番 薬王寺  


 、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建と伝わる[1]。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が厄除けのため薬師如来像を刻み、伽藍を建立。


 

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  瑜祇塔

 日和佐に入港する時にはこの塔は顕著なよい目標になる。


 

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  本堂    本尊は、厄徐薬師如来  秘仏



 

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 大師堂





    22番 平等寺


 空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置した。


 

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 本堂   本尊は、薬師如来

 

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 大師堂



         2024-8-19


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2024年08月18日

室戸岬港、津呂港、 及び 室津港   ヨット泊地

   

  室戸岬港、  ヨット泊地



  安芸を出港して室津か室戸岬か迷ったけれども、室戸岬港に入港した。 室津港は漁船が多く係留余地が少なく室戸岬が正解であった。 買い物などは室津が便利である。そのために、バスでコインランドリーやスーパーに行くことになった。

 

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  高知・安芸・室戸岬  周辺図


 

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  赤丸は停泊地、 位置AからBへシフトした

  Aの位置に係留したけれど、工事船がここへ停泊するとの張り紙がビットに貼り付けられていたのでBの位置にヨットをシフトした。 出港するまで5泊したけれど、それが来航する気配はなかった。 前の位置の方が停泊中のウネリを避けやすく動揺が少ないようだ。


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    室戸岬・津呂港



  津呂港は室津港と同じく、土佐藩執政野中兼山により、整備された掘り込み港です。工事に当たり、港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。
土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な位置付けにここはありました。



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 津呂港,    中央の空きビルはかっての遠洋漁業の司令塔だったという

 

    2024-8-18






   室津  ヨット泊地



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  青丸は候補地、   広いようで適当な係留地は見つからない

 25番津照寺は岸壁からすぐ近くにある。



    2024-8-18


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2024年08月17日

中岡慎太郎記念館と生家

  


 室戸岬港からバスに乗り奈半利へ着く。 そこから北川村のコミュニテイバスにて記念館に行って来た。 本数が少ないので時刻表には注意が必要である。

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  中岡慎太郎、 北川村周辺図

 中岡慎太郎は龍馬と一緒に暗殺されたけれども、多くを知っているわけではない。

 まとめると、大庄屋の長男として生まれたので帯刀はゆるされたであろうが、農民で郷士でさえないと思う。 土佐勤皇党に入り、それが弾圧されると脱藩し長州へ亡命する。そこに都落ちしていた七卿の衛士となる。禁門の変で負傷する。 下関戦争で攘夷を捨て開国論へ転じる。竜馬と共に薩長同盟を締結させた。竜馬とともに脱藩を許される。板垣退助や谷干城とともに薩土倒幕挙兵の密約を結ぶ。大政奉還の建白を推進していく薩土盟約の仲介する。陸援隊を組織す。薩土盟約解消。大政奉還成立。竜馬と暗殺される。享年30。



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  記念館



 
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  記念館前に立つ像





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  松林寺

 生家近くの松林寺で学ぶ、また山越えし苦労して麓の塾へ通ったと云う。



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  奈半利川の山間の誕生地





    中岡慎太郎の生家



 天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。

 記念館の近くに少し下ったところにある。



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 生家

 大庄屋といえども見てみると豪壮な家ではない。 山間の農家であったので貧しかったのであろう。



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  内部



          2024-8-17


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2024年08月16日

高知 吉良川の街並み




  室戸岬港からのお遍路寺26番、25番、24番と一緒に吉良川の街並み保存地区へ行ってきました。

 西海岸の奈半利から室戸岬、東海岸の室戸岬から甲浦は鉄道の路線がないのでバス便になる。

 

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  吉良川から室戸岬


 重要伝統的建造物保存地区になっている。 備長炭で財を成して明治から大正にかけてこのような建造物が建てられたという。


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   案内板




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  街並み1



 

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  台風から守るための「いしくろ」の塀



 

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  多雨の地ゆえに土佐漆喰壁を守る水切り瓦(小屋根)が幾重にも設置されている



 

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 ここも水切り瓦が見られる



     2024-8-15


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2024年08月15日

お遍路24 26番金剛頂寺、25番津照寺、24番最御崎寺



 

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  室戸岬  周辺図



   26番 金剛頂寺



 大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。



 

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 本堂、  本尊は、薬師如来



 

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  大師堂


 

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  「一粒万倍の釜」

 弘法大師が、三合三勺(495 g)のお米を入れて炊いたところ、万倍にも増え、飢えた人々を救ったという。



   25番 津照寺


  室津の港からすぐのところにある。


 大同2年(807年)に空海がこの地を巡錫した際、山の形が宝珠に似ておりこの地が霊地であると感得し、宝珠に合わせ、一刀三礼して延命地蔵菩薩を刻み堂宇を建立し開創したという。

 

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 鐘楼門   竜宮城みたいである


 

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 本堂   本尊は、楫取延命地蔵菩薩。 秘仏



 

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 大師堂





  24番 最御崎寺・ほつみさきじ

 空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。


 

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  仁王門




 

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 鐘石   叩くと極楽へ届く

 





 

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  本堂、  本尊は、虚空蔵菩薩です。 秘仏



 

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  多宝塔



      2024-8-15



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2024年08月14日

龍馬姉夫婦のお墓



 27番神峯寺へ参詣を終えた帰りに安田のまちへ行くことになった。 ここは勘違いで、後に行くことになる吉良川の歴史的町並みの事だと思っていた。 安田のまちなみ交流館を訪れたけれど近くの街並みは古いものが残っていなかった。 近くに龍馬の姉の千鶴の嫁いだ高松順蔵とのお墓があったので行くことにした。

 

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  安田 周辺図



 高松順蔵は1807(文化4)年に郷士の長男として生まれた。 8歳で郷士職を継ぎ、江戸で学問を学び、剣術を極めます。
また書や篆刻を学び、和歌をたしなむ文化人でした。
 坂本龍馬の長姉・千鶴の夫で、若き日の龍馬の思想形成に大きな影響を与えました。 私塾には中岡慎太郎、石田英吉らがいました。 

 

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 坂本直 1842−1898

 順蔵の長男の高松直は土佐勤皇党に属し、龍馬の紹介で勝海舟の海軍操練所に学び、龍馬と同じように脱藩し海援隊に入った。明治4年に龍馬の家督を相続して坂本直となる。晩年はキリスト教徒として弟の直寛(なおひろ)に厄介になる。

  

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 こじんまりした夫婦の墓




       2024-8-14

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2024年08月13日

土佐・安芸   ヨット泊地

   



 高知を出て奈半利に行く予定であったが、機関が途中で冷却水異常の警報が鳴り、エンジンを止めて予備の2馬力船外機と帆走にて安芸へ行くことになる。



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高知・安芸・室戸  周辺図


 

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  赤丸は停泊地 、 赤星印は錨泊地


  港内に入り赤星印の位置で錨泊して冷却水ポンプを分解して、インペラーを交換した。

 

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   赤矢印の岸壁に係留した。


 最寄りの駅は球場前駅である。 買い物は安芸駅まで行かないと充分ではない。



     2024-8-13


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お遍路23 27番神峰寺・こうのみねじ

 安芸から「くろしお鉄道」に乗り唐浜駅で下車、そこからタクシーにて神峯寺を参詣した。 「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所としここへは麓からの急峻な遍路道を登るしか行きつけなかったが、住職らの努力により車で行けるように整備された。



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  安芸 周辺図


27番 神峰寺



 神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。


 

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  本堂     本尊は、十一面観世音菩薩

 

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  大師堂



   2024-8-13


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2024年08月11日

高知湾でインペラ破損


  

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   高知湾での冷却水異常地点



 昨春と秋に2回とも冷却水のトラブルに巻き込まれている。春にホンダワラの巻き込みがあるので充分な注意をして航行してきた。

今年は幸いにも、潜ってそれを取り除いたのは愛南の1回だけで少量であった。 

 高知ヨットクラブを出て香南の沖にさしかかると冷却水の警報が鳴った。機関を止めて、ホンダの2馬力をセットしてあるので10分ほどでエンジンがかかった。 購入して6年余り初めて予備機関として使用した。スロットルを強くして途中で燃料切れになるのを恐れてジブと一緒に2ノット位で走る。 奈半利へが今日の予定であったが、土佐安芸へ入港予定を変更した。  



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  赤星印で錨泊して修理


 機帆走で入港して錨泊。 冷却ポンプを取り外して、キングストンへのパイプをくわえて強く吹いてみる。 ゴボゴボと小さい音がするようなので吸水口のツマリではないようだ。 ヤンマー2GMは冷却水ポンプを機関から取り外さないとインペラーの確認ができない。 分解するとインペラの羽根のひとつが折れていた。 インペラを交換してポンプを取り付けた。 これで室戸岬港と日和佐港までは航行できた。 どっこい、日和佐港から徳島ケンチョピアに向かう際に岸壁を離れる前にエンジンの白煙がスゴイ。出港を中止して点検すると、冷却水ポンプを駆動するファンベルトが外れていた。 安芸での修理がまずくてポンプの取り付けボルトの締め付けが緩かったのであろう、固く締めて出港することが出来た。 まだまだ、排煙が多い?ように思う気になります。



    2024-8-11


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2024年08月09日

高知歴史散歩、 龍馬生家


 
 はりやま橋のバス停で下車、レンタサイクルを借りるべく近くを探したが、JR高知駅に行くことになる。スマホ使用のものは見つかったが、老人には使いこなせずに断念したので。 下図のように歴史的なところを自転車で徘徊した。 

 

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  高知歴史散歩 地図



 

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  はりまや橋

 日本三大がっかり地点であるというが、高校の修学旅行ですでに見ていたので驚くことはなかった。

 

    龍馬の生家

 坂本龍馬の家は郷士であったのでお城から遠いところにあるのかと思いきや意外と近くであった。 お城の南側の電車筋にある。 現在は病院が建っていた。


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  龍馬の生家   現在は上町病院



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  近藤長次郎邸跡碑  近所で遊び友達だったことが分かる

 長崎でお墓を訪ねたが長次郎の邸跡に行く。 龍馬の家の近くであったが道路わきにあり見つけられずに近くで尋ねた。



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  大川筋 武家屋敷資料館

  土佐藩の武士,旧手嶋家の住宅で当時の武家の建築様式を残している城下では唯一の建造物です。 武家屋敷がもっと残っていそうですが、下屋敷位しか武家屋敷風の建物がないようです。

 

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  旧山内家下屋敷長屋展示館

 

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  展示館内にあった夕顔丸の模型




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  武智瑞山殉節の地

 この付近に、武士の牢屋である揚屋(あがりや)があった。武市瑞山が当時切腹したこの付近になる。



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 野中兼山邸跡、 ほとんど城中というような追手門前にある

  野中兼山は、土佐藩の2代藩主と3代藩主に仕えた家老。新田開発や土木事業で功績がある一方、領民に対して過酷な賦役を行い、晩年に失脚している。 



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  板垣退助誕生地

  板垣は中岡慎太郎と共に西郷らに会って、武力討伐の薩土密約を結び、戊辰の役では土佐藩の立役者となった。 



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 後藤象二郎生誕地

 日本キリスト教団土佐教会、聖泉幼稚園の門前に後藤象二郎先生誕生之地の碑がある。坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになった。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功した。


 

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 福岡孝弟先生誕生地碑

  藩主の側役となり公武合体運動に尽力した。また坂本龍馬の海援隊などと提携し、藩営商社開成館を通じて殖産興業策を推進した。明治維新後には越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。


 

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植木枝盛生誕地

 自由民権運動に加わった理論的指導者の植木枝盛の生誕地に建つ碑。枝盛が構想した「東洋大日本国国憲按」は、最も民主的、急進的な内容であった。「自由は土佐の山間より出づ」は枝盛の残した言葉として有



 

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  吉田東洋受難の碑

 吉田東洋は、文化13年(1816)生まれ、長宗我部の名将吉田正重より出ているといわれる。学才に優れ、郡奉行・船奉行を経て十五代藩主山内容堂に抜擢され、参政の職についた。長浜に鶴田塾(小林塾)を開いて、後藤象二郎・板垣退助・岩崎弥太郎・福岡孝弟らを教えた。文久2年(1862)4月、外出先から帰宅する途中で土佐勤王党の党員の手にかかり、暗殺された。



  

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 立志社

  立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買い取って本拠地とした。 高知に戻った板垣は、板垣より先に帰郷して失業士族の生活救済、その子弟の教育機関としての学校の設立準備を進めていた片岡健吉・林有造らと協議し、同年に愛国公党によって建白された民撰議院の開設を期待する政治思想を折り込んだ結社として発足することとなった。


  長州の萩と比べて、高知は石碑が残るばかりで面白味が欠ける印象を持った。 萩の前原一誠宅などは現在も建物があり、表札があり縁者が住まれているようで見学は出来ないけれど納得感があった。



       2024-8-9


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2024年08月07日

高知城



  山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入った。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。

  想像していたよりもこじんまりした印象を受けた。外様ゆえに遠慮したのかもしれない。 天守と言い本丸御殿っと言い現存しているので一度は見ておくお城と云えよう。


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   高知城図



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  追手門




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  詰門


 
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  雨の多いところゆえに石垣を守るための雨樋




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   天守、   4重6階、 重文

  享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に復元されたもの。




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  天守から本丸を覗く



 

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  懐徳館・本丸御殿   書院の間



 

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  黒鉄門





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   搦手門



     2024-8-7

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2024年08月06日

お遍路22 28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺、31番竹林寺、32番禅師峰寺、

   

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   高知市東 マップ

  土佐久礼より浦戸湾にある高知ヨットクラブのゲストバースを使わせてもらう。 そこを拠点にして31番、30番、29番、28番、32番と順にお遍路をした。


  31番 竹林寺

  牧野植物園の隣に竹林寺はある。

 神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 – 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。




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  五重塔


 

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  本堂   本尊は、文殊菩薩




   28番 大日寺

 土佐くろしお鉄道「のいち」駅より2kmであるが、御免駅にてタッチの差で乗り遅れた。次発まで2時間余あるのでタクシーを呼ぶ。

 天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。



 

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 山門


 

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  本堂  本尊は、大日如来  秘仏


 



  29番 国分寺



 御免駅よりタクシーで往復しました。

 国分寺は、奈良時代に聖武天皇が国分寺の建立の勅願により創建されたお寺です。有名な土佐日記の著者紀貫之が国司として4年間滞在した場所としても知られるお寺です。


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   仁王門




 

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  本堂    本尊は、千手観世音菩薩   秘仏



  

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  大師堂


 

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  大師堂の横には、禁酒の効果があるとされる酒断地蔵尊

 ビール好きさんにお札をお土産に買いました。



    30番 善楽寺


 牧野植物園前でタクシーに来てもらいここへ行く。帰りは読み方がわからない薊野(あぞうの)駅より御免駅までJRで行く。土佐の地名は馴染みのないものが多いです。ちなみに隣駅の土佐一宮駅は(とさいっくえき)と呼ぶのだそうです。

 大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。


 

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  本堂  本尊は、阿弥陀如来です   秘仏




   32番 禅師峰寺・ぜんじぶじ

  聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、山の姿が補陀落山の八葉の蓮台に似ていることから八葉山、求聞持法を修したことから求聞持院禅師峰寺と寺名を定めたという。

 土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。


 

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 十一面観世音菩薩像



 

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  本堂 本尊は、十一面観世音菩薩  絶対秘仏



 

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  大師堂



 

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 境内から眺める高知湾



           2024-8-6


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2024年08月04日

高知ヨットクラブ  ヨット泊地

 

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  高知ヨットクラブ  周辺図



 土佐久礼から高知ヨットクラブのゲストバースにてお世話になることになった。 その途中で36番青龍寺に行くべき近くの竜崎の船溜まりに係留するつもりであった。 前日にそこの水深が浅いことに気が付いて取りやめてクラブに直行した。



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  赤丸は係留地

 ゲストバースにつけるまで、担当の方からヨットに携帯の電話をもらい、安全のための適宜指示をいただいた。 また、翌日はクラブの会長さんから、荒天で増し舫いのアドヴァイスをもらうことができた。 他にも何から何まで大変お世話になりありがとうございました。


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  横抱きして係留



    2024-8-4


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2024年08月02日

お遍路21  36番清龍寺、35番清瀧寺、34番種間寺、33番雪蹊寺、

  

  ヨットで久礼に停泊しました。翌朝から動き、土佐久礼駅より特急で伊野駅まで行き、そこからタクシーにて35番、36番、34番、33番札所を廻ってきました。最後は桂浜で下車して龍馬像と龍馬記念館を見る。 大昔の高校の修学旅行で桂浜には来たが、もう覚えはありません。路線バスにて高知駅へ行き、JRで久礼に帰る。

 36番青龍寺には近くの船溜まりにヨットを着けて訪れる予定でしたが、タクシーのドライバーが間違えてそこへ連れて行ってくれました。港を実際に陸から確認すると、水深が浅くヨットを着けられそうもありませんでした。 座礁を免れたということでしょう。 35番と36番は同名の「せいりゅうじ」で龍の漢字がサンズイがつくかつかないかの違いですので、運転手が間違えても仕方がないところです。そのことは結果的に幸運であったというべきです。



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  高知市西部地図



  36番 清龍寺・しょうりゅじ

 弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという.




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  三重塔



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 本堂  本尊は、波切不動明王




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 大師堂

 



   35番 清瀧寺 ・きよたきじ

 養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。

 平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。



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 本尊は、薬師如来



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  大師堂



  34番 種間寺・たねまじ 


 用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したという。
 



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  本堂はコンクリート造、 本尊は、薬師如来


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  大師堂




  33番 雪蹊寺 

 空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。
 なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。

 

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   本堂、  本尊は、薬師如来です。



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   大師堂



     2024-8-2


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2024年08月01日

窪川散歩

  


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 土佐くろしお鉄道は中村―宿毛、御免―奈半利と分断して高知県の西部と東部を運行している。 37番岩本寺へ行くのに、土佐くろしお鉄道の宿毛・中村線、土佐佐賀より窪川往復を乗車した。 後で気が付いたのであるが地図にあるようにこの線はループした路線があるようだ。ほぼトンネルということで乗っていてもその事実を知らなければ気が付かない。また窪川駅は宇和島へ行く予土線の接続駅でもある。



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  予土線、 宇和島行き、  新幹線を模したユニークな車両



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  窪川周辺図

 37番岩本寺の参詣を終えて、観光案内所にて街並みでも見て廻ろうとレンタサイクルを借りた。 谷干城の誕生地を訪ねるべくグーグルマップに従い予土線と川岸沿って30分も走った。 とても着きそうもないので、民家を訪ねていた業者に不安になりそこを尋ねた。谷干城は川向うの国道・県道381を戻るようである。これだからグーグルマップは注意して使わなくてはならない。 若井大橋を渡るときに眼下に若井沈下橋を見る。 この川は四万十川の上流であった。



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  四万十川と若井沈下橋



 

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  陸軍中将・谷干城像、  戊辰戦争で活躍し、 熊本城で西郷軍を足止めした。



 

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  谷干城 生誕地

 mac窪川店の駐車場の一角にある。



 

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  旧都築半平別邸  

 1822年(文政5年)土佐藩はこの地方の開発のため、身分や職業の制限を撤回して開墾者を募集した。それに芸西村和食の都築家の次男の半平が窪川に移住して新田開発に取り組んだ。その後、半平は酒造業や水産業などの実業家として成功を収めた、



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  茂串城・窪川城 案内板

  1500年頃鎌倉から来た山内氏が窪川氏を名乗る。長曾我部氏の配下となり文禄の役で戦死し断絶した。 岩本寺の奥の山に城は有るのであるが登り口が分からずに行くのを断念した。



      2024-8-1


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2024年07月31日

土佐久礼   ヨット泊地

   


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  土佐久礼 周辺図


  土佐佐賀より土佐久礼に向かった。 凪の日であったが南東の大きなウネリが港内に入り、この風の時化の時にはここの停泊は不適であろう。



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  赤丸は停泊地  青丸は候補地




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  矢印の岸壁側に係留できる



    2024-8-3


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2024年07月30日

お遍路20  37番岩本寺

     
土佐清水を離れ、足摺岬を廻ると、いよいよ太平洋だ。 土佐佐賀にヨットを停泊した。


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37番 岩本寺

  土佐佐賀駅より窪川駅まで中村発の高知行の特急に乗った。 ここらあたりは本数が少ないので一つ逃すと2時間待ちということが生じる。 岩本寺までは徒歩10分である。

 天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が開創したのが起源であるという。その後空海が増築した。 本堂には全国の有志が描いた天井ががある。



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  仁王門



 

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   左は大師堂、中央は歓喜天堂





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 本堂 天井絵



     2024-7-30

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2024年07月29日

土佐佐賀   ヨット泊地




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 高知県南東部




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  赤丸は停泊地  青丸は候補地


 土佐湾の諸港は凪の時でもウネリが入る時が多く、風向とウネリの方向に注意が必要である。 ここは台風でもやってこなければ安心できる港のようである。 ここの南には避難港の土佐上川口がある。

 スーパーとガソリンスタンドはある。


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  土佐佐賀 係留地



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 上川口港、   湾内に避難用ブイが設置されている



   2024-7-30


 
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2024年07月28日

お遍路19 38番 金剛福寺



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  足摺 周辺図



38番 金剛福寺



 38番金剛福寺は足摺岬灯台のごく近くにあり、ヨットでその岬を廻った時には四国最南端とはこのことだ、すぐに確認できる。

 弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。



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  仁王門



 

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 本堂



 

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  愛染堂



     2024-7-28


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2024年07月26日

土佐清水越  ヨット泊地



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 土佐清水 周辺図

 愛南かわうそ海の駅より停泊地に不安があった宿毛を避けて土佐清水越にヨットを廻した。そこから38番金剛福寺とジョン万次郎資料館を訪れる。 資料館は廃止になった長距離フェリーのターミナルを改装して使われている。



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 資料館



 展示の内容はジョン万次郎の生涯をたどっていけるようになっている。 貧しい片親の家に生まれた万次郎が寺子屋にも行かずに漁師になり、遭難して米国捕鯨船に助けられて船長の援助を受けて学び、日本に帰国して龍馬などに影響を与えて、士分に取り上げられて和親条約締結に向けて活躍し、教育者になり航海術や英語などを教えた。

 

       土佐清水越 ヨット泊地



      2024-7-26




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2024年07月24日

佐田岬 三崎   ヨット泊地



  伊予長浜より佐田岬近くの三崎に停泊した。宇和島や「かわうそ海の駅」に行くには八幡浜などの湾奥に行きたくないのでここを選んだ。 

 実際に中に入ってみると港内に海草が海面近くまで育っており、プロペラに巻き付く恐れが大きく、心配であった。

 買い物するお店もないような小さい漁港であるので、翌朝には早々に出港した。


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  佐田岬・三崎



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  赤丸は停泊地




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  停泊位置



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  湾内に繁る背の高い海草



     2024-7-22


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2024年07月22日

紫電改記念館


かわうそ村海の駅にて天候待ちで時間ができたので、紫電改記念館に行って来ました。 山の中あるので南レク公園からタクシーで往復することになる。

 

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 愛媛県・愛南町 マップ



 ここの紫電改戦闘機は1978年に漁師さんにより久良湾海底から見つかったものである。 なぜこの近くに着水事故を起こしたのかと云えば、先の大戦末期に優秀な搭乗員を集めて本土防空戦を戦うための部隊第343海軍航空隊が松山にあったからである。


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 紫電改は水上戦闘機・強風を陸上型に再設計されたものである。ゼロ戦は1000馬力ほどのエンジンであるが、紫電改は場合の2000馬力のエンジンを持っている。大戦末期では米国戦闘機に負けていたが、紫電改は性能的には敵と同等の能力で最優秀の戦闘機であったとされる。 

 

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  燃料タンクの防弾処理がされたもの、ゼロ戦にはこれは無い、初めて実物を見た



       2024-7-22




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2024年07月20日

お遍路18 40番観自在寺、39番延光寺




  かわうそ村海の駅に停泊して40番観自在寺と39番延光寺を訪れる。 観自在寺には地元の漁師さんが連れていってくれました。 そこからバスで宿毛へ行き、タクシーにて延光寺をお遍路した。



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  愛南町・宿毛  お遍路図


   

  40番 観自在寺  


 平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。

 送ってもらいうことが出来てバスで行くより1時間も早く着いた。 納経所が開く時間8時まで境内で待つことになる。



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  仁王門



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 本堂、  薬師如来が本尊





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  大師堂



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 寺の宝物を収納展示する宝聚殿八角堂



  39番 延光寺

 聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したとされる。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったとされる。


 

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  本堂


 

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   中庭



    2024-7-20

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2024年07月19日

伊予長浜 ヨット泊地

   

 長浜新港に停泊した。 青丸の空いているポンツーンは停泊中の3日間には使用されていない。 漁協は良い返事をくれないようだ。 北東の風の荒天であったけれど、ウネリもあったが耐えることができた。 赤丸停泊地は漁協の許可をもらったけれど、ビットの設備が無く、何とか工夫して悪天候をしのいだ。 ポンツーンに停泊できれば良かったけれども。 使っている気配が無いので、云われるまでそこに置いておくのもひとつの手かも?

 旧港もひろいようだけれど適当なところは見つからなかった。



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  赤丸は停泊地、 青丸は候補地



 

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 植え込みを利用したりした もやいロープ



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  ドラム缶を利用してもやいを植木で支えた





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 停泊候補地



   伊予長浜散歩

  日本最古の可動橋と龍馬の宿を訪ねる。



        2024-7-19 

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2024年07月18日

お遍路17  43番明石寺、42番佛木寺、41番龍光寺

 

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 御遍路17 地図



   43番 明石寺  

 伊予長浜よりJR特急で卯之町に着き、そこから歩いて43番明石を訪ねた。街はずれからお遍路道を行くことになった、石畳の登り山道で木立の日差しが少ない道を歩いた。途中で歩き遍路の方とすれ違う。 ほとんど歩きの人は少ないので見かけずらい。 ひょっとして逆打ちだと会えると云われる弘法大使様ではなかったとさえ後から考えると思われた。 その後もヨットで廻っているせいか、最後までその気配を感じることはなかったので。 本当は遍路まがいのことをしている小生にはその機会が無いということであろう。

 6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建し、天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として、その後、荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。


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  お遍路道 


 
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 仁王門



 

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  本堂

 ここでタクシーを呼び、42番 佛木寺と41番龍光寺を訪ねた。






  42番 佛木寺 ・ ぶつもくじ


 大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。

  

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 本堂と大師堂


 


   41番 龍光寺


 空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられてる。


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 稲荷神社

 この赤い鳥居は稲荷神社のもので、そこから40段ほど上がった先に、稲荷神社の社殿があります。 社殿が龍光寺の本堂でしたが、神仏分離令により、旧本堂を稲荷神社とし、新たに龍光寺は本堂を建築することになった




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  本堂



2024-7-18

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2024年07月16日

松山 中島  ヨット泊地




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中島、クダコ水道 航路図

  堀江海の駅は北東風が吹くと直接ウネリが港内に入るので、中島へ避難しました。 停泊の問題は避難港になっているということで問題ないようです。

 入港して左側へいくとポンツーンがあり地元のヨットも定係している。 このポンツーンの反対側に2隻ほどの係留余地がある。

スーパーもレンタサイクルもある。 ウネリも入らないようで荒天を避けるにはふさわしい。



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  赤丸は停泊地



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  赤矢印 係留地


  忽那海賊の城




    2024-7-16



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2024年07月14日

 黒岩城、本山城、泰ノ山城、熊磯城、九多児城,   忽那水軍のお城




 松山堀江海の駅から次の荒天を避けるため予定外の中島へ行きました。ちょうど柑橘類の受粉の時期であったのか、島中にミカンのような匂いが漂って化粧水に浸っているような気分であった。

 城廻の気分が沸き起こり、レンタサイクルにて島の城跡を見てきました。そこは忽那水軍に関するお城であったようです。


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 中島・忽那島 周辺の城


   黒岩城


 さすがに水軍城のひとつ、城跡から大浦湾が望め見晴らしがよい位置にある。 



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  黒岩城



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  案合板



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 中島・大浦港を望む


  



 本山城

中島・小浜の大串海岸に面した標高106mの本山山頂に築かれた城跡です。

文治3年(1187年)、忽那兼平が水軍活動の根拠地として、初めて築いた城である。  東は睦月島に相対し松山の北条を見通す、西は長師、神ノ浦を眼下にし、怒和島、津和地島や広島湾を見通す、南は興居島、伊予灘、九州航路を見通す位置であった。

豊臣秀吉の四国攻略で、天正13年(1585年)、小早川軍が来襲し、落城した。


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 案内板

 麓の公園和気まで行ったが登り口も分からず、整備もされていないようなので諦めて引き返した。



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 忽那水軍 マップ

 忽那氏五代の兼平は3代将軍の源実朝によって、地頭職に補任されて鎌倉幕府政所の水軍となる。文辞3・1187年幕府の命で忽那島・中島に二城・本山城・泰ノ山城を築いた。



   泰ノ山城 

 文治5年・1189年に築城。泰ノ山は高さ289mで付近の忽那七島を一望する。北に安芸灘越に安芸の島々を見、広島を見通す。伊予・周防・安芸をまたぎする瀬戸内水運の関となり、西瀬戸の制海権を掌握する位置になる。  南北朝時代には瀬戸内最強の水軍になる。

 今回は訪ねることが出来なかった。 忽那水軍は中島に荒天避難のために予定外の停泊をするまで、ノーマークであった。本も2冊手に入れたので読んで機会があれば再訪したいものです。



   熊磯城

 岬の鼻にある小島に熊磯城はあった。 干潮の時は繋がって渡れるようであるが、当時もこの小さな面積では小さな砦、否、見張り所のようなものであったろう。


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  九多児城・クダコ


 クダコ水道は上関ー弓削島へのヨットで航行する時によく利用する航路です。潮流もあり速度が2ノットくらいしかでないときもあり。クダコ島にあるこの城は難攻の城であったでしょう。 カタカナ名ばかり知っていたので九多児という漢字だとは気が付きませんでした。 ここを訪ねるのもなかなか難しいと思います。


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  案内板

 


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 赤矢印 九多児城



     2024-7-14


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2024年07月12日

お遍路16 50番繁多寺、45番岩屋寺、44番大宝寺、51番石手寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺  49番浄土寺、




  ヨット仲間のUさんが長崎から松山へ会いに来てくれました。 44番と45番の札所は久万高原の山中にあるお寺ゆえに大変であると思われた。松山まで乗って来られた彼の車により、山道を乗せてもらって44番から51番までのお遍路を助けて頂いた。



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 お遍路 松山図


  51番 石手寺


 神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。



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  仁王門、 国宝




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  三重塔、  重文




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  本殿、 重文

 


  50番 繁多寺・はんたじ

 天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。後に徳川将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。



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  山門



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  本堂



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  大師堂





  49番 浄土寺

 天平勝宝年間(749年 – 757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗したという。



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  仁王門





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  本堂、  1482年創建  重文



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  大師堂





  48番 西林寺

 伊予鉄道 横河原線 - 鷹ノ子駅 下車 (0.8 km)

 大同2年(807年)に空海(弘法大師)が巡錫の折、今の場所に寺を移されたと云われている。日照りに苦しむ里人のため、奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたとも云われている。



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  本堂、  本尊は秘仏でみるこよができない



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  大師堂





   47番 八坂寺


 大宝元年(701年)に、河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ、ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。



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  橋門



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  本堂、  本尊の阿弥陀如来は50年に1度の開帳



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  大師堂





    46番 浄瑠璃寺  

 大仏開眼を前にした和銅元年(708年)に布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝わる。



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  案合板





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  本堂、  本尊は、薬師如来です




   45番 岩屋寺


 弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。

 本堂横にはしごがかけられていて、岩の中腹に登ことができます。


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  いかにも岩屋寺の風情,本堂,  本尊は、不動明王です。絶対秘仏




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  大師堂



 


  44番 大宝寺 だいほうじ


 百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。



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  石段を登ると本堂



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  大師堂



   2024-7-12

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2024年07月10日

お遍路15   53番園明寺、52番大山寺

 


  松山堀江海の駅に昼頃着く。夕方から東北寄りの風が強くなるのが予想された。ポンツーンにその風をまともに受ける側より反対側にシフトするのを怠ったため、翌朝までハルが岸壁に当たり大変な目に会う。 ここの港は北東側に防波堤が抜けているので、充分な注意が必要であった。 少しは承知していたが、ナメていたと云うしかない。




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 松山堀江 周辺図


 53番園明寺はJR和木駅より2−3分である。 堀江海の駅はJR堀江駅まで5−6分で行ける。 ここはガソリンスタンドが潰れたので、給油だけはとても不便である。



  53番 園明寺

 天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を刻んで開基した。その後、この地を訪れた空海(弘法大師)が荒廃した伽藍を整備して再興する。



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  本堂




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  龍の彫刻、 左甚五郎作という




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  大師堂




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 キリシタン灯籠、  云われは定かでない、譜代の松山藩も武士に隠れキリシタンがいたのであろうか





  52番  大山寺


  586年豊後臼杵の真野の長者というものが近くで海難し救助された。そのお礼に木組みを整えて再訪し、一夜にして建立したと云う(一夜建立の御堂の伝説)。その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。



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  四天王門(3の門)



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  本堂  国宝 1305年



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  鐘楼堂



    2024-7-10



 
posted by 速魚 at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記